● …ああ美しい、天皇陛下の… ●

グアム先住民の旅、2004年秋


<白地に赤く…>

   しろじにあかく、ひのまるそめて、
   ああうつくしい、てんのうへいかのくには


最後のことばが、天皇陛下の「国」だったか、「旗」だったか。彼自身もウラ覚えで、口を濁した。私の記憶もさだかでない。一列に並んで虐殺の洞窟に向かう丘の道を登りながら、はるかにグアム最南端の青い海を見下ろせる尾根に出た。とたんに、先頭に立つ元村長のじいさんが歌いだしたのだ。驚いて顔を見合わせるわたしたち。その直前にいっしょに昼食をとったときにも、突然に、流暢な日本語が断片的に飛び出す時があった。小学校の高学年の3年間、日本軍統治時代のグアムで叩きこまれたという日本語。私たちといっしょにいて、驚く私たちの反応を見るうちに、どんどんよみがえってくるらしい。山歩きのリズムは、この70を越えた老人の体の中から「日の丸」の歌のメロディまでよみがえらせたようだ。ぼくの小学校時代、音楽の教科書にのっていたこの「日の丸」の歌の歌詞には「天皇陛下」なんてことばはなかったけど。…

<おまえ、立て!>
すこし歩いて林に入り、その洞窟の前に着いた。洞窟はすでに埋められている。入り口の前には、小さな石碑があって、20名ばかりの犠牲者の名前が刻んである。そのとき、すでにアメリカ軍の艦船は、集結して、この山から見えるグアム南方の沖合いにまで迫っていた。日本軍は、もうひとつの洞窟で、先住民村のリーダー格のものたち20名ばかりを虐殺したあと、この洞窟では、さらに特に体格のいいものを選んで、殺した。元村長は、その話をしながら、突然、ぎろりと私たちをにらむと、「I will show you. Sit down please, here.(どんなだったか見せてあげよう。ここに座ってみて。)」と言って、Oさん、Rくん、それにわたしを含む同行の男性3人を石碑の側に並べてしゃがませた。そして、Rくんの前に立って、頭を指差すと、軍隊調の日本語で叫んだ。「おまえ、立て!」驚いたRくんがのそりと立ち上がると、こんどは、Oさんの前にいって、「おまえ、立て!」…こうして連れて行かれた、身長180センチ以上はある体格のいい、その先住民村の若者たちは、2度と帰ってこなかったという。

<ベトナム戦士>
あとでOさんが田舎の親父にそっくりだといった、グアム南端の先住民チャモロ人村の元村長。小柄で、日本のいなかのじいさんのような風貌。アメリカ軍の迷彩服にりっぱなゴム長。彼はそれで川をじゃぶじゃぶ渡り、腐臭のすごい沼を通りぬけて、もうひとつの虐殺の洞窟へ案内してくれた。われわれは、スニーカーをばかりか、ズボン、Tシャツまでどろどろぐしゃぐしゃにしてあとに続く。やぶ蚊の襲撃にも彼の迷彩服はびくともしない。虐殺の洞窟の記念碑の近く。手にしたナタで、あたりに落っこちて小さな芽を出した椰子の実をかちわって、中の実を差し出してくれる。脂っこいその実の甘くでおいしいこと。…グアム先住民を虐殺した日本軍が敗退し、やがてアメリカ軍が上陸。アメリカ軍政時代に青年になった彼は、多くのチャモロの若者と同様に、アメリカ軍に入隊し、朝鮮戦争、ベトナム戦争に従軍。特にベトナム戦争には3年間、という。…ベトナム人を殺しましたか?というノドまででていた質問はついに出せずじまい。「戦争は酷いものだ。」という一般的なコメントがそのときはなにか特別な意味をもつように感じられてしまったのだ。…そんな、アメリカに忠誠を誓う元兵士の村長に、われわれの案内をしてくれた先住民自決権運動の活動家Hさんは、いささか不満顔。

<放射能汚染の村?>
それでもHさんは、つい前日のグアム大学での太平洋規模での反核運動の集まりで発表されたニュースをもって、その元村長とずいぶん話しこむ。グアム最南端のこの村で、過去、以上に高い放射能が、検出された。検査技師は、その事実を隠してきたが、きのう、その集会で、涙ながらにそのことを訴えたというのだ。それは、ちょうどビキニ水爆実験の直後のこと。当時、この村の沖合いの小さな島には米軍の基地があり、ビキニ実験後にその方面からの艦船などが多く立ち寄っていたという。…そして、この村では、以後、ガンで倒れ、死ぬ人が急増した。元村長の身内にもガンで倒れた人が多いという。…彼はすごく興味をもっていたよ。彼が動いてくれると、この問題の解明はもっと進むのだけど、と期待をかけるHさん。

<3泊4日グアム・リゾート>
今年3月に、ゼミの学生諸君と先住民問題を中心とするグアム研修旅行をやったあと、日本の戦争被害証言を聞こうという趣旨のNGO「アジア・フォーラム」との間で、あれよあれよと話が展開。9月末には、3泊4日で、グアムを再訪することになった。12月に予定されている講演会のために、グアムから、日本軍による先住民虐殺の生存者を招待するための予備調査、というわけである。3月にお世話になった先住民運動の活動家Hさんに再び全面的にお世話になっての調査。…戦後生まれのHさんにとっても、戦争中のことを掘り起こすのは、なんとなく、荷が重い感じ。…しかし、過去のことをしっかり見据えて、グアムの先住民と日本の住民たちとの間の未来をつくっていきたい、という私たちの説得・協力要請に、Hさんは最大限の下準備をして答えてくれた。グアム先住民の墓をブルドーザーで壊してホテルを乱立させてしまった日本資本と観光客に対して、先住民の尊厳の立場から、果敢に墓地保存・乱開発反対運動にも取り組んできたHさん。いつもながらのエネルギッシュな仕事ぶりで、われわれを乗せてバンをすっとばし、こちらをのぞきこんでしゃべるので、同上の私たちは、生きた心地がしない。…

<チャモロ・ハーブの女性>
最も始めの時期にわれわれがリクエストしていたのは、昨年暮れの日本軍による被害証言委員会で、初めて明確な証言をして地元紙にも大きく取り上げられた女性。日本軍は、彼女の目前で母親をレイプして殺し、弟は収容所で食べ物を盗んだとして殴り殺された、という。Hさんは、ひょんなことで、チャモロの伝統的なハーブを採っていた彼女と話をしたという。…ずいぶん迷った末に探し出した彼女の家は、質素な木造平屋の小屋のようなもの。それでも、テレビもあれば冷蔵庫も。マリア像や、造花や、終日灯しつづけるという蝋燭、そんなおごそかな伝統的なチャモロ・クリスチャンの祭壇を中心とする部屋。奥のベッドルームから椅子をもってきて、近所のおばさんと合わせてみんなで座る。ドアのすぐそばの台所では、大きな鍋に、カゼ薬として調合したというチャモロの伝統的なハーブ茶。草やら木の枝、妙な果実などがぐつぐつ煮えている。ちょっとカゼ気味というHさんは、ペットボトルに入れてもらう。われわれにもおおきなカップにいっぱい。やはりカゼからかろうじて回復したばかりの私には、実においしく、何杯もおかわりを。…Hさんはチャモロ語で原料を聞いている。家伝のもので、症状に応じて、さまざまなものを混ぜるとか。

<ほんとうのことを知ってほしい>
そのことにすこし触れただけでも、すぐに涙いっぱいになってくる彼女に、Hさんはとても細やかな気遣いを見せる。手を握って、チャモロ語で話しかける。…かろうじて、彼女が証言する気になったいきさつを聞かせてもらう。…もう70歳を過ぎた彼女の親しい友人が亡くなった。ほんとうのことを知る人がどんどん死んでいってしまう。…悲しいこと、恥ずかしいこと、思いだしたくないことだと思って、ずっと黙ってきた。でも、ほんとうのことを知ってほしい。死ぬ前に言っておきたいと思った、と。

<ほんとうの歴史を知ってほしい>
もうひとりの女性の生存者は、今回訪問の本命の人。あの元村長が見た洞窟の虐殺と同じ頃の、別の集団虐殺の生き残り。ある洞窟では、女性ばかりが押し込められ、集団レイプされたうえで、殺された。私たちが合った女性は、その洞窟の近くで、男性が中心だった洞窟での虐殺の生き残りだった。…初日の家への訪問では、あいにく不在でからぶりに終り、会いたくないのではないかと心配していたHさん。こんどは、孫の誕生パーティーが終った頃に、会場になっていた海辺の公園へ。孫はどこかに遊びにいったのであろう。長髪の若い息子と椅子に座っていた彼女は、とても穏やかな笑顔のおばあさん。…ひとめでお互いに気に入ったらしいHさんと、しっかりほとんど英語で受け答えする。我々の訪問意図にしっかりとうなずき、歴史として、戦争のほんとうのことを子供たちに伝えたい、と言う。自分が虐殺の生き残りであることは、息子にも孫にも言わずに過ごしてきた。でも、孫に、「おばあちゃん、戦争にいったんでしょ? どうやって戦ったの?」なんて言われると、戦争のほんとうのことを伝えたいと思う、と。彼女の知り合いには、そのレイプ虐殺の生き残りのひともいるという。名乗り出なくても、村人には公然の秘密なのだ。…息子さんか、親戚をいっしょに招待すれば、可能性はあるかもね。でも、心臓が悪いといっていたから、すこし心配、とHさん。

<心の傷のケア>
その晩、つまり最後の夜、Hさん宅で、彼女と建築家の夫、独身の娘が作る心づくしのチャモロ料理パーティー。ずっとわれわれの調査とインタビューの模様をビデオで記録しながらNGO代表の役もこなしていたSさんはついにカゼでダウン。こちらは、ビールにワインを買いこんで、Hさんも含めて酒盛り。…Hさんは、これまで先住民の自決権運動中心でやってきたけど、戦争被害の問題に気づかせてくれてありがとう、と言う。きょとんとしたわれわれに、彼女は言う。こうやって、調べて行く過程で、戦争被害の心の傷を癒すこともできず、黙って耐えてきた人々の存在がわかってきた。彼女たちを集めて、精神医学や心理学の専門家の力も借りながら、心の傷のケアをできるような、ネットワークを作りたい、と。…彼女たちの心のケアをやりながら、同時に、歴史の実際のすがたを伝えていくことができればいいな、そんなところからも、若い人がチャモロの歴史と向き合って、年寄りから学び、自分たちの歴史をつくっていく、そんな気持ちになればいいと思う、と。

<自然と歴史に向き合う>
次の日の朝はどしゃぶりの雨。飛行機出発までの数時間、ようやくおさまった雨雲の雲間を縫うように、レンタカーを飛ばして、ほんの10分あまり泳ぐために、北部の自然保護区内のビーチへ。3月に来たときにHさんに教えてもらった、地元民しか泳ぎにこない穴場。浜辺の椰子の木陰ですばやく着替えて、ゴーグルをつけ、サンゴ礁へ。…スペイン人がくる前は、人々はほんとうに真っ裸だった。男も女も、素っ裸で海を抱きしめ、魚をとった。こんな暖かくなまめいた海。…Hさんたちが展示した大聖堂のチャモロ民族博物館には、ほんの数年前に出されたという、ローマ法皇による過去の暴力的な宣教へのお詫びと反省の文があった。スペインのあとにきたアメリカ。そのあとにきた日本。そしてアメリカ。どれもとりかえしのつかないほどの爪あとを島の人々に残した。歴史は消せない。記憶は消せない。日の丸の、天皇陛下の歌はじいさんの頭から消せない。水爆の放射能は、何千年たっても消せない。…博物館には、体格のいい裸の男性に裸の人々がひざまずいている絵もあった。スペイン人が来る前のこの島も階級社会。天国なんかじゃない。…どんな歴史も自然も、おれたちでしっかり向き合って、これからのために生かしていくしかない。傷ついた人々と自然へのケアって、そういうことじゃないかしら。

(2004年11月7日)