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(1) 筆者は、1998年8月から1999年2月まで、オポルトにあるポルトカレンス大学の研究員として、ポルトガルに滞在して研究する機会を得た。本稿はその成果の一部である。そのような機会を与えていただいたポルトカレンス大学Camilo Cimoudain de Oliveira氏及びDaniela de Carvalho 氏、また私の勤務する法政大学に謝意を表したい。さらに、若干の資料を提供し、利用の便宜を図り、相談にのっていただいたリスボンにある社会人大学(オープン・ユニバーシティUnibersidade Aberta)付属の移民・文化交流研究所(Centro de Estudos das Migracoes e das Relacoes Interculturais/ CEMRI)の Maria Beatriz Rocha-Trinidade氏及びAna Paula Cordeiro氏にも謝意を表しておきたい。
(2) 人権研究に関する筆者の問題意識については、さしあたり、岡野内 正[1999] 、また、中東での労働力移動に関して、人口移動と人権との関連について問題を提起した、岡野内 正[1994]をも参照されたい。
(3) ポルトガル史の全体像については、日本語の著作として、コンパクトで優れた最近の通史の試み、金七紀男[1996]を参照されたい。各時代の移民問題についても的確な言及がなされている。もとよりポルトガル史研究が最も盛んなポルトガルでは、集団執筆のシリーズものも含めて多くの通史が出版されている。最近のものとしては、現在刊行中のJoel Serrao及びA. H. de Oliveira Marquesの編集になる『新ポルトガル史( Nova Historia de Portugal)』全13巻があり、F・ブローデルらの影響を受け、社会経済史を重視した興味深い内容になっている。その編集者のひとり、A. H. de Oliveira Marquesの執筆になる定評ある通史には、英訳や邦訳もある(マルケス[1981])。それ自体興味深い主題である19世紀以後のポルトガルの歴史学・歴史認識の展開については、Torgal et al[1998]が最近の文献まで網羅的に言及していて便利である。 歴史的な視野をもってポルトガルの移民問題を論じた古典的名著はSerrao[1977](初版は1972年、筆者が参照したのは第3版。1982年に第4版が出ているが筆者未見)であり、 15世紀以来現代までの移民問題に関する文献を抜粋した資料集、Serrao, et al.[1976]とともに移民問題の基本文献となっている。資本主義と移民との関連について、先駆的な問題提起を行ったAlmeida and Barreto [1970]、 15世紀以来の世界経済システムとの関連で、ポルトガルの移民を捉える視点を強調したGodinho [1978]なども、経済史的な移民問題への接近の基本文献である。移民問題も含む現代ポルトガル社会変動の全体像については、1960年から1995年の時期については、Barreto(ed.)[1996]が最も便利である。そこではFerrao[1996]が、国内と国外移動を合わせて1960-1995年の時期の人口移動の問題を総括している。それ以前すなわち1930年から1960年までの全体像については、Rosas(ed.)[1992], 19世紀末から1930年まではMarques(ed.)[1991]がカバーしており、人口や経済発展についての概観を含む。 なお、経済史では、Mata & Valerio[1994]が、先史時代以来のポルトガルの全歴史をカバーした通史であり、特に1910年から1998年までの時期については、Mateus[1998]が、経済発展についての諸指標を収録していて便利である。その他、より特定の時代やトピックに焦点を合わせたものについては、以下の各節で言及したい。
(4) 注2の諸文献のほか、先史時代からローマ帝国までの時期について、Alarcao(ed.)[1990]、ゲルマン民族の侵入から「領土回復」までの時期について、Marques (ed.)[1993]を参照されたい。ローマ時代のこの地域の大農場が奴隷を用いていたことは確かであったが、その実態は複雑であり、検討を要する(Alarcao(ed.)[1990];pp.421-422, p.427)。なお、ローマ軍によるルシタニア征服にあたっては、捕虜となった2万人が奴隷として売られたとされている(Ibid., p.347)。この地域のゲルマン時代の奴隷制について、 Marques (ed.)[1993]pp.103-105)。また、いわゆる古代末期の民族移動にかかわる研究状況について、足立広明[1999]をも参照。
(5) 注2の諸文献のほか、14-15世紀について、Marques[1987]を参照。10-11世紀ころの奴隷解放と農奴や自由民の登場について、 Marques (ed.)[1993]pp.323-328。
(6) 古代的世界を特徴づける奴隷と、中世的世界を特徴づける農奴との差異をどう把握するかといった問題設定は、単線的発展段階論の図式に基づくもので、時代遅れであると感じる向きもあるかもしれない。けれども筆者は、人権論的な関心を持って第3世界の現状を視野に入れる歴史社会学を構成する場合、それが基本問題の一つになると考える。この問題をめぐっては、内外で膨大な論争があるが、筆者はさしあたり次のように考えている。所有の主体としての市民と対比するとき、およそ所有の主体となれない奴隷は、家畜と同様の存在である。もとよりその場合でも、家畜を放牧する主人が家畜と一定の餌場との結びつきを許すことがあるように、生産手段との結びつきを許されることはありうる。これに対して、農奴は、所有の主体として生産手段をもつ権利が半ば、限定的に認められている存在として規定できる。奴隷と比較して、農奴が、人権論的にみてより人権を保障された存在であることは言うまでもない。もとより、このような概念図式をもとに実際の資料をもとに実証することは容易な作業ではない。とはいえ、明確な理論的概念なしでおよそいかなる実証もなしえないことも、言うまでもない。この問題に関する日本の論争の中では、筆者は、安良城盛昭[1989]などの社会史批判に注目している。比較的最近の英語圏の研究動向については、たとえば古代から近代までを視野に入れた、Bush[1996]を参照。
(7) この時期の帝国史全体の基本文献としてGodinho[1963, 1965]およびBoxer[1969]がある。 Russell-Wood[1992] は、15世紀から19世紀初頭までのポルトガル人の海外進出についての全体像を描こうとする最近の試みである。また、Dias(ed.) [1998]は、15世紀という「黄金時代」についての最新の整理。Pearson [1987] は、インドへのポルトガル進出と、インドでのポルトガル系住民についての優れた通史。きわめて有益な文献案内をも含む。Pearson [1976]は、インド側に焦点を当てたもの。なお、Joel Serrao及びA. H. de Oliveira Marquesの編集によって各植民地の地域史に焦点を当てた『新ポルトガル領土拡張史( Nova Historia da Expansao Portuguesa)』シリーズが、先述の『新ポルトガル史( Nova Historia de Portugal)』の姉妹編として同じ出版社から刊行されつつある。
(8) 第2表におけるブラジルの人口は、過大評価されている可能性がある。ブラジル史の側でよく引用される数値は、1798年のブラジル人口を、297万5,000人、1818年を380万5,000人としている。さらに、その内訳として、たとえば1818年については、奴隷と解放奴隷からなるアフリカ系住民が251万5,000人(66%)、ほとんどポルトガル系であるヨーロッパ系住民が104万人(27%)、先住民インディオを25万人(7%)としている。富野・住田[1990]74ページ注23、及び、Russel-Wood[1992]p.62を参照。
(9) 15世紀末のユダヤ教徒人口は、ポルトガル人口の1割近くに達していたが、それは1492年のスペインからの追放令で逃れてきたユダヤ教徒の流入のためと言われている。資産のないユダヤ教徒は奴隷化されることになっていたが、さらに1497年には、強制的改宗によって、「新キリスト教徒」が誕生した。1536年の異端審問所設立以降は、この新キリスト教徒がしばしば弾圧の対象となった。この時期の移民の流れの詳細については注(7)の諸文献を参照。当時の移民数には、いずれも推計であって、論者によってかなり数値に差がある。たとえばRussel-Wood[1992]p.60以下を参照。なお、ポルトガルからブラジルへの移民、すなわち独立以前のブラジル入植・開拓史については、ブラジル史の側からの膨大な文献がある。さしあたり、通史的概説として富野・住田[1990]、文献案内を含む山田睦夫編[1986]を参照されたい。
(10) ブラジル史の側で標準的とされるこの数値について、富野・住田[1990]、44ページ参照。アフリカからブラジルに向かう動きを中心とするこの時期のポルトガル帝国の奴隷貿易については、いくつかの有名な論争を含む膨大な研究があるが、さしあたり、室井義雄[1999] 、池本幸三・布留川正博・下山晃[1995]、布留川正博[1988, 1989]、Miller[1988]、Conrad[1983]、Conrad[1986]、Saunders[1982]などを参照。
1500年に「発見」されて以降のブラジルは、当初の、独占商人による染料用のパウ・ブラジル伐採交易時代を経て、1532年以降、砂糖プランテーションのための入植政策としてレコンキスタ時代のやりかたを再導入するという意味で、封建的な開発政策、カピタニア制、総督制、セズマリア制などが次々と導入されていった。当初は、先住民「インディオ」の奴隷化が試みられたが、1570年、インディオの奴隷化禁止令が出されるとともに、アフリカの黒人奴隷の輸入が開始された。
1570年代から1670年代までの「砂糖の時代」の100年間で約40万人の黒人奴隷が輸入され、1614年から1639年までに30万人の先住民インディオが非合法に奴隷にされたとも言われる。ブラジルと西アフリカとヨーロッパとを結ぶいわゆる三角貿易が、このころ衰微しつつあったアジア貿易に替わってポルトガルの富の源泉となった。入植者が増大し、砂糖生産は、エンジェーニョと呼ばれる大農場で、共に住む白人の農園主や小屋住み農の家族、ムラートと呼ばれる混血の使用人(労働者)、そして黒人奴隷によって行われたとされている。このような奴隷制大農場の基本構造は、19世紀初めの独立まで、基本的に変化しなかったものとされている。ブラジル史研究の側からは、従来、この奴隷制農場が封建的かどうかという問題が立てられて議論されてきたようである(たとえば富野・住田[1990]28ページ、またSoares[1991]p.106, note 4)。筆者は、むしろ先述のように、古代の奴隷制農場との比較において、古代的なものの復活を議論したいと考えるが、実証的検討は今後の課題としたい。もっとも、ブラジルなどの植民地奴隷制と古代ギリシャ・ローマのそれとを比較する議論もある。1960年代半ば以降のE. D. Genoveseの古代奴隷制復活論の提起と、それに対するC. F. S. Cardoso、J. Gorenderらの議論がそれである。この論争の検討も他日を期したいが、さしあたり、Soares[1991]pp.89-97を参照されたい。
(11) ここでいう半封建的寄生地主制に基づく農業資本主義の成立は、19世紀のみならず、1974年革命以前のポルトガル資本主義を把握するうえでの基本問題として、社会経済史的あるいは比較史的にみてさらに検討すべき問題であるが、さしあたり、金七紀男[1996]183、192ページの簡潔な整理を参照されたい。
(12) この世界的な奴隷貿易・奴隷制廃止については、北部アメリカやイギリスでの自由な賃金労働者からなる労働力市場の登場と奴隷制廃止運動との関連をめぐって展開された有名な論争がある。この論争については、主要論文を収録した、Bender(ed.)[1992]が便利である。ブラジルの奴隷貿易・奴隷制廃止については、さしあたり、山田睦夫編[1986]第4章、富野・住田[1990]103-113ページ、また研究状況について、Schwartz[1992]pp.12-13, pp.18-19を参照されたい。
(13) 渡航費などの巨額の「賃金」の「前貸し」によって数年間にわたって労働者の移動の自由を制限する、いわゆる「契約労働(contract labour)」については、その奴隷制との対比をめぐって、論争がある。さしあたり、インドの事例に関するものであるが、脇村孝平[1999]を参照されたい。奴隷貿易から現代の国際労働力移動にいたる世界的な労働市場の形成の中で契約労働を位置づけた先駆的な問題提起は、Potts[1990]であろう。
(14) J. Evangelistaの研究に基づくSerrao[1977]p.41を参照。なお、南北アメリカ大陸に向かったとされる147万人のうち約9万人(6%)は、行き先が「アメリカ」とのみ記載されているため分類不能であるが、それを除けば、約6万人(4%)の合衆国、約4万人(2%)のアルゼンチン、約2万人(1%)のベネズエラ、約5千人のカナダなどとなっている。なお、同じ期間の出移民のうち、南北アメリカ以外に向かった者の多くは、対ヨーロッパであり、約10万人(6%)を占めていたと思われる(Serrao[1977]p.57)。
(15) ブラジルでは、すでに奴隷制の廃止以前から、コーヒー農場での奴隷労働の代替として、奴隷制廃止論者によって、コロノと呼ばれた「契約労働」が推奨され、ポルトガルから移民を導入する手段として広く用いられていたとされている。それは、ポルトガルからの移民を合衆国に導入する手段としても用いられ、1840年にルイジアナ州の砂糖プランテーションのためにポルトガルからの「契約労働」移民が導入されたのを初めとして、しばしば導入された。1874年には、1872年に渡米した12歳以下の79名を含む229人のポルトガルからの「契約労働」移民のうち、酷使と虐待に耐え兼ねて逃亡した者の訴えを受けて、ポルトガル議会が調査に乗り出すという事件も起こっている。契約労働は、合衆国では1885年に禁止されたが、19世紀末まで残存したという。 Baganha[1990]pp.24-27、参照。
(16) 1891年に発表された移民問題に関する有名な論文を収録したMartins[1994]や、Serrao et al(ed.)[1976]に収録された当時の諸論考の抜粋を参照。当時のポルトガルの経済思想については、 Almodovar & Cardoso[1998]が、16世紀から1960年までを射程に入れた興味深い整理を行っている。
(17) Marques(ed.)[1991]pp.26-29. なお、19世紀後半から第一次大戦までの時期のブラジルへの移民と資本輸出との関係について、ポルトガルでの研究史を踏まえて問題提起し、単純な対応は認められないとしつつ、移民の独自な要因を加えてグローバルな視野で考察すべきとするMiranda[1993]も参照。ブラジルへの移民については、多くの研究がある。ポルトガル側からの送り出し事情の研究として、たとえば、旅券関連の公文書資料をもとに19世紀のポルトからブラジルへの移民の家族構成、職業、出身地などを分析し、当時の国際分業の中に位置づけようとしたAlves[1993]、19世紀の北西部ポルトガル、ヴィアナ地方を対象とする地域史の極めて詳細なモノグラフの中で、移民問題を詳細に分析したFeijo[1993]、19世紀中葉の北部地方からブラジルへの移民の要因としてブドウ酒用のブドウの不作などを挙げるRodrigues[1993]、 19世紀のポルトガル北西部の土地相続・家族史研究を背景に、ブラジルへの移民排出事情を考察し、19世紀当時の議論を紹介するBrandao[1993]、情報の果たす役割について考察したLeite, J.C.[1993]、19世紀半ばから1930年までの移民の原因を複合的なものとして理解することを強調するPereira[1993]など。ブラジル側の受け入れ事情の研究として、 ポルトガルからのブラジルへの移民に関する歴史学的移民研究のための史料集及び資料案内であり、第1部に主題別の史料の抜粋、第2部に特に未刊行資料に力点を置いてブラジルの主要文書館、図書館ごとにその所蔵資料目録と簡単な解説を収録しているSilva[1992]、19世紀前半のブラジルでのポルトガル移民の受け入れ側の問題を掘り起こしたCarvalho[1993]、19世紀前半のブラジルの詩人コート・モレノについて、彼がポルトガル出身の移民であったという点に注目して、当時のブラジル知識人の状況を分析する Bieber[1998]、特にポルトガルからの移民との関連で独立以来のブラジルの入移民関連法令を整理したWestphalen & Balhana[1993]、独立以後19世紀のブラジルへのポルトガルからの移民の社会統合の問題を扱うSilva[1993]、サンパウロでのポルトガルからの移民の受け入れ事情について特に労働事情を中心に1890-1930年の時期について考察したMatos[1993]などがある。