● 満天の蛍 ●


<<< 注 >>>
以下にご紹介する文章は、穂積夏子さんのミンダナオでの活動を支援する会の「パガディアン通信」No.18(2000年12月1日発行)に掲載されたものです。たぶんおもしろいので、ぜひ読んでみてください。穂積夏子さんは、1980年代半ばからすでに15年間もミンダナオに住んで、漁民組合の環境教育ボランティアとして働いてこられました。ASSFARDOはその漁民組合を前身とする環境団体で、穂積さんは現在この団体で働いておられます。
岡野内 正


<谷間から湧きのぼる蛍>
近眼なので、満天に降る星のように見える。パガディアンのホタルは、星のように白く輝くのだ。発熱と下痢。まる2日間、ひたすら竹の床に横たわって体を休め、少し人心地ついて外を眺めた。日が落ちて、急に暗くなってきた谷間の樹木に満天の星。そんな馬鹿な。・・・眼鏡を取り出してよく見つめれば、漆黒の谷から湧き上がってくる蛍であった。ひとつひとつの光はときにふっと消えたかと思えば、ひときわ明るく輝いたりする。樹木を巡る無数の蛍の群舞。「クリスマスツリーみたいで、とてもきれいですよ。」と夏子さん。食事のしたくに忙しい彼女や、ドドン、新しい住み込み学生のノエル。無為徒食の病人は、ずいぶん長い間、戸口の闇の中に座り、腰に巻いた布からはみ出した裸の足を狙う蚊を手で払いながら、竹でできた夏子さんの家を取り巻く樹木の 全体に広がってきたホタルの光を目で追っていた。ひたすら無心に見つめるかと思えば、死んだ魂が蛍になるなんていう話を思い出し、これまで8年間ミンダナオで出会った無数の人々のことを思ったりした。・・・そういえば、雨季にパガディアンにくるのは初めてではあるまいか。

<有能なるNGO活動家ただし君>
2000年11月の10日間のフィリピン訪問。私の使命は、民衆レベルの環境教育のための教材を調達する筋道をつけることである、と私はかってに理解していた。資金面では地球環境基金のような日本のファンドを とりつける。ビデオやスライドなどの購入資金である。重要なのは教材そのもので、それは、むしろフィリピンの環境NGOが作成したものを調達する。出発までに、マニラ湾の地域コミュニティに根ざしたマニラ湾の環境保全活動をやっているフィリピンの大手 NGOのひとつ、PRRM(フィリピン農村再建運動)の資料を入手し、電子メールで事務所訪問の約束をとった。友人の若い院生からは、PRRMや別のNGOが作成したマニラ湾保全活動や珊瑚礁保全活動のすぐれた教材ビデオテープさえ入手していた。アタッシュケースこそぶらさげていないものの、(もう5年間は使っているリュックにジーパンといういつものかっこうだ)自分が有能なるNGO活動家のように思え、さっそうとマニラに乗り込んだものである。といっても、ついいつものくせで、深夜の空港からジープニーを乗り継いで市内の宿までたどりついたのだが。

翌日、午前中のうちにケソンシティーにある4階建ての真新しいビルのPRRMオフィスを訪問し、さらにいくつかの海洋・漁民関連の資料センターなどを紹介してもらい、それらはミンダナオから帰ると再訪問することにして、昼過ぎにはマニラ空港、夕方にはミンダナオ、ディポログ空港へ。

<知らない人についていっちゃダメ!>
すでに夏子さんからは、手紙やファックスで、ミンダナオに来るに当たっての注意事項を詳しく伝えられている。身の代金目当ての様々な武装誘拐団が外国人を狙っている。マニラ出発の前日のニュースは、かつて私も訪れたことのあるミンダナオのジェネラル・サントスの刑務所がモロ・イスラム解放戦線にロケット砲で襲撃され、ゲリラを含むすべての囚人が逃亡した、と伝えていた。

さすがに夏子さんの手配にぬかりはなく、こっちも緊張してきょろきょろなんぞせずに、やぶにらみですばやく示し合わせた目印をもった人物を発見し、まっすぐ車中の人となって片道3時間の山道をすっとばしてパガディアンへ。  滞在中、私が身の危険を感じたことは一度もなかった。けれども帰りの空港行きの車内で、その前日にパガディアンでゲリラによる爆弾事件があり、軍関係者数名が重軽傷を負ったことを聞かされる。さらに帰国してから、やはり私の滞在中に地元ラジオ局の人気キャスターがピストルで暗殺されたことを知った。

<楽しい週末の理事会>
着いた翌日土曜日の午後は、いつもはASSFARDOボランティアたちのセミナーハウス建築作業でにぎわうそうだが、私が来たというので、理事会が開催されることに。といってもそんな堅苦しいものではなく、見晴らしのいい竹造りのあずまやに座って、犬や猫、鶏までいっしょになってなんだかんだとおしゃべりをする。

遠来の私のためにラム酒がくる(やし酒は手に入らなかったそうだ)。ディポログで仕入れた牡蠣がくる(この辺のカキは赤潮でやられたままだという)。さらにマグロのさしみまで。理事たちの差し入れなのだ。私の地球環境基金の説明に、発電機やビデオやスライドやそんな機器が入るといいね、といった話がでる。でもこういう助成金っていうのはあんまりあてにならないんだ、と私。まあ、ともかく書類をそろえて出してみるか。書類書くのはロロイ・バラゴットは専門だもんな。ああ、がんばって書いてみるよ。…

こんな調子で、理事会はいつのまに牡蠣を肴の酒盛りに移行。たき火の上で牡蠣をあぶりながら、固い殻から美味しい中身を取り出すのに熱中。フィリピンや日本の政治の話、環境ホルモンのこと、遺伝子組み替え作物のこと、…談論風発、こっちもガタがきた日本経済のこと、フランス資本になった日産の工場閉鎖、そごう倒産のこと、など求められるままに長広舌。それにしても理事たちの関心の広いこと。

夏子さんも言うように、教会や役所などで中堅として仕事の実質的なところを担っている彼らにとって、仕事上の利害関係を離れて自由闊達におしゃべりし、知的刺激を得ることのできるASSFARDOの集まりが、大きな楽しみになっているにちがいない。それはある種の知識人サークルといってもいいかもしれない。チェコスロバキアの独裁的な社会主義政権を倒したビロード革命では、この手の環境サークルが大きな役割を果たした、というかつてチェコで聞いた話を思い出す。

<旗揚げ公演の猿回し>
月曜日には、知事をはじめとして、ロロイの働く農業やら国土計画やらの役所の長に会いに行く。ASSFARDOの活動を、日本の大学教授などともつながりをもつ国際的なものとして、この際アピールしようというわけである。私はといえば、ドドンの一張羅のワイシャツなどを借りてめかしこみ、終始ニコニコと。…むかしの黒沢映画「生きる」を思い出させるようなお役所(今、気がついたのだが、それは、あのお役所のどこにもコンピューターがなかったせいにちがいない!)。こちらは夏子さんやドドンを含めて理事数名が同行。ロロイのたくみな説明。どこでも受けがよく、知事をはじめ、要職の人々は環境問題の重要さを力説し、協力を約束してくれる。国土計画の役所では、貴重な地図まで寄贈してくれた。さらに役所で赤潮問題を担当するマニラの大学で海洋生態学の修士号をとった若者が、ASSFARDOの環境教育活動に加わることに。

ちょうど汚職疑惑の大統領退陣要求デモがミンダナオを含めて全国で盛大に行われた時期とかさなり、多忙な市長に会うことはできなかったものの(また非合法漁取り締まりチームの活動視察も不可能になった)、行政関係者の認知を得て、 ASSFARDOは、この地域に根ざす手作りの、そしてなにより楽しい環境教育団体としてゆっくりと歩き始めている。そんな歩みに、すこしでも役立ったとすれば、私としては望外の喜び。

<待つこと、楽しむこと>
雨の日の昼下がり、薄着のままついうたたねをしたのが運のつき。かぜをひいてしまったらしく、若干の熱とともに、下痢。夏子さんの処方する薬草茶を飲み、ひたすら眠る。そして、冒頭の蛍を見たのだ。持参していた以前のパガディアン通信を見ると、夏子さん記すところのドドンの戒めが書いてある。どんないいことでも、押し付けてはいけない。フィリピン人がその気になるまで待て、と。思わず苦笑。有能なるNGO活動家などたくさん。外国人は猿回しのサルで十分。パガディアンにも、それなりの人材はあって、ネットワークを広げて楽しく、ゆっくりと動き始めているのだ。私の本当の使命はその息吹きを体で感じることであったにちがいない。

ミンダナオの環境はいろんな意味で苛酷だ。だがパガディアンのバナリのあの夏子さんの住居では、回復してきた草木の緑と動物と、それをめぐる人間たちの結びつきのバランスがほのみえて、なにやらおもしろい空気が漂ってきている。木を植えて、種を蒔いて、山と海と人の心に緑が戻ってくるのを待つ人の輪の楽しみ。

<マニラの別世界>
マニラに戻ると、有能なるNGO活動家は、有能なる開発問題研究者に変身して、つい、ジープニーや乗合タクシーでマニラ中を走りまわって資料集めに奔走してしまった。宿の部屋がちょうど道路に面していたこともあって、昼だけでなく、深夜早朝も激しい騒音と排気ガスに悩まされ、下痢を再発。ふらつく体でふと、人々が流れをなして入っていくショッピングセンターに足を踏み入れてみる。といっても、入り口には屈強のガードマンがいて、男女別の入り口で、飛行機に乗るときのようなボディーチェックがあるのだ。かばんの中まで調べられて、中に入ったとたん、そこは、別世界。外の騒音も排気ガスもなく、静かな空調と音楽。こぎれいなお客たち。世界中どこでも見るようなブランドのお店がずらり。豪華なデパート。あふれる品物のスーパーマーケット。世界中の料理のレストラン街。5階くらいまで吹き抜けの天井にガラス張りのエレベーター。きらきらのデコレーションの中を天に昇っていくようなエスカレーター。映画館。ホテル。つい3年前にオープンしたという巨大ショッピングセンター。

そのカフェで紅茶を前に数時間もぼっとして体を休めながら排気ガス臭のない空気と静けさを味わった。閉店になって、深夜の街に追い出されて少し歩けば、すばらしく汚い服のストリートチルドレン7,8人が群れている。危険を感じた人々はそこを迂回して通り、わたしもそれに従う。…

<世界中から武器と謀略が注がれる所>
翌朝も宿の排気ガスと道路の騒音に追い立てられるにようにそこに向かい、一足先に開店するコーヒーのチェーン店スターバックスにおさまり、前日買ったミンダナオの紛争に関する出たばかりの本を読む(Marites Danguilan  Vitug & Glenda M. Gloria, Under the Crescent Moon: Rebellion in Mindanao, Ateneo Center for Social Policy and Public Affairs/ Institute for Popular Democracy: Quezon City, 2000)。マルコス時代、マレーシア領になったボルネオ島軍事占領を狙う大統領。彼はCIAによって訓練されたフィリピン軍将校を使ってミンダナオのイスラム教徒からリクルートして秘密部隊を結成。この秘密部隊はマニラでの激しい訓練の最中、遅配になっていた給料の支払いを要求。マルコスは「不従順な」秘密部隊員数十名を虐殺。生き延びたイスラム教徒秘密部隊員は、敵は本能寺、マルコスなり、と。…周到な調査に基づく本書は、たとえば誘拐で有名なアブー・サヤフ・グループは、CIAが訓練した対イスラム・ゲリラ戦特殊部隊だった、といった、ミンダナオで聞いたばかりの人々の「常識」と微妙に重なり合って、実におもしろい。…読みふけっているところで、フェリス女学院のゼミ研修旅行の学生たちと遭遇。フィリピン専門家の引率の先生に、ここ、すごいですね、と水を向ければ、彼は言う。「フィリピン経済は、過去最悪のはずなのに、こんなに人があふれて、しかもみんなちゃんと買い物してるんですよ。いったいどうなってるんだろうね!?」

<「開発」の大成功>
帰国後の教室で。高岩さんたちが作った映画ビデオ「教えられなかった戦争、フィリピン編」を見せたあと、ぼくは、さいふからしわくちゃになった10ペソ札を取り出して広げてみせた。「映画の中で、マグロを1匹かついで運んで5ペソ、20 円っていってたよね。この映画は1993年。ぼくが初めてフィリピンに行った次の年に撮られたんだ。でも、いまじゃこの10ペソが20円だよ。ペソの値段が下がって、半分になったってことだよね。…この7年間。映画にもあったようにたくさんの日本のお金が使われ、開発計画で多くの人が家を奪われ、開発に反対した人がたくさん殺された。そんなすべての開発努力の結果がこれ。」ここでなんだかほんとうに熱い涙がこみあげてきて、ことばにつまってしまった。「…でも日本人、アメリカ人、外国企業にとっては大成功だよね。フィリピンのものが半額で買えるようになったんだもの。」こうして、フィリピンの自然も人間も、半額で買いたたかれてますます疲弊するだろう。それでもうける外国企業とそれにつながる人々は、この商売で儲けて、あのマニラの別世界で暮らすのだ。なんのことはない。旧植民地第3世界の中に、旧植民地宗主国第1世界が進出してきただけの話。入り口のあのガードマンは入国管理官。有能なるビジネスマンは、私がそうしたように、危険で汚い第3世界のマニラを走り回ったあと、安全できれいな第1世界のマニラで休むのだ。「国際水準」の「快適さ」。その巨大なビルの壁の向こうには、排気ガスと騒音のなかで蠢くストリートチルドレン。そのはるか向こうに、痛めつけられた自然と世界中から注ぎ込まれる武器と謀略の中で右往左往するミンダナオの人々。

だが、巨大なビルの空調設備で造られた「快適さ」の拡大は、地球環境を破壊し、「清潔な」食べ物や環境は、将来の世代の人間の体をこわしてしまうだろう。ミンダナオにも本気でそんな壮大な心配をしている人々がいる。闇が深ければ深いほど、満天の蛍はむしろ燦然と輝くのだ。

(2000年12月10日)



● アフリカのぎっくり腰 ●

タンザニアで考えたこと


<タンザニア!>
この8月末から9月半ば過ぎまで、東アフリカはケニアの南、インド洋に面する国、タンザニアに行った。3週間の滞在。環境問題と市民社会に関する調査の単独行。キリマンジャロに近い高原地帯の町に2週間。つい最近までの首都、大都市ダルエスサラームと、ザンジバルというインド洋の島に1週間弱。成田を出て、インドのボンベイで1泊し、ナイロビ経由でようやくダルエスへ。

<ナントカ幼稚園…>
市川市ナントカ幼稚園、株式会社大林組、国際観光旅館加茂温泉、…。ダルエスサラームの市内を走る車の黒々とした漢字。おそらく市内の車の半分は、日本からの中古車。あとで聞けば、日本語が書いてあったほうが高く売れるので、消さないとか。こんなに走れる車を売っぱらう日本て、何だろう?!

<マラリアの恐怖>
黄熱病に破傷風とA型肝炎、1ヶ月かかる注射5本で2万円! それでも、副作用の強く酒が飲めなくなるというマラリア予防薬は服用しないことに。ホテルの部屋中に持参の蚊取り線香を焚き込め、虫除けスプレーをズボンの下のすねにまで塗りたくる。どうだ、と、食堂で地元のキリマンジャロ・ビールを賞味。ふと、首筋から目元にかけて、ぶーんと、蚊。背筋がぞっとし、早々に線香部屋に退散。それにしても、こんなにマラリアにおびえる俺は、いったい何だ?…おかげで、なんとかやられずにすんだみたいだけど!

<踊る教会>
標高1000メートルの町は、夜は毛布を2まいかけて寝るほど涼しい。私の勤務校の卒業生の私宅に滞在。 ここらあたりはドイツが支配していたころに持ち込まれたルター派のキリスト教徒が多い。頼み込んで教会のミサに出席。歌と踊り、太鼓まででてきて、すべてアフリカのリズム。ミサの最後には、歌って踊りながら教会の外へ。献金にトマトや卵をもってくる人がいて、そこでそういう現物のせりが行われる!

<ぎっくり腰!>
歓迎のキリマンジャロ・ビールとピラウという牛肉炊き込みご飯にきゅうりとトマトのサラダ。しこたま飲んだ次の朝、ねこが持ち込んで家中大騒ぎになっていたノミをベッドに発見。飛び上がってそれを殺戮し、おっかなびっくり昨日脱いだTシャツを覗き込んだとたんに、ぎっくり、腰の激痛。ベッドへ。

<怪我の功名、スワヒリ語>
それっきり1週間の寝たきり生活。ひたすら、半分しか読んでなかった持参の英語版「スワヒリ語独習」を読み、練習問題をやり、ついに読了。スワヒリ語は、ザンジバルなど、東アフリカの海岸地帯の商人のことばで、文法はアフリカ起源のバンツー語だが、単語の多くはアラビア語。アラビア語学科を卒業した私のようなものには、それが随分おもしろいのだ。

<タジリとミスキニ>
たとえば、金持ちのことを「タジリ」と言う。これはアラビア語で商人のこと。商人が金持ちとは、いかにもイスラム帝国時代の沿岸貿易華やかなりし頃を思わせておもしろい。貧乏人のことを「ミスキニ」という。これもアラビア語で、貧民のこと。しかも、イスラム教徒の義務のひとつ、喜捨(施し)の対象とされる最も惨めな貧民層のことである。

<ひとのものはぼくのもの>
「もともとアフリカには金持ちも貧乏人もなかったんだ。みんなイスラム商人がもちこんだんだ。」と、わが卒業生夫妻。この町は、水が少なく、水道はあるけども、1週間のうち数日しか出ない。その家にはコンクリート製の大きな水タンクが備えてある。すると、近所の人が、勝手に入ってきて、その水を使うという。その家にある電話も、ほとんど近所の人が使っているという。

<IMFの構造調整政策>
わが卒業生夫妻は、この電話問題にはさすがにむっと来ているが、近所の子どもを集めて、英語などを教え、怪我の子どもに薬を塗ってやっている。タンザニア政府が債務を返済に困り、IMFの構造調整政策を受け入れて以来、学校も診療所も有料になり、近所の子どもの半分は、学校にいってないのだ。

<定住のマサイ>
そこからサバンナを車で2時間走るとその村につく。環境教育のプロジェクトに参加させてもらう。定住マサイ人とパレ人が半々くらいの村。スワヒリ語が共通語。それぞれマサイ語とパレ語をしゃべる。マサイ人はもと遊牧民で、特徴のある衣装。それが、村の広場で男女に別れてじっと座り、たむろする。村人は言う。ほんの1970年代まで、ゾウもライオンもいた。河は今の何倍も水をたたえ、岩山は森で覆われていた。…気候が変わり、人が増え、森が消えた。

<参加型セミナー>
わが卒業生は、えらい人が一方的にしゃべる環境教育にいやけがさし、村人をしゃべらせ、自分で問題と解決の筋道を発見させる参加型セミナーを導入。天然資源省が主催。村の長老、女性や若者が20人。5人ずつの班に別れて、村の環境の変化と問題点を調べ、模造紙に絵を描いて発表、討議。合間にちょっとしたゲームをいれて、こちら役人側もいっしょになって遊ぶ。…自分たちの生活のことになると、村人の絵も話も、簡潔で具体的だ。…昔読んだ日本の山村のやまびこ学校を思い出す。

<星空映画会>
夜は村の広場で星空映画会。電気のない村。車で持参のスクリーンとビデオと発電機。車の屋根につけた拡声器で宣伝し、音声を流す。森と生態系の大切さを訴える環境教育番組。

<集いの楽しさ>
拡声器つきの車は楽しい。国連プロジェクトの保護林発足記念式典に向かった時のこと。運転手が突然ラジオの音楽を拡声器に接続する。険しい山あいの集落をつなぐ谷間の陽気な音楽。と見れば、こっちで子どもたち、あっちでは老人がそれに合わせて腰を振り、踊っているではないか。乗ってるこっちは、道行く人々にいちいち手を挙げて挨拶をするのだ。

<歌のダンプ>
その式典は、保護林を見上げる高原で行われた。おそらく歩いて何時間もかかるあちこちの村から2000人の村人が動員され、次々とダンプの荷台に満載されてやってくる。小学校、中学校の生徒たちは、荷台で揺られ、合唱しながらやってくるのだ。同じ山脈にある山村に泊まった時のこと。まだ真っ暗の朝5時。車の轟音が響き、それを圧するような合唱の歌声が響きわたり、やがて遠くに消える。町の合唱コンクールにでかける子どもたちだという。

<おんぼろ道と砂ぼこり>
おんぼろ道と砂ぼこり>  中途半端なゆれじゃない。時に荷台の子どもは振り落とされるに違いない。日本の援助で作られた幹線道路はたしかに快適だが、道端をぞろぞろ歩く人々にめもくれず、排気ガスと砂ぼこりを残してびゅんびゅん。がたがた山道は、いちいち挨拶、時にはおばあさんをのっけたり。道路は人の出会いの場なのだ。

<アフリカのぎっくり腰>
援助による日本での研修から帰った同僚の役人たちの半分は目の色を変え、金の無心をしてまわり、ついには役所をやめるという。ビデオや車を買い込んで、その輸入手続きに奔走するうちに、ブローカーになってしまうという。スワヒリ語で外人あるいは外国のものをムズングと呼ぶ。それは「すばらしいもの」と「巧妙なまがいもの」という2つの意味をもつ。今はぎっくり腰で寝たきりのように見えるアフリカ。やがて砂ぼこりの中からうたごえが起こり、子供たちがしっかりと立ち上がって歩きはじめるにちがいない。どっちへ? それは彼らが決めることだ。ぼくにできるのは、西洋や日本のいかさま師の首に鈴をつけること。1000回だまされて、1001回目に立ち上がるときにそばにいること。……その前に、自分がいかさま師にならないように、よーく考えなくっちゃ。自分の言ってること、やってること。…

(1999年10月30日)