● キューバ医療事情A ● 轟 洋一


キューバへのアメリカがおしつけた封鎖と以前からのソ連への依存のために、ソ連の崩壊は、以前にはふんだんにあった薬品と医療機器に不足をもたらすという事態を引き起こした。実際、抗生物質等は手に入りにくい。自給的になることを試みる中で、キューバは、慣行の医学が提供する大きな利益を維持しながらも、伝統的な医学に再び転換するという試みをしている。

1999年の世界統計摘要によるとキューバの寿命は76歳で、アメリカでのそれに匹敵する。これは、アメリカの封鎖によって薬、医療機器の購入が妨げられているのにも関わらずの事実なのである。すべての市民の医療は無料である。ただし薬代は各自の負担となっていて(我々は無料だったがアピールか?)、これを平均的な給料と比較してみると決して安くはない。住民204名あたり、どこにも1名の医師がおり(日本は600名、メキシコ15000名)、1000人あたりに6つの病床がる。キューバは、他の国々からの学生に対して、キューバのラテンアメリカ医学学校への無料参加を提供している。そして、資本あたり国外へ世界のどの国よりも多く医師を送っている。革命後には医師の半数がアメリカに逃げ出したが、いまでは62,500人の医師と、医師、看護婦、技術者、病院職員を含めて80万人0,000人近いヘルスケア労働者がいる。現在、二つの医学校と52の健康技術学校と21の大規模な医療機関と4つの歯学校が14の州に配置されている。
キューバにおいては、企業が販売のために利益競争しないため、医学においては経済的に莫大な倹約ができている。キューバの病院と看護施設の第一の目的は、金銭のためではなく人々の治療のためにある。利益のために病気が搾取されるべきではないということが実践されている。キューバでは、医療が全市民の権利なのである。

他の中南米の国と比較してもその医療実態の良好さがわかる。チリは、医師でもあり、社会民主政権を率いていたアジェンデ大統領のもとで、大きな社会的な進歩をなしとげた。しかし彼がCIAにより打倒された後は、チリの医療システムは、民営化され劇的に悪化した。事例とだせる一つは、病気になったときに、医療サービスを受けるために、人々は朝4時に起きて列にならばなければならないのだ。2000年、アルゼンチンのマラドーナ選手、コカイン中毒の治療を受けるためハバナ市のラ・プラデラ病院に入院。
カリフォルニアの統計では、金持ちの白人地区での乳幼児死亡率は3%だが、黒人地区でのそれは11%である。医療が権利ならば貧富の死亡率の違いなど起こるはずがない。

あくまで印象だが、僕がお世話になった病院は人であふれていて、診療も急いでいたような気がした。そして施された治療はキューバ流であった。しかし生きていくうえでは十分な治療だった。世界人口の3分の1が必須医薬品を入手できない状態にある。アフリカやアジアの最貧国に限れば、人口の半分が必要な医薬品を購入できずにいる。高価な薬は使わないキューバ流治療が多くの国で求められている。
年金問題で忙しい坂口力さん、キューバに行って日本の医療無料にしてください。



● マイアミ・ファイブ ● 伴 直子


「マイアミファイブ」キューバではよく聞いた言葉だが、私は日本でこのような言葉を聞いたことはなかった。なぜなら日本ではニュースでも新聞でも、インターネットでさえもこの事についての情報はきわめて少ないからだ。キューバの民家の前などに置かれた彼らの像、キューバで英雄と称えられる彼らはいったい何者なのか?

「マイアミファイブ」とはマイアミに亡命したキューバ人がキューバに行う様々なテロ活動を止めるため、マイアミのキューバ人組織の中にスパイとして潜入していた5人のキューバ人の男性のことである。そのマイアミの組織は1959年以来、何百ものキューバ民間人を殺して、爆撃、暗殺および他のサボタージュを行った。1998年にその五人はアメリカFBIによりスパイ容疑で逮捕され今なお彼らは牢獄にいる、しかし彼らはアメリカに対するスパイ行為は行っていないと罪を否定した。そこから、5人を助けようという運動が始まったらしい。捕まってから17ヶ月間、家族でさえも面会が許されなかったことなどから、それは人権を無視した行為だと人権保護組織のアムネスティンからの抗議があり、キューバでもデモが起きたが状況は変わっていない。キューバでのテロでイタリア人が巻き込まれ死亡したため、EUもこの運動でキューバに協力的である。裁判はあったが、亡命者が多く住むフロリダで行われたため公平なものではなかったらしい。なので、次にはその組織とはあまり関係のないアトランタで裁判をすることが予定されている。しかしまた同じように不正が行われるのではないかとホームページ上では不安の声も上がっていた。

この事件の講演会をICAPで始めて聞いて、色々な疑問が浮かんだ。「なんで彼らはスパイ容疑でFBIに捕まったのだろう??」「各国でのテロについてこんなにもニュースで報じられているのに、なぜキューバでのテロは日本で報じられていないのだろう??」
アメリカは今「テロリスト」と戦っている。しかしこの話が本当ならアメリカはテロリストをかくまっているとも言えるはずだ。アメリカはそれを認められない、だから裁判に負けて彼らを国に帰すことはできない。実際アメリカがこんなにも関わっているのにもかかわらず、アメリカや日本のメディアでこの事件は騒がれない。もし、正当な証拠や理由があるのならメディアで取り上げてもいいのではと思う。本当の真相は国同士の思惑に隠れて見えないのだ。真実を知るには、この事件をメディアがより客観的に人々に伝え、多くの人々の意見を聞かなくてはならないと感じた。



● ICAP(キューバ諸国民友好協会)議長の話 ● 竹田 亮


私、竹田は木村さんとともに今回の旅行に遅れて参加したため、キューバに着いた当日、つまり現地時間の9月8日の夕刻、昼過ぎに着いたカイミートのICAPのカンパメントからICAPのセルヒオ・コルエリ議長に会うためにバスでハバナ市内に移動した。当初は予定を思い出す余裕すらなく、ただひたすら時差ボケの中行き先も分らずにバスに揺られていたが、到着したICAPの事務局であろう建物を見て驚いた。事前学習で革命の際、国外に脱出した富裕層の屋敷などを現在公共施設や政府施設に転用したという話を聞いていたが、その例に漏れずこの建物も相当に凝った造りをしており、当時の栄華をしのぶことが出来た。カンボジアの首都プノンペンでも見てきたが、なぜ旧植民地ではあれだけ見事な建築が良い状態で現存するのだろうか、などと考えているうちにカンパメントとは対極の冷房の効いた部屋に通され、冷たい飲み物を出された。さすがにキューバでも名うての機関と妙に感心してしまったが、ここまでの対応は却って不自然なほどであった。

さて、閑話休題、コルエリ議長はさほど「特別な人物」といった印象を与えないフツーの人物であった。最初はICAPの成立について、そしてキューバの歴史を植民地時代から順を追って現在に至るという形で話は進んでいった。ICAPは革命の1年後、1960年に他国民との「友好と連帯」の関係を築くために設立された。氏が強調したのは、キューバは特に歴史的に見て「若い国」であるということである。アメリカ大陸の“発見”後、15世紀からキューバは西側列強諸国の金銀をはじめとする交易の中継地として栄えた。その後スペインの植民地となり、ホセ・マルティらを中心とする独立戦争に勝利する目前、米西戦争のあおりからアメリカによる介入を受け、その後約50年間にわたって今度はアメリカの支配を受けた。1959年の革命後、現在のような社会主義国としての国家体制が築かれた。そういった意味で氏は、まだ歴史の浅い、可能性を秘めた国であることを強調したかったのであろう。

その後もアメリカとの関係はキューバ危機をはじめ、対立状態にあった。氏はインドシナを引き合いに出した対米感情についての質問に答え、経済封鎖の続く現在の状態を「理論的には戦争状態」であると述べた。このような状況下で、「世界のメディアの85%がキューバの実態を良く知りもせずにアメリカよりの報道をする、特にその記事を書いた記者のほとんどはキューバに来たこともないのに」「来たことのある人がその人の印象に基づいて何を書こうと構わないが」と氏は続ける。「推測だけで批判することを我々は是認しない。」このような状況下において、「正しいキューバ」像を広めるため、また、アメリカ帝国主義に「連帯と友好」で対抗するためにICAPは成立したという。全世界に1700の専門別のグループを持ち、労組活動,物資のやり取り,文化交流,医療などの面で相互に作用しあう関係を持っているという。特に医療という面においては、キューバは他の発展途上国とは比べ物にならない、高い水準を保障している。このため、キューバの医師が発展途上国に出向く、逆に発展途上国から医師を招き、その研修などを通してそのスキルアップに貢献に貢献するという体制を確立している。また、キューバはピースボートの寄港地になっており、氏の話ではこれまでに10度の訪問を受けたということがある。これも「連帯と友好」の一形態である、と氏は語った。

キューバは前述したように長期間、帝国主義の犠牲となってきた歴史的経緯を持つ。氏は20世紀に入っても、1959年以前のキューバはアメリカにとって「週末の国」であったと語った。この語は読んで字の如く、週末になると訪れる、観光地であったということを意味する。いや、正確にニュアンスを出そうとすれば「歓楽街」的なものであったというべきであろうか。1959年の革命時、キューバ人の30パーセントは文盲であり、首都ハバナには5万人の売春婦がいたという。また、麻薬などの薬物も氾濫していたようだ。革命後の教育プログラムにより、職業・学業・倫理・衛生的な知識の定着をみたというキューバの足跡を辿れば、小さな国であるがゆえに他の発展途上国では成し得なかった政策の成果を見ることができると同時に、その前提として、やはりこの国も大国の影響に揺れ続けてきたということが理解できる。このような小国が「連帯と友好」というスローガンの下、国家同士を、また国内をつなぎ合わせることで生き延びようとする姿は、日本国内において小さな自治体が連絡会などを作ることによって生き延びる工夫をしている姿にもどこか重なる部分があるのではないだろうか。果たしてこのスローガンどおりにことが進んでいるかどうかは別として、このような姿勢に小さなこれからの時代を生き抜いていく一つのあり方を見ることができた気がする。

最後になったが、気になったことを一つ。同席していた轟君からも後で同様の言葉が聞けたのだが、我々が質問を、特に体制についてやや突っ込んだ質問をしている中で、その間中、質問の内容、そして(これはあくまで推測に過ぎないが質問者の方を注視しながらだったため恐らくそうである可能性が高い)質問者まで逐一記録し続ける1人の人物の存在が非常に気にかかった。それでもかなり突っ込んだ質問をなげかけてみた次第ではあるが、恐らくあの具合では議長の回答もすべてチェックされているのだろう。回答が理念的なものにとどまった部分が特に体制についての部分で頻繁に見られたこともこの影響があるのだろうか。カンボジアを訪れたときに耳にした、小村でクメール=ルージュ体制下において村人同士が密告という重しの下でお互いを監視しあったというエピソードが脳裏に甦り、社会主義、いや共産主義の暗い影の部分がこの明るい国にも垣間見えるということを考えずにはいられなかった。