● 黄色い花咲く天国、裂けて崩れる大地 ●

―2004年9月、エチオピア―

  

<坂をのぼりつめると、そこは天国だった…>
つづら折りというかヘアピン・カーブというか、山の斜面にへばりついた坂道をバスで昇る。海抜3000メートルを優に越えているはずのこのあたりには、もう樹木はない。雨季の終り、エチオピア暦の正月にあたるこの時期に、いっせいに花開くといわれる黄色いマスカル(現地のことばで十字架の意)の花が、ちらほらと見える。坂をのぼりつめると、突然に視界が開けて、はるかかなたまでの大草原。マスカルの花が黄色い初雪をうっすらと散らしたかのようにそれを彩る。…草原のわずかなへこみにできた水溜りのような池。羊。集落。草原を歩く人。…天空に突き刺さるような地平線。そのむこうは崖になっていて、はるか数千メートル下の下界。ここは天に近い台地の上の平原。文字通りの天国なのだ。

<大地の裂け目に戦車の骸>
北へと向かい、台地の裂け目の坂道を降りていくと、道端に戦車の残骸がある。バスを止めてもらって、砲身を触る。ほんの10数年前、軍事社会主義政権(人々は前政権のことをこう呼ぶ)が倒される時、ここは戦場だったという。前政権のもとで、最北部沿岸地帯のエリトリア住民たちは、軍事社会主義エチオピアからの独立を求める戦いを続けていた。ここいらへんより北部に多いティグレ人は、エリトリア住民とは民族的にも歴史的にも深いつながりをもっていたが、その戦いの最前線に立たされることになった。前政権は、そんなティグレ人が叛旗を翻し、それにエチオピア国内の主要民族が呼応して、わずかの戦闘の後、あっけなく倒れた。どうやらこの戦車はそのときの戦闘のものらしい。分厚い鉄の塊。血塗られた死体や黒焦げの肉片をこびりつかせていただろう鉄の塊。…エリトリアはこうして独立したが、その後の国境紛争で、いまだにエチオピア北部のエリトリアとの国境地帯では緊張が続き、われわれは近づけない。

<アフリカ大陸縦断>
ゼミ研修旅行のプロジェクト・チームの学生が出発前につくった「旅のしおり」に次のような文を書いた。


2004年夏エチオピア研修旅行に参加するみんなへ!

たーくん(岡野内 正)

とにかくお金がかかりそうなので、ぜったい無理だと思っていたエチオピア研修旅行が実現しそう!・・・

やったね!学生プロジェクト・チームのがんばりのおかげだと思う。もちろん、とくにこの話のきっかけになったバーバリッチ優子さんを始め、勉強会で2度も大学にきていただいた内藤さんなどエチオピアにつながる日本の人々、エチオピア大使館をはじめとする在日エチオピア人の方々の熱い応援があってのこと。深く感謝します!

でもとにかく生きて帰ってきたい。いろんなすごい病気やら、思わぬ事故やら、なにが待っているかわからない。自分の身は自分で守るのが基本だと考えて、みんなの短い命を大事にしてほしいと思う。

それでも、やはり天命がつきるということはある。そんなわけで、やはり覚悟はして、身辺整理をしていこう。100万人とも言われる人々が、いまだに飢え死にの恐怖に直面することがあるというこの地域の大地に、日本からのこのこ出かけていく覚悟。・・・世界経済と政治、世界史のうずに巻き込まれているエチオピアの人々と大地とを全身で感じて、自分たちに何ができるか、もし残された命があるならばどう生きるか、それを考えよう。そんな29人の仲間がもてることを幸せに思う。

このしおりやこれまでのいろんな資料を活用して、最後まで、ことば、歴史、いろんなことをしっかり勉強しようね!そして、帰ってこれたら、いやなんとか帰って、すてきな報告書をつくって報告会をやろうね!



そう。お金がないわたしたちは、首都アディスアベバに飛行機で入ったあとは、南の町へバスで丸1日、北の町へ丸2日、合計6日間ほど、ひたすらバスの座席にゆられてアフリカ大陸を南北縦断した。サバンナが広がり、道端でダチョウが草を食む南部から、マスカルの高原を経て、市場に向かう道いっぱいのラクダの群れがバスを止める北部まで。

<バスのなかまたち>
日本の学生諸君28人は、かわるがわる下痢をし、熱を出した。わたしは、アディスアベバ到着直後、日程を調整するための連絡で睡眠がとれず、やや高山病ぎみだったが、あとはすこぶる元気。年をとる楽しさのひとつは、自分の体の限界を知ってうまく体をコントロールできるようになることだ。…ほぼ全日程を同行したエチオピアの学生3人、現地旅行社のエチオピア人ガイドと運転手がひとりずつ。貸し切りのイタリア製の中型バスは、もちろん冷暖房なしの時代物。屋根の上に荷物をのっける第3世界長距離運行型。…虫除け薬などで寝る時までしっかりとガードした数名をのぞいて、わたしを含むほとんどの日本人は毎日のようにダニやノミにあちこちをかじられた。

<砲撃におびえる教室>
同行したエチオピアの学生のひとり、U君は、北部出身のティグレ人。ほとんど生まれたときからずっと戦争が続き、砲撃や銃撃、爆撃の音を聞いて育った。学校でも気の休まるときがなく、ちょっとした物音に、みんなで外をのぞき、不安な顔を見合わせては授業を続けたという。…その地域では、どの親も子供に教育を受けさせたがらない。読み書きができて、算数ができるようになったとたんに、兵隊に取られてしまうからだ。兵隊に取られたらほとんど死んでしまう。昔からつながりが深く、U君の家を含め、多くの人々の親戚が住むエリトリアの人々と殺しあわなければならない。軍事社会主義政権時代のエチオピア軍は、そんなふうにエリトリアとの戦いの前線に、わざと信頼していないティグレ人の新兵を、充分な武器も訓練もないままに投入した、と言う。…そう、そんな話は、われわれが首都近郊のNGOを訪問してきた感想を話すうちに出てきた。エチオピアには、小学校の絶対数が少ない。小学校にいくのに、小さな子供の足で片道2時間もかかるのはざらだという。だから、小学校をドロップアウトする子供が多い。我々が訪問したNGOは、そんな離れた村に、簡易教室をつくり、さらにその村の大人を訓練して、パートタイム教員として、子供が家のしごとの手伝いをする前の朝の2時間だけ学校を開き、おおきな成果をあげてきたという。そんな地域密着型のNGOの政策に感激するわたしに向かって、U君は、自分の生い立ちを語ってくれたのだ。

<兵隊になって死ぬよりバカがいい>
勉強が好きで、鉄砲ももてそうにないバカにもなれず、ドロップアウトもしなかったU君の運命のときが近づいた。村にいてこのまま卒業すれば、確実に兵隊にとられてしまう。…そのとき、アディスアベバに出ていって学生をしていた兄が、事情を察して奨学資金を出そうという日本人の申し出を受けて、U君を呼んでくれた(その兄のK君もわれわれと同行し、その日本人の篤志家は、われわれの旅の基本的な部分を準備し、向こうの学生たちを紹介してくれたYさんだ)。…こうしてU君はかろうじて助かった。しかしU君の友人の多くはこうやって無駄に殺されていった。エリトリアとの国境は今でも封鎖されたままだ。U君の家族は、エリトリアにいる親戚と連絡を取るのに、アメリカ経由の長距離電話を使うという。…日本の外務省が出す危険情報を見れば、北部エリトリア国境付近、東部ソマリア国境付近、西南部スーダン国境付近、南部ケニアとの国境付近は、訪問延期から退避勧告まで、いまだに戦火がおさまったとはいいがたい状況。

<あの飢饉のときは儲かった!>
ユネスコ世界遺産の教会群がある北部の町、ラリベラ。この町出身の同行学生M君の実家を訪ねた。それは路地裏の小さな食堂だった。奥の部屋の天井は、よく見ると、「援助物資」と英語で大書してあるビニール製の穀物の袋。暖かい焼きたての大きなフライパンのような伝統的なパンをかじりながら、M君の母が入れてくれるコーヒーをすする。そこに、つえをついて黄色い僧衣を着た大柄な老人が現れる。奥さんが亡くなって修道僧になったM君のおじいさんだと言う。M君に通訳をしてもらって、1970年代半ばの飢饉のことを聞いた。数千年続いたとも言われる万世一系のエチオピア皇帝の帝国が倒れるきっかけとなって、軍事社会主義政権に道を開いた、大飢饉である。おじいさんは言う。「あのときは儲かった!この地域は大豊作。穀物の値段がどんどん上がって大もうけ。やがて、飢えで避難してくる人がたくさんやってきたがね。」どうやらおじいさんは、ちょっとした地主だったらしい。「そのあとの農地改革は最悪だった。ろくに農業もできないやつらにみんな土地をわけてしまった。いまだに農業はめちゃくちゃだ!」

<飢えとのたたかい>
首都では、日本大使館を表敬訪問し、大使からのちょっとしたレクチャー。日本政府の援助機関JICA事務所を訪問し、所長さんからのレクチャー。…この国全体の食糧生産量は決して、7000万の全人口を養えないほど少なくはない。それなのに、いまだに100万人規模の地方的な飢饉と餓死の危機から脱していない。問題は、運輸と流通。日本政府は、道路建設に力を入れる。…そんな日本の道路建設は、首都近郊の農村に入る地域住民自立支援型のエチオピアのNGOにも、そのかぎりでは評判がいい。とてもいい道路だし、欧米の国のように、援助をするかわりに利権をよこせといわないところがいいのだ、と。
 AgriserviceというそのNGOは、やはり飢饉からの脱却をターゲットにして、農民を自治的な協同組合に組織し、野菜や果物、家禽類を含めた農産物の多様化、出費がかからず、長期的には安定した収量を上げられる有機農業技術の指導、村人の共同作業による小規模な灌漑設備の整備、さらに教育の普及、など総合的な政策を追及し、その地域から飢餓をほぼ追放したという。

<農業はめちゃくちゃ、か?>
オランダの大学と深い交流をしているというそのNGOの追求する方向が、自給型有機農業路線とすれば、南の町にいく途中に見渡す限りの国有大農場や、民間大企業の農場は、輸出志向型近代化農業路線といえよう。その南の町の大学では、日本から協力隊員として派遣された、花栽培の専門家の方と出会った。ヨーロッパへの輸出向けとして注目されている花栽培だが、こっちの人は、お金のかかる農薬を使おうという意識がなくってこまっているという。目に見えない小さな虫のせいで、日保ちがしなくなり、製品としては競争力が落ちてしまうそうだ。…
M君のじいさんのように、人が命を落とすような飢饉で大もうけをする人を許すような農業は、めちゃくちゃだろう。 そんなめちゃくちゃな農業を「改革」するはずの農地改革は、なにをもたらしたか? 北へ向かう途中、台地の裂け目を縫う坂道のほとりで、しばしば、ねこのひたいのような大きさの、しかもバスから見ても石ころだらけのだんだん畑を牛、あるいは人力で耕す人々を見た。その努力は報われるのだろうか。エチオピア農民は、どっちの路線を選択するだろうか。もし輸出向け近代化農業を選択して、ねこのひたいの農地が、みわたす限りの大農場になってしまえば、多くの農民は農民をやめて土地を離れることになるだろう。そのとき、人々はどうやって食っていくか。

  

<うんとっと山観光>
首都を見下ろせる展望台のある小高い丘のような山が、首都観光のスポット、うんとっと山。アスファルトの坂道を、体の3倍はありそうな、たきぎの束をかついで降りてくる女性たちの列を、クラクションで蹴散らしながら、バスで登る。荷の重さの余り苦痛に歪んだ顔の、ときには裸足の粗末な服を着た、年配の女性から少女までの神聖な肉体労働、生存競争の修羅場を、バスの上から見下ろす。仕事のじゃまになるバス、その中の私たちをにらみつける者。つばを吐く者。…首都に流れ込んだ貧民女性の仕事の定番がこの運び屋だという。

<アフリカ最大のオープン・マーケット>
有名な首都の観光スポット、広大な市場地帯をバスでとおりぬけた。危ないから、ということで、バスから降りることは禁じられた。バスの窓も閉める。忙しそうにうろうろしながらこっちを見る人びとの殺気ばしった目。道路が渋滞してバスが止まると、なにやら木の切れッ端のようなゴミが飛んでくる。罵声を投げつけてくる輩もいる。…ポリタンクや金物や機械部品やら、ありとあるガラクタ商品を屋根の上にまで積み上げた、バラックのような建物が、迷路のような通路を飲みこんではるかかなたまで立ち並ぶ。アフリカ最大級の人口の国に最大のマーケット。土地を離れた人々はこのマーケットで何を売って生きていくのだろうか。男は労働力、女は…。

<あやしい女たちとエイズ…>
首都で泊まった国営ホテルは、やや古くなった一昔前の7階か8階建てくらいのビル。そこでは、いかにもあやしい女性を見ることはほとんどなかった。北部に向かう途中に1泊したホテル(ほとんどの部屋の枕元にコンドームが置いてあり、門前ではガムといっしょに箱に入れて子供が売りにきた)のバーでビールを飲んだが、そこにいた何人かのミニスカートの女性はそうだったのかも知れぬ。我々は殺気を感じて、ビールだけつかむとテラスに逃げ出した。…南の町では、学生たちはそこからバスで2日かかる北部の町からだまされてこの町に連れてこられ、おそらくは、売春婦にされそうな運命にある15歳の少女とホテルの前で知り合い、彼女の帰郷資金をカンパした。助けたいのなら日本円にして3,000円弱のお金をあげればいい、そうでなければきっぱり断ればいい。ほうっておけば、売春婦になってエイズになってしまうだろう。でもこの国ではよくある話だ。…そんなエチオピアの学生M君たちのいくぶん腹立たしそうなことばに、相談をもちこんだEたちは、腹を決めた。学生たち全員で話し合い、エチオピアの学生に彼女の話の真偽のほどをインタビューしてもらったうえで、それぞれビール一本ぶんほどのカンパを出し合った。15歳。わたしの娘と同い年の彼女が、生活費と引き換えに夜な夜なエロおやじに責められる想像をして、思わず、ガイドのGさんに聞いてしまった。「彼女はもう、売春婦なのではないかしら?」…Gさんは、確信にみちた口調で答える。「ちがう。売春婦はもっときれいな服を着ている。まだだ。」

<わたしたちにできること>
…旅立ちの朝、彼女は荷物をまとめて湖畔の私達のホテルまでお金をとりにきた。荷物といっても、ゴミ袋のような大きなビニール袋に入った衣類だけ。バッグを買うお金がないのだ。小さくなって、角を曲がってみえなくなるまで彼女を見送った。…帰国してから、彼女からEにメールが来た。メール代としてお金を渡していたが、その約束が守られたのだ。母亡き後に彼女が頼りにしていた実の姉は、大学に入るつもりだったが果たせず、彼女も仕事を見つけられないまま。「なんとか仕事を見つけて、姉に続いて大学にいって、先生になれたらいい。」そんな将来の夢を語っていた彼女のメールには、「どうしていいのかわからない。人間であることがいやになる」とある。…10月末の大学祭のゼミ研究報告会で旅行参加学生たちは、「わたしたちにできること」と題して、彼女のケースを討論劇にして取り上げた。われわれのカンパ、慈善は偽善だったのだろうか。…悲劇を引き起こす大きなしくみを変えることを考えて、実行しないのなら、それは偽善だ。でも、俺はしくみを変えるんだといって、目の前で溺れている人を見殺しにするようにはなりたくないね。そんな感性はいやだね。…ぼくはそんなことをしゃべったが、メールを見ているうちにエチオピアに飛んでいきたくなる。…

<ついに植民地にされなかった国>
しかし、「アフリカで唯一、欧米の植民地にされなかった国」と言われるこの国の人々をなめてはいけない。なるほど我々は、ファシズム時代のイタリアが国土の大半を占領統治した時代につくったトンネルをくぐって北部に向かった。しかし首都には、ファシズム時代のイタリア占領軍による虐殺、それへの抵抗と戦いの記念碑が多い。…さらに、どんな高級レストランやホテルのスパゲッティも、シェフたちの隠れた抵抗のせいか、とんでもないのびのびのエチオピア料理に化けている。グルメのイタリア占領軍も、エチオピア料理の主食インジェラのふやけたやつのようなスパゲッティをさんざん食べさせられたに違いない!せめてそう思いたいではないか。

<ラリベラの物乞いとNGO>
どこでも物乞いは、多いが、世界遺産の町ラリベラの物乞いは格別だ。子供と若者が束になって攻めてくる。洗濯したパンツや靴下を干していると、ホテルの生垣ごしに、中学生くらいの女の子が声をかけてくる。「Hay, Mister, Give me T shirts!(お兄さん、Tシャツちょうだいよ!)」もちろんホテルの門を一歩でると、そんな子供たちにわっと取り囲まれてしまう。…しかし、ホテルの門を出て、ほんの100メートル歩いただけのNGOオフィスに向かったときだけは、様子が違った。理由はすぐにわかった。M君たちを含むこの町出身の学生たちが作ったこのNGOは、いまやこの町とその周辺の2,000人の若者たちを地域青年団のように組織し、音楽や踊りなどの文化サークル、さまざまなテーマの討論会、エイズ予防の啓発活動、遺跡環境の保護など、さまざまな活動を繰り広げている。将来は、物乞いをする子供や青年がいなくなるように、観光客向けの独自なプログラムやみやげ物を開発したり、環境保護少年団を作ったりしたい、…と、社会学専攻の学生だったという代表。オフィスの隣には地域の青少年センターが作られていて、作りかけの楽器やら、スポーツ用具などがおいてある。ここは地元の若者たち子供たちの希望のセンターなのだ。

<エチオピアから学ぶ>
南の町の湖畔のホテルで会った首都から来たというまだ若いカップル。わかりやすい英語をしゃべる男性のほうは、電話会社で働いているというが、人懐こい顔をして、鋭い質問を浴びせてくる。「たーくん、ちょっときて」と学生に呼ばれていってみれば、「あなたが先生ですか?」「うん、まあ」「いま、この学生たちに聞いていたけれども、どうしてあなたは学生たちにタバコを吸わせるのですか?」「いやあ。よくないとは思うんだけどね。」「タバコは健康にいいですか?若い人の体にいいですか?」「もちろん、よくないね!」「それじゃ、どうしてあなたは学生たちに言わないのですか?」…私はなにかの用事でそれ以上話せなかったが、この調子で対話していった学生たち4人は、その夜、ついに禁煙宣言。さらに、そのうち2人は、来るときのトランジットで一泊したバンコクの理髪店でせっかく編み上げたドレッド・ヘアーを断髪。彼と対話するうちに、中途半端な知識でラスタファリアンのまねごとをして喜んでいる自分が恥ずかしくなった、という。
禁煙はどうやら数日しか続かなかったようだが、あの若者との対話の印象は、プラトンが描くソクラテスの対話のようにぼくの心に新鮮なまま残っている。

<対話の文化?>
地域自給型有機農業をめざすNGOの見学には、10名近いスタッフがつきっきり。2つのグループに別れて別の地区の現場に話を聞きに言った地域の農民組織のリーダーたちも、それぞれ10名ずつくらいが出てきて、盛んにわれわれに質問してきた。見学の最後に、フィードバックと称して、スタッフたちに見学から考えたこと、意見、提案などを発言することを求められた。農民たちがとにかく元気、彼らが自分たちの組織と活動に誇りを持っていることが印象的、そういった感想に対して、スタッフたちは、問いかける。「あなたたちの専門は社会学ではないのか?社会学専攻の学生として意見を聞きたい。」…わが学生たちは、同行してくれたエチオピアの学生たちから聞かれたらしい。「あなたがたは、何年英語を習っているのか?なぜそんなにしゃべれないのか?」「あなたが大学で勉強していることを教えてほしい。…どんな本を読むのか?…どうして、そんなに勉強をしないのか?」

<若者たち…>
中学から英語で授業を受けてきたというエチオピアの学生たちとは、英語でずいぶんしゃべった。K君とは、彼がかかわった植林NGOの活動のこと、エチオピアで活動するNGOのいろんな問題点、できれば事業としてやってみたいというフェアトレードのことなど。さらにM君とは、お金めあてでイスラエルに移住してしまったエチオピア古来のユダヤ教徒ファラシャのこと、パレスチナ問題でのアメリカの役割、アメリカ文化とエチオピア映画、イラク戦争など。…将来はジャーナリストになりたいけれど、この国でほんとうにジャーナリストとしてやっていこうとすれば、刑務所に入ることを覚悟しなければいけない。自分にその覚悟があるか。そこまでやって世の中は良くなるのか。哲学の授業をとって、自分はなにか社会の役に立つ仕事をしたい、それが生きる幸せというものじゃないかと思うようになった、というM君。ほんとうにいいことをやっているNGOで働いたりできればいいけど、それもけっこうむずかしいんだ、とも。

          

<エチオピアでいちばん美しいもの>
そのM君とは、ラリベラの町で別れた。彼は正月休みをもう少し実家で過ごす。前の晩、学生たちの送別会で歌い、踊り、寄せ書きやらいろんなプレゼント。そして我々の旅立ちの朝にバスに乗ってきた彼は、涙をこらえながら、町はずれの峠でバスを降りた。バスが走り出し、どっとあふれる涙をそのままに、手を振り続けた。バスがくねくねとした坂道を降りていき、峠が見える最後のカーブで振り返ってみれば、小さな点のようになったM君が、手を振り続けていた。…首都でもいっしょに暮らしてきたエチオピアの友人たちとの別れ。彼らの涙、わが学生たちの涙は美しい。
先述のNGOが組織する現場の農村のリーダーたちはとてもいい顔をしていた。村人たちが共同で働いて作った小規模ダムを見下ろす、尾根の草場で、「自分たちの村と暮らしを誇りに思う」という若い男女のリーダーの、胸を揺らす豊かな踊りを見せてもらった。お返しに、こっちは、アイヌのバッタの踊りを見せた。南の町、湖畔のホテル最後の夜、焚き火の周りでも踊った。しょっちゅうある停電で、昼には猿がぶら下がる大きな木は漆黒の闇になる。地面も闇だが、草むらのあたりは、ホタルが光って銀河になる。…人は花より美しい。民主化運動の韓国語の歌にそんなすてきな歌詞があった。われわれは黄色いマスカルの花咲く最も美しい時期にエチオピアの大地を訪れたらしい。それでもぼくは言いたい。…人は花より美しい。

(2004年11月23日)


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