● 海ンちゅ、おばあ、わかいもん ●

―沖縄、辺野古2004年12月、2005年2月―


<沖縄県立芸術大学>
昨年12月初め、日本舞踊学会研究大会に参加するために沖縄へ。会場の芸術大学は、かつての琉球王国首里城の一角にある。初参加の舞踊学会は、映像を多用した報告が続き、ぼくがめざす社会科学的な舞踊研究にとっても大きな刺激。こじんまりとした、だが芸術系大学らしくちょっと気の利いたデザインが随所にあふれるキャンパスで研究の夢がふくらむ。

<辺野古の座りこみ>
学会前日に沖縄入りをして、2004年春から座りこみを続けている辺野古の基地移設反対運動の現場も訪問。いっしょに参加の学生の運転するレンタカーで辺野古漁港へ。台風接近のため、波高し。小雨。反対運動事務所横のテントへ。土曜日の朝10時。テントの中では20人ばかりが集まって、朝の集会。雨の中を学生(卒業生2人含む)4人といっしょに現れた私達を、きのうからの仲間のように迎え入れて、座布団を進めてくれる。NGO関係者らしき人のサンゴ礁、ジュゴン保護、環境問題国際会議の報告。その資料コピー、防衛施設庁の工事船との攻防の写真、お菓子、お茶が回ってくる。

<かけつけた学生たち>
昼から学会なので、途中でおいとまし、海辺へ。集会に参加していた、修学旅行のガイドなどもやるというやたらと生物に詳しいおじさんが案内してくれる。真っ黒に日焼けし、ぞうりをひっかけた地元の若者男女もついてきて…と思ったら、上智大学の学生だという。法政の学生もきてるよ、とも。もう何ヶ月も座りこみや、カヌーでも建設阻止行動に参加している、と。…米海兵隊のキャンプ地と鉄条網で隔てられた浜に出てみると、なるほど、沖合いに海水浴の飛びこみ台のような骨組みだけのやぐら。未曾有の大型台風に備えて、防衛施設庁のほうで、自発的に撤去して土台だけになった、と、みんなうれしそう。テントも漁港入り口のものを事務所横に避難させたのだ、と。

<学生との再会>
上智の学生たちは、試験に備えて数日後に帰京するとか。私と同行の学生たちとさっそくメールアドレス交換など。…その夜、1泊2,000円の安宿をめざして那覇市内を走行中、偶然、防衛施設庁のビルの前で、辺野古基地移設着工に抗議するハンガーストライキの一行を発見。車を停めて行ってみれば、テントで会った人達といっしょに上智大のAさんも。…その日の昼、私が学会出席の間、学生たちは、前回のエイサー交流の学生つながりでヘリコプター墜落事故跡の生々しい沖縄国際大学キャンパスを訪れ、韓国から招かれた日本軍の「従軍慰安婦」暴行事件の被害者との夕食会に参加(講演会に参加するはずだったのに、私の勘違いで時間を間違えて、間に合わず)。その国際大学近くの安宿についてみると、こんどは辺野古であったばかりの、やはり上智大からのB君と再会。

<若者たち>
Aさんは、大学院進学が決まっている4年生。ひょんなことで出会った辺野古で基地を止める運動にかけてみたい、テーマもそれに関係することに変えるかも、とも。現地でずっとビデオカメラを手にしていたB君は、進学か、ジャーナリストか、悩める4年生。辺野古の運動の作品は作るつもりという。大学に入る前にかなりの職業暦がある。…安宿には、若者たちがたむろする。沖縄が気に入って仕事を探すうちに、うまくみつけ、試験に通って、この春から辺野古の近くの町で保育士をやってるという本土出身の若者。帰りを気にせずに飲めるのがいい、辺野古にも一度いってみたいのだけど、…と。沖縄で育ち、海兵隊に入ったけど、人殺しの雰囲気がいやで、やめたという日本語もうまいアメリカ白人の若者。…宿のオーナーのお姉さんも、関西出身で沖縄好き、最近この仕事を始めたばっかり。辺野古のステッカーええやろ、という彼女の国際大学近くのこの宿はときおり、海兵隊のプロペラ機の爆音でゆれる。

<シンプル・マン!>
辺野古にいく前夜は、その隣村の役場の博物館でバイトをしながら有機農業をやる古い友人宅に泊まった。沖縄に移住して5年めくらいか。家賃月一万円のシンプルな古い海岸の家。卒業生の奥さんと三歳の子供は帰省中。最近は飲まないことにしているという彼もいつしか泡盛の杯を重ね、ギターを出して、自作の歌を唄う。いつのまにわたしは寝こみ、学生たちは彼の歌に聞き惚れる。「おれはシンプルマン。あくせく働かない。競争しない。勤勉に励まない。森を切って、川をせき止め、海を埋め立て、ビルを建てない。食べるもの、寝るところ、友だち、歌があればいい。おれはシンプルマン。」いい歌だ。大企業のコンピューター技術者をやめ、世界を旅して、ここまできた彼の人生のマニフェスト。

<Aさんの講演会>
同い年の上智大Aさんの活躍に刺激をうけたわがゼミ生Yの企画で、ゼミで、Aさんをキャンパスに呼んで、講演会。ヘリコプター落下事故、辺野古の海攻防のビデオ映像。どちらも写真つきで大きく報道する沖縄の新聞を広げる。対比して、ほとんどまともにとりあげられていないこちらの全国紙。沖縄の世論はほとんどが基地移設に反対。あとは、「本土」の世論の問題。どうやって、この問題への関心を広げるか。自分だって、現場をみて関心をもつようになった。あと一歩で止められる。あと一歩にかけてみたい。…

<2月恒例沖縄合宿>
今年2月初め。恒例となった4年目の沖縄ゼミ合宿。2年生が中心となって企画。身体表現をテーマとして沖縄の伝統舞踊エイサー実技にも取り組んできた同僚のゼミ生たちも参加して総勢15名。ひょんなことから近所のウクライナ人女性も特別参加。柱は、沖縄国際大学のエイサー・サークルの練習に参加しての踊り交流およびヘリ事故跡見学、公民館での浦添の青年会との交流、そして辺野古基地移設問題の見学の三つ。

<NO FLY ZONE!>
エイサー・サークルの練習はあいにくの雨。巨大な浦添運動公園のスタジアム下で踊る。琉球大学の学生も加えた40人ばかりの男女学生たち。はね回るTシャツにNO FLY ZONEの文字が踊る。ヘリ事故跡の保存を求める沖縄国際大学の学生たちで作ったTシャツだという。練習後にキャンパスの事故跡地に立つ。金網で囲まれて遠くから見るだけ。壁の黒い焼け跡、ヘリのプロペラが当たったひっかき傷。真っ黒に焦げた2本の立ち木の黒い地肌から鮮烈な緑の若葉。ビルに近いところにあった焼け焦げた木はすべて切られてしまったそうだ。付近一帯の黒焦げた色調に、若葉の緑が眩しい。

<海兵隊基地>
7階建てくらいの巨大な研究棟の上階から問題の飛行場をもつ海兵隊基地、そのむこうに海が見える。おもちゃのように並べたジープ。大きな格納庫。だだっ広い滑走路。基地のフェンスまじかまで立てこんだ民家。ヘリが落ちたときは、民家の家に大きな部品のかけらがつっこんで、壁を貫通したという。この基地を、辺野古沖の海のサンゴ礁を埋め立てた人口島に移転させよう、というわけだ。

<青年会の若者たち>
夜の8時に公民館集合。わたしの車もすこし遅れたが、青年会メンバーは例によって仕事が終わってすぐに、あるいは一服してから三々五々現れる。シニア・メンバーが子供連れで応援、チャンプルーなどつまみを用意。ひたすら、呑み、語り、食らい、踊って深夜1時まで。例年女性のほうが多い沖縄合宿だが今年は珍しく女性はウクライナ人と12月に続いて参加したYの2名だけ。がっかりだ、といいながら、2年生にエロ話をしかけて盛り上がるシニアメンバーのおじさん、おばさん。毎年どんなのがくるかと楽しみさ、と。先輩メンバーの前でおとなしい、いかつい顔の高校生メンバー。こっちの学生たちにとってもいろんな年齢や職業の若者たちが集まる空間のおもしろさ。

<そして、辺野古へ>
到着後、1泊して次の朝、すぐに辺野古に向かった。辺野古漁港入り口にある座りこみテントはすでに閑散としている。7時くらいから始まるという朝の集会はとっくに終り、工事続行阻止部隊は船で海上のやぐらにむかってそこを占拠し、阻止部隊を排除して工事(正確には工事のための調査)を続行しようとする防衛施設庁の船が近づいてくるのを、近隣の漁師、海人(うみんちゅ)たちの漁船数隻が輪になって守る。…そのようすが一目で見わたせる丘があるから連れて行ってあげよう、というおじさん。わたしは彼の軽トラに乗りこみ、あとから四台のレンタカーが続く。サトウキビ畑を越え、丘の上の民家のうらの草地に降りると、なるほど、東北の端にある海兵隊基地から辺野古漁港をへて、はるか西南にある別の漁港の沖合いまで180度の眺望。基地はこの眺望に入る海のほとんどを埋めたてて作られる。調査工事のためにサンゴ礁に打ちこまれた5本のやぐらは、点々として、しかし視界の全体を覆う線を作っている。

<攻防戦>
「あの長い船が、防衛施設庁の船。やぐらの周りの3隻が海んちゅの船。」
「なるほど、なるほど。」
「施設庁の船は2隻。」
「なんかぶつかりそうであぶないすね。」
「いや、もう実際ぶつかりあって、船がぼろぼろというよ。…カヌーでやっていたときは波でカヌーがひっくり返されたり、ひっぱって連れて行かれたり、でも、海ンちゅの船はぶつかってもカヌーみたいなことはない。対等にやりあっとるよ。いまはもうあちこちの漁港からローテーションで1隻づつ出して順番にやってるからね。」
12月に来たときにハンストをしていた女性はカヌー部隊に加わっていたひとだ。そのときすでに防衛施設庁の業者側の暴力で、数名が入院するほどの怪我人を出していた。我々が訪れたときは台風による1時休戦。しかし、台風が去ってそのままカヌーでの攻防が続けば、さらに犠牲者が出ることは避けられぬ。彼女たちのハンストは、海上で自分が傷つけられることを察知してぎりぎりの選択だったのかもしれない。
丘の上から、静かに船影を重ねながら攻防を繰り返す海ンちゅの船を見て、うれし涙があふれそうになる。

<海人初めての海上デモ>
2月6日(日曜日)朝、近隣の漁船24隻が集結して大漁旗とプラカードを掲げ、基地移設埋めたて予定地海域一帯をデモ行進(航行)した。私とウクライナのTさんは、運良く、巨大なジュゴンかたちのビニール人形を屋根に1匹のせ、船尾からロープで1匹ぶらさげた海上デモの交通整理指揮船に乗りこませてもらう。船長と2人の乗組員以外の相客は地元紙「琉球新報」の記者と有名な環境団体グリーンピースの調査員。土日休戦でだれもいないやぐらの近くの海上で待つこと一時間余り。おだやかな陽射しで波も荒くない。波の高い時には船長さえ立っていられないほどだと、初代水戸黄門に似た顔の船長が笑う。水面をのぞくとあちこちにサンゴのかたまりを示すまだらもよう。船遊びにきたような錯覚。と、目のきく船長が水平線を睨んでいう。「来た、来た!…1隻、2隻、3隻、…」やがて、こっちの目にも見えてくる水平線を覆う船団。先日の攻防戦と、雑誌で読んだ海人のことばを思い出して、再びうれしくなって目が潤む。…今年の一月になって、初めて隣の漁港の漁師が漁船を出して反対派の助っ人にかけつけたとき、補償金を貰って基地推進派に転じた地元辺野古の漁師が、「ここはわしらの海じゃ、よその漁師は帰れ」とどなった。それに対して助っ人の漁師はどなり返した。「海を壊す者が漁師か。おまえこそ帰れ。海を守るのが漁師じゃ。」と。

<警戒船>
海上やぐらのまわりには、警戒船という看板を下げた防衛施設庁の任務をおびた小型高速艇の漁船がうろうろ。最初に船団を待ったやぐらから、漁港近くの浜の地上デモ部隊に見えるように沿岸を並んでデモの後、われわれの船だけが、先回りして海兵隊基地沖のやぐらで待つ。錨を下ろすかわりにやぐらに縄をかけて、船を固定しようとすると、大急ぎでやってきた警戒船から怒鳴り声。「載せるなよ!」「載せないよ!心配するな!…船がくるから、早く離れろ!」土日の休戦協定を守らせてやぐらを占拠されたくないらしいが、こちらもそんなヒマはない。トランシーバーに集中していた船長が「なんだって?」と怒鳴り返した乗組員に聞き、「載せるなときたか。酒のつまみでも釣ろうと思ったのに、わっはっは」と大笑。「運転してるのは○○だな。」と、どうやら、知り合いの推進派漁師らしき雰囲気。怒鳴った男と運転する男の2人の乗った警戒船は、デモの船団に追われるように高速で姿を消していった。

<革命的情景>
列を作ってやぐらの周りを旋回航行していると、上空に飛行機が現れて低空で旋回飛行をする。きなくさい爆音。飛行機は海兵隊の基地から現れたようにも見える。ウクライナのTさんは生きた心地がしなかったらしい。しかも船団は、ボリュームを上げて基地反対を叫ぶ街宣車やデモ隊のいる砂浜と海兵隊基地を分断して海中に伸びる鉄条網の境界の沖合いを、いとも簡単に乗り越えて、基地の沖合いに侵入。砂浜からは見えないりっぱな基地の建物やら工場めいた建造物がくっきりと見える。いつもはあんなに規則に従順厳格に従う日本人が、堂々と米軍基地の海域に入っていくなんて、こんな革命的情景は初めて。驚きだわ!とTさん。

<港のおばあたち>
途中で、漁場に消えていったり、停泊して潜り始めたりする漁船を残しながら、デモの漁船の大半は、辺野古の隣の漁港に入り、漁港の広場を使って、打ち上げ集会。大きなテントにテーブルを並べ、大量のつぼ焼きのさざえ、茹でイカ、山羊のさしみ。缶ビール、焼酎。巨大な鍋に魚汁。山羊汁。ひととおり腹がくちてくると、昨晩宿で深夜までTさんに三味線を教えてくれた近所の師匠が現れる。太鼓が並ぶ。歌がでる。踊りが出る。つえをついたおばあたちの一群。ひめゆり部隊の生き残りのかくしゃくとした女性の歌。サトウキビがくばられる。100円の大根即売。…食べ物がなくなるころには人影も少なくなり、まったりと終り、残ったもので片付ける。

<師匠とおばあ>
辺野古の隣、ジュゴンのいる集落の民宿は泡盛呑み放題素泊まり2,000円。基地反対運動で有名なオーナーは、ただいま入院中。近所の三味線師匠が毎晩のように現れる。近所のおばあもつえをついて現れる。おばあは数年前に交通事故で足を痛めた。轢いた男は、土地のものではなく、なんだかんだと誤魔化して、いまだに治療費さえ払わないという。妹は、中国に渡って、どこにいるか判らなくなった。ゆっくりこっちに話してくれるとわかるが、師匠と話すときのことばはまったくこっちには理解できない。師匠は、音楽はいい! 音楽はいい!とつぶやきながら、いかにも楽しく三味線をひき、唄い、太鼓や三味線を教え、音楽はいい!とつぶやく。師匠は右手首の先がなく、三味線をひけるように工夫された義手で弦を奏でる。師匠はだれかれとなく辺野古の基地反対運動に誘うのだという。我々も、たまたま同宿になったカップルも、師匠に誘われて海上デモにでかけた。「地元のものが少ないからまだだめだね。」と師匠が運動を見る目は厳しい。わたしも三味線を教わったTも師匠のCDを買った。500円。ウクライナから半年前にきたTはこんな沖縄暮らしを見て、日本にきて初めて人間らしい生活を見た、と。

<再びシンプル・マン!>
隣村のシンプル・マンのところに押しかけて沖縄最後の晩餐。最初に辺野古にきたとき一家に会っていたが、こちらはつかの間の陽光を見て、村人推薦の美しい浜を教えてもらい、Tと私は海に。透き通った水の冷たい肌触りが気持ちいい。…一家は、村のエコ・ツーリズムにかかわっている。環境団体や地元の人々、外部の人々、できるだけ多くの多様な人々がかかわれるようなじっくりとした観光開発のあり方。そんなものを目指している。そんな村の展望とは別に、いまの借地借家だけで子供を含めて一家が村で生活していける見通しは苦しい。再び外国暮らしの仕事をという誘いも断りきれないという。…でも、三歳のこどもは、やっぱりここの暮らしが気に入っていて。

<辺野古をどうするか?>
最初は、おばあ、おじい。そして若いもん。そして海んちゅ。辺野古の海を守る動きが少しずつ広がってきた。あと一歩。あと一歩、全国的世論の場所に引っ張り出せないだろうか。…沖縄暮らしは決してばら色じゃない。けど、確実に若いもんは沖縄に引き寄せられている。沖縄の自然を救うことは、沖縄だけじゃなくて、全国の、いや世界の若者の未来を救うこと。つまり人間社会の未来に希望を残すことのように思えるのだが。

(2005年2月16日)