パレスチナ2002年夏:
● 好きだよ、そうやって泣いてるとこ… ●


<好きだよ、そうやって泣いてるとこ…>        ニザール・カッバーニー作  岡野内 正訳
(インニー・ウヒッブキ・アインダマー・タブキーナー)

好きだよ、そうやって泣いてるとこ(インニー・ウヒッブキ・アインダマー・タブキーナー)
暗く曇って、悲しみにくれた…その顔が好き(ワ・ウヒッブ・ワジュハキ・ガーイマン・ワ・ハズィーナー)

悲しみでぼくら溶け合っちまって、とろとろ(アル・フズヌ・ヤスフルナー・マアアン・ワ・ユズィーブナー)
お互い、なにがなにやら、わからない(ミン・ハイス・ラー・アドゥリー・ワ・ラー・タドゥリーナー)

そんな狂おしい涙の洪水…それが好き(ティルカッ・ドゥムーウ・ル・ハーミヤートゥ ウヒッブハー)
そんなどしゃ降りの季節…それが好きだ(ワ・ウヒッブ ハルファ・スクーティハー ティシュリーナー)

女たちの中には、とてもきれいな顔がある(バアドゥン・ニサーイ ウジューフフンナ・ジャミーラ)
それはますます美しくなる…泣いてるときに(ワ・タスィール・アジュマラ アインダマー・ヤブキーナー)

*Nizar Qabbani, Arabian Love Poems, Three Continents Press: Colorado Springs,CO., 1993, p.26より。 ただし、同書27ページのBassam K. Frangieh & Clementina R. Brownによる英訳も参考にして訳出した。)



<女たちの涙・・・>
パレスチナの人々が殺されている。女たちが泣く。子供が殺される。女も殺される。家が壊される。ミサイルが、爆弾が、打ち込まれる。人が殺される。女たちが泣く。・・・あれからもう2年。2002年の夏にパレスチナ難民キャンプを訪れた。その秋に書き始めたこの文章に区切りをつけておきたい。

<ニザール・カッバーニー>
5年か6年も前のこと。ぼくはかつて鉄鋼で栄えた、うらぶれたイギリスの地方都市に住んでいた。その一角だけりっぱな、町の成人教育センターでみつけた、分厚い成人向けの大学(いわゆるコミュニティ・カレッジで、日本の高校と大学の教養課程を合わせたようなもの)案内。そこから、高校卒業資格(GCSE)の単位を与えるアラビア語のクラスを発見した。それから数日して、ぼくは週に1度、40分ほどかけてバスを乗り継いで、町を見下ろす高台にあるそのカレッジに通うようになった。
「先生のいちばん好きな詩を教えてください」という私の求めに応じて、亡命イラク人の女性の先生は、上に掲げたこの詩のコピーをくれた。詩人の名はニザール・カッバーニー。シリア生まれだが、その詩のあからさまな愛の表現ゆえに亡命を余儀なくされ、今はイギリスに住んでいる…と言っていたような。なんでもアラブ世界でいちばんポピュラーな詩人だとか。

<パレスチナのカッバーニー>
飛行機の乗り継ぎの暇つぶしにと、リュックに滑り込ませたアラビア語・英語対訳の詩集のコピー。クアラルンプル空港のベンチに寝っころがって、そいつを眺めるほどに、異国生活を余儀なくされたアラビア語の先生の憂愁が蘇ってくる。彼女が夫の留学に連れ添ってイギリスで数年暮らしたある日、イラクの友人から電話があったという。数年前のとあるカフェでのフセイン大統領をネタにした冗談話がすべて録音・密告されていたらしく、友人たちはすべて秘密警察に捕まって帰ってこない。もし帰国すれば同じ運命になるので、そのまま亡命したほうがいい。…というその電話以来すでに10年。イギリスのテレビばかり見て英語の小学校に通う2人の息子たちにアラビア語を教えるのは私たちの義務よ。これは、ジハード(普通は「聖戦」と訳されるが語源的には神聖な義務といった意)なの!と同じ境遇のイエメン人の母親たちに言ってのけた彼女。冬のイギリスの寒風に横面を張り飛ばされる彼女の横顔の憂愁に敬意をいだいたことはあっても、こんなにも直截に悲しみとそれを凌ごうとする愛を詠った詩がいいなんて思ったことはなかった。
ぼくも年をとったのかもしれない。行きのクアラルンプルで、久しぶりのアラビア語を声に出して、この詩いいな、と思う。帰りの機中では、暗唱しながらキャンプで出会った女性たちを思い、涙してしまう。

<ワークキャンプ2002>
「パレスチナ子供のキャンペーン」という日本のNGOが主催する夏のワークキャンプに参加した。8月半ばから2週間、レバノン南部のパレスチナ難民キャンプに滞在して共同墓地の清掃や貧困家庭の家の壁塗りをした。
子供向けに絵画教室をやった画家や画学生のグループもあわせて総勢40人ばかり。諸武装勢力の群雄割拠で、誘拐が相次ぎ、戦火の絶えなかったレバノン。イスラエルに占領されて厳重に監視され、およそ訪問など考えられなかったレバノン南部のパレスチナ難民キャンプ。・・・すでに弾痕の残るビルなどはめったに見られなくなったベイルートの市内を抜け、緑がかった輝くブルーの地中海を右手に見ながらハイウェイをバスで南下しながら往時のレバノンの惨劇を思って感慨にふける。

<包囲されるキャンプ>
まずはレバノン軍の検問所。これ見よがしに停めてある装甲車。自動小銃をもつ兵士たちの前に停車する小型バス。さすがにNGOルートで話がついているらしく、われわれのリーダーが書類を見せ、向こうはじろっとバス内に鋭い一瞥をくれ、東アジアの顔を確認。それほど待たされることもなくこの検問を突破。そこからほんの10数メートルであろうか。こんどは難民キャンプを守るパレスチナ側の検問。これは、ほとんど顔パスで通過。自動小銃をもつPLO兵士が所在なげに座って見送ってくれる。
難民キャンプはレバノン領内にあるが、国連のパレスチナ難民を専門に扱う機関UNRWAが管理し、レバノン国にとっては治外法権の外国扱いだという。周囲のレバノン人のオレンジ農園などとの間には金網があり、キャンプは、レバノン軍に包囲されているかのよう。…つい数年前までは、レバノン軍とキャンプを守るPLOとの間で激しい戦闘があり、さらにイスラエル軍の侵攻と占領支配のもとでは、男たちのほとんどが収容所に連行されたりもしていたのだ。

<海を見下ろす難民キャンプ>
われわれ日本のNGOの一行は、はるかに地中海を見下ろす小高い丘にへばりつくように広がる難民キャンプに滞在した。「子供の家」という青少年センターのような3階建てのビル。3階の小さな3室を男性が、大教室を女性が占拠して、床にマットレスをしいて、寝室にした。4階は屋上で、そこからは、西方の地中海やその海岸に立ち並ぶ高層ビルのあるレバノンの都市、そしてはるか南のパレスチナ(イスラエル領になっている難民たちの郷土はそう呼ばれていた)の山々が見える。ちょっとした大規模なミーティングは屋上でやった。センターの所長の話。私たちがパレスチナの衣装を着て踊ったパレスチナ・ナイト。日本食を出し、アイヌ舞踊を踊ったみせたジャパン・ナイト。最後のお別れパーティー。…

<ブドウがなる庭>
1階には雨と日光をしのぐ屋根をつけた庭がある。まわりは高いフェンスと金網で、いちばん上は鉄条網。我々はそこで、食事やお茶、ちょっとしたミーティングをやった。その金網には、どこからともなく現れる近所の悪ガキたちがぶら下がって、奇声をあげた。フェンスの向こうは難民が住む民家になっていてやはり3階建てくらいのビル。…だがわずかの隣家との隙間には、ブドウやちょっとした樹木が植えてあって、ブドウからはまだ緑のブドウの房がぶらさがっている。
食事は、ともかくうまい。われわれのためにベイルートから来たという専属料理人のパレスチナ人夫婦がつくるパレスチナ料理のセンスのいいこと。いつも皿いっぱいのミントやらニンジン、トマト、キュウリ、レタスなど生野菜サラダがでてくるのもうれしい。ハーブのきいた料理に、バラエティのある甘いデザート、そしてふんだんなお茶がそろえば、酒のない食生活も苦にならない。

<パレスチナの仲間たち>
そのシェフとカッバーニーの詩が好きだというつれあいの夫婦はここでのわたしのアラビア語教師。1階の厨房を通りかかるごとに顔を出し、一口会話教室。1階を入ってすぐ左の受付のような事務室、その隣の歯科待合室と診療室になっている2室。そこの女性たちも挨拶仲間。事務の女性はいつも忙しいのだが、まったくひまそうな時のある女医の歯医者さんとは診察室に入り込んでよく話した。丸顔の若い方の女医はまだ勉強中の独身。スカーフでくるんだ顔の黒い目をくりくりさせて、甘いお菓子やこの地域名物のお砂糖いっぱい紅茶の害、ベイルートで時たまおこなわれる講習会、この診療所のことなど語る。…栗色の髪をなびかせた、細身の年長の女医にはつれあいがいて、さわやかイケ面青年が、時々現れて話し込んでいった。ある昼下がりのこと、待合室の入り口に腕組みをして突っ立っている彼女に挨拶をすれば、「昨日、彼が失業したの。パレスチナ人がここで仕事を見つけるのはほんとうにむずかしいの。」と言ってため息をつく。…2階には本とパソコンが並ぶ図書室とコンピューター室。夕方に現れるコンピューター指導の気のいいお兄さんはスーパーで会計ソフトの仕事をし、ここではボランティア。レバノンが領有権を主張するパレスチナ北部の村出身のせいでレバノン国籍ももち、レバノン軍への軍務経験もある。地域の若者たちに開放されるセンターのコンピューター室を、インターネットを使ったパレスチナ難民たちの情報ネットワークの拠点にするのが夢だ。

<仕事仲間の若者たち>
最初の1週間は、その海を見下ろす難民キャンプではなく、そこから車で20分も走ったところにある海辺の別の難民キャンプで働いた。キャンプの共同墓地の墓掃除。青々と広がる地中海の波が迫る白い砂浜。キャンプになっている集落のはずれ、陽光を反射して眩しい砂浜の続きに突然のように広がるのが墓地だ。照りつける太陽の下で、地域リーダーの元気のいいおばさまのまわりに集まり、コーランの開扉の章を唱えてから仕事にかかる。十字架ではなくコーランの一句などが掘り込んである、西洋によくあるような四角の墓が乱雑に並ぶ。日本の浜辺にもよくあるような草、それに直径三センチ以上もありそうな、忍者が使うマキビシのような刺のある種をいっぱいつけた植物。せっかく砂地に生えた植物なのに、と思うが、元気のいい数名は、容赦なく草を引っこ抜き、墓の全貌を暴いていく。なるほど、草の下には、割れた瓶やビニール袋やらありとあらゆるごみがいっぱい。陽射しの強さの危険を本能的に感じて、私の体はさっそく熱帯行動対応ちんたらモードに入り、動作は緩慢、日陰で休んだり、おしゃべりのほうが忙しい。

<墓掃除なかま>
応援の小学生たち、主力部隊の中学・高校生くらいの男女。日本側もそうだが、がむしゃらに勤勉に働くのもいれば、私のようにむしろ交流を旨としながら仕事を楽しむ者も。…私が日本からもってきた皮の軍手の片方を貸せといってきた女性がいた。ビニールごみ袋のあちこちから突き出たまきびしのトゲを指差して、こんな草の入ったごみをつかむのは危ない、という。なうほど、その友人は、ちょうど普通の軍手で刺のあるごみをつかんで袋に押しこもうとして、トゲに刺されてしまったらしい。こうして、われわれは軍手を分かち合って、墓の間のあちこちから子供たちが集めてきたごみの小さな山を袋につめ、道路の近くの集積場までもっていくことになった。…「Mを知ってる? 私の母親、スポンサーなの。」指をやられたほうのベールの女性は、別の日本のNGOでやっている里子制度で資金をもらい、学校に通っているという。Mはたまたま私の知人で、しばらく共通の話に花が咲く。墓碑のアラビア語をついつい覗き込む私に、彼女たちは説明してくれる。「…そう、三年前。38歳ね。…こっちは67歳。…これは、あそこにいる子のおじさんの墓。」ごみの多くは墓の上に置かれた、枯れた花束。時にまだ水気がわずかに残る新しい花束もある。「…ああ、こっちには行きたくない。いつもここに来たら泣いてしまうから。」と、だだをこねるように叫び声をあげた彼女。そういいながら草をかきわけて別の墓石を乗り越えてその一角にいけば、三つの墓石が並ぶ。「お母さんと、お姉さんと、弟の墓ね。…」

<われら準備完了!>
墓場から南をのぞむと、山が見える。その山のむこうにぼおーっとかすむ山は、パレスチナだ、という。まぶしい白砂の浜の向こうにはどこまでも青い地中海。イスラエルの船がきてミサイルを撃ってきたことがあったというが、突然聞こえた爆発音は、違法ダイナマイト漁。きらきら光る死んだ魚をつかんで歓声をあげて走る真っ黒に日焼けした子供たち。
元気いい中学生くらいの男の子。緑のTシャツに黒々と踊るアラビア文字を見れば、「われら準備完了!」と読めた。「準備完了?」と、声に出して読めば、「そう。おれたちは準備完了だ。…おまえは、準備完了か?」と逆に聞き返してきた。何の準備なの…?と聞き返そうとして、その下の文字を見て、思わず、息を呑んでしまった。「殉教…」。つまり自爆攻撃の準備完了なのだ。なるほど、同じTシャツを着ている子どもたちが何人かいる。…と、そのときリーダーから召集がかかり、少年は私のあいまいな笑顔を肯定的に解釈したのか、歓声を上げながら走り去っていった。

<壁塗り仲間>
あとの1週間は、われわれが滞在した難民キャンプにある貧困家庭の壁塗り。資材をかついで、キャンプ内の入り組んだ、家々の間の狭い坂道を通り抜ける。丘の上にあるその家の2階、というか屋上からは、遠くに海が望めた。元気な女子高生3人組。親分肌で活発なAは、すでに許婚がいるという。ジーンズにTシャツ、肩に触れない程度の金髪をさっそうとなびかせて、冗談ばかり。あとの2人は、顔だけ出した敬虔なイスラム教徒女性のスカーフに、長いスカート。暑い!といいながらもスカーフは決して取らない。青年のリーダーのひとり、腕にLOVEの刺青をいれたB君。てかてかした黒髪をバックになでつけて、櫛を放さないおしゃれだが、仕事はてきぱきと速い。

<コンクリート・ブロックの家>
よく日本でもみかける塀などに使うコンクリート・ブロック。それをつみあげ、セメントを塗りつけた壁。その上からローラーと刷毛で白ペンキを塗る。丘の上方あたりにあるこちらから、ごちゃごちゃと谷間にまで積み重なる家々がみわたせる窓のある、六畳くらいの奥の部屋からやる。初日にベッドもワードローブも運び出してがらんどうの部屋。エジプトからの歌番組の衛星放送をつけっぱなしにしたテレビのある四畳半くらいの中の部屋には、おばあさんのベッドがあってこの部屋の壁塗りはなし。この家への入り口のある路地に面した六畳くらいの外の部屋。これは前面真っ白に。ソファでもおけばリビングになるはず…。畳んだベッドやらがいっぱいの二畳くらいの物置部屋もペンキ塗りはなし。四畳くらいの水タンク部屋も塗らず。コンクリートの床に大きな水タンクがでんと置いてあるだけで、そこにしゃがんで調理をする台所でもあり、風呂場でもある。トイレは門のすぐ右手、2階というか屋上にむかうコンクリートの階段の下の小さなスペース。そんな部屋をつなぐ廊下部分の天井と壁にも白ペンキ。日本でもやったことがない初仕事。怪しいボランティアだが、それはこっちの若者たちも同じ。老人と女性と子供だけで、稼ぎ手のいない家。気持ちのいい笑顔のお母さんが頻繁に出してくれる甘い紅茶、どろどろのコーヒー、つまみのザアタルというハーブ入りパンのうまいこと。いっしょに汗をかく楽しさ。しょっちゅう訪れる親戚やら近所の人やらのうれしそうな顔。軽口と笑いの絶えない仲間の輪。白ペンキといっしょに汗と自分と仲間たちがキャンプに溶け込んでいくような…。

<コミュニティとしてのキャンプ>
壁塗りをしたはるかに海の見える難民キャンプ。墓掃除をした海岸の難民キャンプ。それらからすこし離れた、レバノン政府に認められていない「非合法」のパレスチナ人居住区。かつて一日がかりで訪問した、イスラエル軍が侵攻したときの大虐殺で有名なベイルートの難民キャンプ。…どこも、子供があふれ、若者がたむろし、老人がたたずみ、モスクがあって、ハマスやファタハといった政治党派のスローガンが壁にとぐろをまく。いっしょに働いた高校生くらいの若者たちは、キャンプの生まれ。その親たちもそうだ。祖父母の世代がようやく、故郷のパレスチナを知る人たち。今ではテントどころかかなりりっぱな5階建てくらいのアパートもある。共通するのは緑というか樹木のないこと。雑然と家を継ぎ足していく計画性のないスラム式の町並み。ずっとここに住むぞ!自然と調和して生きていくぞ!という声が聞こえてこない町。…一時的に避難する場所と思っていつのまにか3世代もたってしまったといいたげな住処。町並み。それは、日本の多くの大都市近郊の新興都市でもよく見る風景だが。

<きゃーっ!>
私たちが滞在する「子供の家」の屋上で、パレスチナ・ダンスの練習をした。パーティーでのびっくり出し物として、日本人がパレスチナの衣装をきて踊ることになっていた。振り付けを覚えるちょっとした休みのひととき。突然、町のどこかから拡声器でニュースのような放送。踊りの先生格のB君や若い女性、見物になっていた女子高生たちの一群は、一瞬、耳を澄ませたが、すぐにサッカーで点が入ったときのように、黄色い歓声をあげて飛び跳ねて喜ぶ。なあに?と聞けば、「イスラエル兵が一人殺されたの。殉教よ!」
なになに?と集まってきた日本の学生たちの笑顔が一瞬にして凍りつく。爆弾を抱えたパレスチナの若者の死。兵士になっていたイスラエルの若者の死。映画で見る大本営発表、敵機撃墜!の様な割れた拡声器の音。死をサッカーの得点のように喜ぶパレスチナの若者たち。

<自爆攻撃をどう考えるか>
だが、続く拡声器の放送を聴いた女子高生の一人は、「ちがう、ちがう、パレスチナ戦士じゃない。レバノンのヒズボラ(神の党を意味するレバノンの党派)の銃撃よ。」とがっかり。レバノンの南部地域を支配するイスラム武装勢力がイスラエル兵を銃撃・射殺したらしい。
果敢な日本の若者の中には、さっそくこの機会を捉えて、自爆攻撃のことをインタビューする者も。「自爆攻撃のこと、どう思う?」
この議論はあちこちで何度もやった。参加した日本の学生の一人は、日本にきたパレスチナの青年が、自爆攻撃をやりたい!とつぶやくのを聞いて、「しょんべんちびりそうなほど」驚き、この旅行に参加したのだ。この問いへのいつもの答えはこうだ。「あの人たちは殉教者。イスラエルと戦うにはほかに方法はない。」そして、「この中で、自爆攻撃をやってもいいと思っている人は?」と質問すれば、ほぼみんなが手を挙げる。…ずいぶん親しくなってからのこと。そんな話の後で、「ほんとうにそうなの?」と食い下がる日本の学生に、「そりゃ、ほんとうは、生きていたい。」といった女子高生。「でも、私たちの故郷は、あの山の向こう。レバノンでは仕事を見つけるのも、学校に行くのもむずかしいの。」しっかりとそう言われると、まじめな日本の学生はぐっとつまり、ぼくは、悔し涙で目がいっぱいになる。

<フィンランドの女性美術家>
同じキャンプの「子供の家」には、ボランティアで絵を教えるフィンランド女性もやってきた。小柄で丸っこく、ムーミンの世界からやってきた妖精のようにすてきなひと。むかし習ったフィンランド語を時々思い出して発音してみせると、大笑いしながら喜んでくれる。アメリカの映画学校でビデオ撮影技術を1年間学んで、いまはヘルシンキでビデオを使った作品を作るアーティストとして暮らしているという。最初は、日本の美術教育チームを紹介しながら、そのうちいろんなことをずいぶんしゃべった。難民女性の記憶にこだわる彼女の美術のこと、キャンプのこと、彼女たち欧米のボランティアの人たちが別のNGOのビルの屋上にマットレスを出して、夜空を見上げながら寝る星の美しいこと。…いまはアルゼンチンタンゴを習っているという彼女とサルサも踊った。パレスチナの踊りも覚えたいと、練習に参加してきた。さよならパーティーの出し物の踊りは、まずは虐殺されるパレスチナ人のシーン。私は、モスクの祈りを先導する長老で、狂信的シオニストに蹴り殺されてしまう役。その倒れた死人の魂を、踊るパレスチナの女性たちがよみがえらせ、戦いに立ち上がる、という筋だ。伝統的なパレスチナの踊りに比べると、この踊りは、ふりつけもパッとしないし、プロパガンダ劇の匂い。…彼女にそんな感想を漏らせば、彼女も、キャンプの集まりのあちこちで感じる強烈に民族主義的な、全体主義的といいたくなるようなナショナリズムの匂いには、当惑する、と。そうならざるをえない状況もわかるけど。…

<この人たちをひとりにしないで…>
最初は、パレスチナの国旗か、難民の権利のシンボルである鍵の絵しか書かなかった子供たち。それが、美術教室で教えるうちに、身の回りのもの、自分の好きなもの、いろんなものを書く喜びを身につけていく。そんな子供たちの変化は、日本の美術家チームもフィンランドの彼女にとっても変わることのない喜び。ぼくは、いつのまに英語で力説していた。…だから、ぼくたちがやってきて、そんな、こちんこちんのナショナリズムとはちがう空気を入れることが大事じゃないか。それが、ほんとうにこの人たちの権利を回復できるような強い運動を作ることにつながるんじゃないか。この人たちをひとりにしておいてはいけない。ぼくらも加わって、生き生きとしたみんなのパレスチナを作っていこう。そんなうねりで、人の土地を奪ってかたくなに武器をはなさない人々の不幸までも飲み込んでしまえるように。…

<あれから2年>
あれから2年。イラクでの戦争の影で、パレスチナは空前の虐殺にさらされている。キャンパスでは、何度か、パレスチナ・ナイトと称するイベントをやった。難民キャンプを、パレスチナを訪れたメンバーが、パレスチナのことをしゃべった。映像を見せた。パレスチナにつながる人々は日本でも確実に増えてきた。あの人たちはひとりではない。しかし、そんな人のつながりをはるかに超えるように、イスラエル軍のミサイルと戦車の砲弾がパレスチナの人々と家々を砕く。巨大な壁が作られる。パレスチナの若者の絶望の爆弾が炸裂する。…そんなニュースのシーンをちょっとみただけで、ぼくの目はくやし涙でいっぱい。そんな涙を出せる人を世界中にいっぱい作りたい。悔し涙で溶け合った人々の愛と怒りが世の中を変えるのだ。南アフリカの、あのアパルトヘイトだってなくすことができたのだから。

(2004年6月30日)