● 沖縄はアメリカに入ったほうがいい? ●

三度目のゼミ沖縄研修旅行、2004年春


<熱気の徹夜飲み…>
エイサーを踊る前だったか後だったか。見覚えのある彼は、遅れて現れ、車座に加わった。真中には泡盛とオリオンビール。豆腐やゴーヤ、ソーメンのチャンプルー。ミミガーやさしみまである。青年会の若手とこっちの学生たちは飲み比べで盛り上がっている。…ひとしきり、杯を交わしたりしたあと、彼が、ぽつりと言った。「この頃、沖縄はアメリカに入ったほうがいいんじゃないか、って思うんです。…」「ほう?」「もともと、琉球の国があって、薩摩に取られて、日本に入った。日本が負けて、アメリカになって、また日本になった。日本に入ったからといって、特別いいことはない。琉球で独立してやってゆければいいけど、それが無理なら、アメリカに入ったほうがいいんじゃないか、って。」

<飛行機で家がびりびり…>
彼の家は、米軍基地のすぐ隣。フェンスを隔てたところに滑走路があり、夜昼となく巨大な飛行機が離発着。うるさいなんてなまやさしいものではなく、家全体がびりびり震えるという。三歳(だったか)の彼の子供はそのたびに起きて泣き出し、近所にはノイローゼ気味の小学生も。「うるさい!うるさい!」そう叫びながら夜中に突然起き上がると、壁を、窓を、タンスを、どんどんと叩いて回るのだという。…彼はそんなすさまじい話を、淡々と語る。高校を出るまで住んでいたぼくの広島の実家は、暴走にうってつけの繁華街の大通りに面していた。毎週末になると近隣の暴走族が集結し、家族や近所は、取り締まりの甘い警察と、暴走族を呪った。寝苦しい真夏の夜。暴走音で目が覚めて、闇の中で膨れ上がるどす黒い憎悪と殺意。毎日毎晩アメリカ軍の騒音に苦しめられている彼の話には、そんな怒りと苦しみを数千倍に濃縮した凄みがある。そんな彼が、日本国沖縄県人であるよりもいっそアメリカ領オキナワの市民になりたいというのだ。

<伊江島>
ネットで探した、三泊四日、航空券・ホテル・レンタカーつきで二万八千円の格安ツアー。もちろんご宿泊は、那覇空港から車で2時間、冬でガラすきの中部のリゾートホテル。寒々とした強風の吹く沖合いには、かつて米軍が上陸して地上戦をやった激戦地で、南部と並んで名高い伊江島が見える。ちょうどいい機会なので、昼食を予約し、フェリーで反戦平和資料館を訪れた。米軍の艦砲射撃で地形の変わった島。100人が焼き殺された地下壕(ガマ)。掘れば骨がでてくるという運動場。そんな大地に農薬や化学肥料を注ぎ込んで本島や本土向けの野菜や花を作る畑やビニールハウス。大手資本のリゾートホテルのゴルフ場。海洋博で天皇が1度くるためだけに数億円で作られ、今は全く使われていない広大な滑走路。長年の反基地闘争のシンボル、団結道場。最近になって張り巡らされてしまったという鉄条網つきのフェンスで囲まれた米軍基地。あちこちに茂るサトウキビ畑は、今年で終りだという。政府がサトウキビ輸入の自由化に踏み切り、格安の海外産品に太刀打ちできないという。…なるほど、夏にオーストラリアでみた地平線のむこうまで広がる一面のサトウキビ畑と、機械化された刈り取り・圧搾工場システム。かつてフィリピンで見た奴隷のようにぼろぼろになって働くサトウキビ畑労働者。沖縄人は奴隷にはなれないし、あんな広大な土地もない。100年以上にわたる沖縄サトウキビ栽培の歴史の終焉。

<案内のおばあ>
おばあなどと呼ぶと叱られるかもしれない。松葉杖のYさんは、自衛隊のイラク派兵の動きに、怒っていた。反戦平和資料館をようやく探し出した我々は、Yさんの「アツイ」話を1時間余り。…もう2度と戦争をやらせてはいけない、アメリカも戦争をしてはいけない。まして、日本も。りくつをどうつけてみても、戦争はひどいものだ。Yさんはこの島を逃れていたおかげで命拾い。島に残ったものはほとんどが殺された。島は、形が変わるほど米軍の艦砲射撃を浴びせられた。どうして今の若い者は、学生は、そんな戦争をイラクでやろうという動きに反対しないのか。命をかけて止めようとしないのか。最高学府の学問はその程度のものか。…しゃべりすぎで時間がなくなってしまった!と叫びながら、Yさんは松葉杖ですばやくライトバンの運転台に乗りこみ、我々を先導して、島めぐりへ。…かつて米軍基地の中へ命がけで入りこんで自分の畑を耕したこの島の農民たち。運転しながら輝かしい反戦平和の闘いの歴史を語るほどに、現在の不甲斐ない村民たちへの憤怒が火を吹く。

<自給自足の助け合いの村>
あれほど殺されて、あれほど命がけで米軍から土地を守ったこの島に、なんで、ゴルフ場か。しかし村人でそれに反対するものは、反戦平和資料館の今は亡き前館長だけだった。いつになったら、米軍基地を追い出せるのか。しかし今の村長は基地賛成派。観光で売り出そうとしているが、反戦平和資料館訪問は、修学旅行の普通のルートには入ってない。資料館の食事は、有機農業の自家菜園のものを出しているが、村人は、自分の家で食べる野菜さえ、島外のものを買う。金のための農業。金のための観光。金のための基地。…サトウキビを作らされたりして、ヤマトの政策で村の暮らしが歪んでしまう以前は、それは夢のような平和な島じゃった。イモなど島で取れる作物と海で取れる魚、女が庭先で機織をやってつくる着物。それで充分に自給自足できた。そんなかつての島の暮らしをなんとか記録して残しておきたい、という。

<女子高生と米兵>
朝のフェリーでいっしょになった女子高校生たちと、帰りのフェリーでいっしょになる。聞けば、ずっと、貸自転車にのって島中を走り回って、ごはんを食べて帰ってきたという。もちろん、資料館にもいってないし、戦争の話も聞いていない。ふとみれば、行きのフェリーにいた五,六人の制服のアメリカ兵が帰りのフェリーにもいる。いったい、どういう任務だったのか。話しかけてみようかと、機をうかがいかけたが、さきほどのYさんの憤怒がまだぼくの体内で燃えていて、米兵に対して微笑みかけて話しかける気が。…そのうちに何人かの女子高生たちが、いっしょにキャッキャッと写真撮影を始めた。米兵によるレイプ事件が頻発する沖縄。この修学旅行生たちは、沖縄でなにを勉強したのかしら。…ほんの一瞬、イラクの武装勢力が感じたかもしれないような、外国兵にたいする殺意を自分に感じて、ギクッとする。亡くなった反戦平和資料館の前館長の不思議な魅力は、日本兵の残虐を説きながら、アメリカ兵にむかって、「命こそ宝」として軍隊を、暴力をやめることを訴えたという、その積極的、戦闘的な非暴力の生き方にあったのに。

<この話はやめにしよう…>
青年会と飲んだのは、最後の晩。初日の晩は、沖縄国際大学の創作エイサー・サークルと。…昼過ぎに到着して飯を食い、すぐにゼミの院生の友人Aさんと落ち合い、人工渚のあるテーマパークのような奇妙な公園に案内してもらったあと、練習場の公園へ。Aさんは、関西の出身だが、高校の修学旅行で沖縄にきて衝撃を受け、平和学をやるために沖縄国際大学にきた「アツイ」2年生。
 夜7時から10時までの公園での練習に参加させてもらい、汗をかく。11時から「居酒屋大学」なる飲み屋へ。深夜12時から3時までは、ジョッキ100円のタイムサービス。テーブルにずらりとならべてぐびぐびと。よっぱらいを介護し、空いた皿を手際よく片付けるBさんは、飲み屋でバイトしているという。本島ではなく、かつて琉球国に攻められたもっと南の島の出身という彼女と並んで飲むうちに、いつしか話は、基地のことになる。基地で働き、潤ってる人がいる以上、基地反対なんて簡単に言えない、という彼女の話をふむふむと。基地反対運動にも深くかかわっているAさんが、それを小耳にし、口をはさもうとすれば、Bさんは言う。「あんたの意見はわかってるし、この話はやめにしよう。いつもけんかになるし。」

<若い者はみな出ていって…>
その次の日の昼過ぎ、ジュゴンの住むという沖合を埋め立てて米軍基地を移設する計画に反対する住民の会の事務所を訪れた。会が推す反対派候補が市長選に敗れた直後、2年前に初めて訪れて以来だ。出てきた70歳の老翁は、そのことを聞き、言った。「いまでは、若いものはみんな出ていって、私が最年少だから事務局長。平均年齢75歳。70歳から91歳までの会になった。」
 基地受け入れの見返りの公共事業と補助金。若いものはそんな金に目がくらんでしまうが、ほんとうの戦争を知っている自分らは、ここから戦争をやりにいく基地ができること、あの人殺しを繰り返させることは、どうしても、許せない。・・・事務所のすぐ隣の米海兵隊の基地では、その朝も戦車を使った演習が行われていたという。事務所までの道は、コンクリートで固めた漁港と道路建設で工事中。鬼気迫る事務局長の話もだが、事務所に寄食する東京出身の19歳の若者の話は、同年代の学生たちにはもっとぐっときたようだ。先生を殴って高校を中退。ぶらぶらしていたが、変なおじさんの知り合いに説得されて、その事務所で半年暮らした。いまでは、おばあたちの志をついで、この自然を守って、戦争を許さないことが自分の使命だと思ってる、と、気を吐く。

<沖縄へ!>
そのジュゴンの海が緊迫している。調査と称して、サンゴ礁の海の真ん中に杭を打ち込む工事が発表された。工事阻止を叫ぶ地元住民と支援の人々が全国からつめかけて、座り込みをしているという。あのじいさん、おばあたち、そして19歳の彼もそこにいるに違いない。・・・そのジュゴンの海の近くには、自給的な有機農業の暮らしと、それを世界に、特に子供たちに広めることを夢見て沖縄に移住した卒業生夫婦もいる。アメリカでもコンピューター技術者としての生活やイギリスでの開発学の研究、アフリカでの開発援助の仕事を経験した2人は、村役場の仕事を手伝いながら2歳の子供を育て、菜園つきの沖縄暮らしを楽しんでいる。ジュゴンの海を守る事務所を紹介してくれたのも2人だ。突然訪れた私たちに、泡盛となべと、自家菜園のサラダを並べてくれる。三線が出る、ギターが出る。沖縄の歌、ブルース、アフリカの歌。・・・泊まっていけという誘いを振り切ってホテルに帰る。もうホテルはいらないね。こんどはチケットだけでこよう。・・・学生たちも私も、沖縄の夜の濃密な人間関係に魅せられてしまったようだ。

<沖縄から・・・>
「沖縄はアメリカに入ったほうが…」と言った青年会の彼の踊りはぴか一のキレの良さ。小柄な体で、肩から紐で下げた大きな和太鼓を飄々と操る。天高く振り上げた腕の先の撥。それが、激しく、潔く、振り下ろされて、太鼓と激突。青年会10数人の呼吸がぴったり合って、飛行機でも戦車でも、ぶっとばしそうな打撃音がリズムを刻む。尻がびりびりと震えてきて、じっと座って見てなどいられない。
 いつのまに踊りだしていた同行の学生諸君は、いま、多摩のキャンパスでエイサー練習に余念がない。遅れてゼミ研修旅行に加わった、ニューヨークで舞踊教育を研究し、舞踊家でもある体育教員の同僚は、彼女のゼミ生のために数十万円を投入してエイサー用の太鼓類を購入。今度の体育祭では、沖縄で、人々が祖先の霊を迎え、送り返す合図になるという太鼓の音がこのキャンパスでも響き渡る。日本もアメリカもない。今も続く痛切な沖縄の人々の歴史、海やジュゴンや草木たちの苦しみが、私たちを動かす。人間らしく生きようとする勇気を与えてくれるのだ。

(2004年5月19日)