● パヤタス、ごみの山 ●

<<< 注 >>>
以下にご紹介する文章は、穂積夏子さんのミンダナオでの活動を支援する会の「パガディアン通信」No.19(2001年6月1日発行)に掲載されたものです。
岡野内 正


<地球の友>
今年3月、地球の友ジャパン主催のスタディ・ツアーに参加した。ダムに沈むルソン島北部のコルディレラ山岳地帯の先住民村を訪れるためである。そのダムは、サンロケ・ダムというすでに建設中の巨大ダムで、日本の国際協力銀行や民間銀行からの資金ですでに建設中。沈むのは谷あいにすむ先住民イバロイ人の集落。741世帯が立ち退きの対象とされている。

世界的な環境団体「地球の友」は、このプロジェクトの問題点を早くから指摘し、特に日本の援助にかなりの責任があることから、毎年のように日本からスタディ・ツアーを出し、内外のNGOと協力して工事中止のキャンペーンを行っている。

バングラデシュの先住民の権利にかかわる集まりでたまたま知り合った地球の友ジャパン事務局の人と話し合い、当初は私の勤務する大学のゼミ研修旅行として、イバロイ人の村を訪れるつもりでいた。・・・すでにアメリカ政府は長期的な経済性の見地から脱ダムを宣言し、日本にもようやくその波が伝わってきつつある21世紀の初めに、日本の援助による巨大ダム建設で沈む先住民の村。開発政策の問題点を知るうえで、援助、ダム、先住民と三拍子そろったかっこうの教材。もちろん立ち退きを迫られる先住民にとっては、教材どころか、生きるか死ぬかの問題。すでにダム反対派が銃撃される事件さえ起こっている。…

残念ながら研修旅行はベトナムに行くことになり、こっちのほうは下見もかねて、また著名な国際NGOである地球の友への興味もあって、まず私がツアーに個人参加することに。

<どじなはなし>
ツアーは、京都を中心に活動するCFFC(フィリピンの子供たちの未来のためのキャンペーン)との共催になっていた。そしてCFFCが保育所プロジェクトを援助するマニラ郊外の新しいごみ捨て場、パヤタス訪問も日程に加えられていた。数年前に学生たちとパガディアンを訪問した時、途中のマニラで、今は閉鎖されてしまった有名な ごみ捨て場、スモーキー・マウンテンを訪れたことがある。その時の怒りと悔しさは今もぼくの心中にくすぶっているので、そいつはとてもいい。

「格好の教材」プロジェクトであるためか、ツアー参加者の多くは、大学院生、学生、教員そしてジャーナリスト。しかも、ダム問題、援助問題などを専攻する院生が多い。なんでも環境系のインターネットのサイトだかを見て 参加した人が多いとか。ここ10年くらいで、開発協力や環境関連の大学院が次々とつくられ、そこに進学した人々の中から、社会正義をめざす若き研究者が育っているのを見るのは、心強い。・・・とはいえ、そういう大学院の教員には、援助機関や官庁からの退職横滑り組が多い。授業といえば在職中の自慢話ばかり聞かされ、学問的にはきわめて貧弱なところが多いと聞く。そんな学問環境で苦しむ若い人を見ると、私のような怠け者は、がぜん研究をする気になって燃えてくる。・・・

地球の友ジャパンもCFFCも、決して洗練されているとはいえないツアー運営だが、若い人中心なのがとても いい。同行した地球の友の責任スタッフなどは、卒業予定の大学4年生という若さ。そのせいか、スケジュールはかなりハード。おまけに私は頭の隅に残るあやしいタガログ語をしゃべっておおはしゃぎ。禿山をみながら飛行機でバギオに飛び、とてもフィリピンとは思えないような、松の木ばかりの高原の涼しさと夜の寒さ。高地を降りてダム下流の村での炎天下の集会と行進、教会の床での雑魚寝、などの後、とうとう風邪で発熱。みんなが水没する先住民村を訪問する間にこちらは丸2日間寝込むことに。

…そんなわけで、今回一番印象的だったのは、パヤタスのごみの山のそばに住むあるごみひろいの女性のこと。サンロケダムについては、「地球の友」のホームページなどをごらんください。

<ごみひろい業の女性>
パヤタスのデイケアセンターを出て、ごみ山の見学にむかった。デイケアセンターの数軒先はもうごみ山だ。500人を家ごと生き埋めにした昨年のごみ山崩壊事件の現場がここだ。ただし、数十人の遺体が未発見のままのごみ山のこのあたりには、事件以来、新しいごみは捨てられてはいない。にわかづくりの木の十字架。立ち入り禁止の看板。あちこちから立ち昇る自然発火のごみ山の煙。最近、環境団体グリーンピースが、この煙に含まれるダイオキシンについて強く警告していた…。その巨大なごみ山の中腹、数人の子供たちが、その煙を吹き飛ばす強い風で凧を揚げて遊んでいる。じっと見ていると、時々、あらぬところからめらめらっと炎が上がる。

危険ということで、そこからごみ山に入らず、ごみひろい業で暮らす人々の集落に向かう。どぶにもなっている下り坂の狭い通路の脇のトタンやら妙な板切れやらで囲った一角の入り口を入る。4畳半くらいのベニヤとトタンづくりの小屋。正面の壁のベニヤは、工事現場から捨てられた立て看板らしい。「SORRY FOR INCONVENIENCE(ご不便をおかけしますことおわび致します)」の文字が読める。…小屋の主の彼女はこのアイロニーを意識しているのかしら。

<明るい労働者>
20代後半の彼女には、10才くらいを筆頭に子どもが5人。夫は、2年前にごみひろい現場でけんかに巻き込まれて死亡。それ以来、デイケアセンターに子どもをあずけ、彼女のごみひろいの稼ぎで子供たちを育ててきたと いう。彼女は、デイケアセンターのワーカーと私たちの訪問を歓迎してくれ、ごみひろい業について実に具体的に的確に説明してくれる。いつしか、ジャングルにいっしょに入り、そこでの暮らしのことをいろいろ説明してくれた ミンダナオの先住民スバニンのおじさんのことを思い出していた。

足元は危険なので長靴は必需品。片方が緑で片方は黒。どちらも拾ったものだ。「日本製だから丈夫だよ。」 と、彼女。先を鍵状に曲げて、先端を鋭く尖らせ、木製の取っ手をつけた金属の突き刺し棒を手に持ち、こうやって、売れるごみを拾う、と実演してくれる。先が鋭いから危ない、と、足に残る傷痕を見せてくれる。一日ごみ捨て場で働いて、100ペソくらいにはなるから、悪くない、という。それに、いろんなものが落ちている、と言って、小屋に入って、紙袋の包みをもってきてくる。見れば、油で揚げた20センチくらいのカレイのような魚が4,5匹。ごみ捨て場で拾って、自分で揚げたのだという。そう、これも拾ったの、といって、また小屋に戻り、乾燥した細いスパゲッティのようなパスタの袋を見せてくれる。ちょっと古いみたいだけど、十分食べられるの、と。そう、お米も見つけたわ、と、また小屋に戻り、ビニール袋に入った米を見せてくれる。「ちょっと臭かったから洗って乾したら、なんとか食べられるようになったの。…ほら、匂いを嗅いでごらん。」といって、にこりとし、我々にも米の袋を回してくれる。「もしかして、お金も拾った?」という通訳をしてくれたワーカーの女性の質問には、「運がよければ、ほんの時たまね!」と大笑い。

<ポストモダン・ジャングル>
そんな話を聞く間にもあっちうろうろこっちうろうろの裸の子どもたちの一群を少し年上の子どもにゆだねて、 不揃いの長靴で完全装備の彼女を先頭に、我々は、ごみ拾いの現場へ出発。

乾季のせいか、かつて訪れたスモーキーマウンテンのような臭気はなく、乾いたビニール袋の切れ端があたり一面に広がる谷を進む。いろんなビンやペットボトル、缶、様々な金属ごとに仕分けされた箱がならび、立てかけた小さな黒板に今日の相場が書き込んであるごみの買い上げ屋の前を通る。シャンプーの入れ物のようなもの まで、細かく分類されて1キロいくらで買い上げられる。彼女はその箱のひとつひとつを覗き込み、プラスチックのボトルのふたを指差し、「こういう、違う種類のふたが入ってると、買いたたかれて、まずいのよね。」などと解説してくれる。ほとんどがビニールとプラスチックの切れ端からなるごみの谷。底に溜まる黒く澱んだ小川を越えて、タイヤや鉄屑の小山をぬって歩くうちに、再びミンダナオの山を思い出した。…それにしてもこのごみの山はいったいなんだろう。地球環境を破壊しきって滅亡した近代工業文明の廃虚。だが、そこには森の先住民と同じ細心さをもって誇り高く働く女性がいて、そんな労働に依拠するごみ回収業者がいる。…完全に経済原則・市場原理に則った、しかし生態系を破壊しダイオキシンの煙で労働者や住民を蝕むリサイクルのシステム。

<巨大開発か、生態系と調和する自立か>
結局ジープに乗った男たちに阻まれてごみ拾い現場の見学はできなかった。当局は事故以来、部外者の立ち入りに神経を尖らせているという。午後、生き埋め事故被災者の家族が移された立ち退き者住宅を訪れた。マニラからジープニーで3時間もかかる家だけが立ち並ぶ新しいその長屋地区では、男たちが昼から酒を飲み、ビンゴに群がっていた。仕事がなく、人々はパヤタスに戻りたがっているという。

マニラの町には、遠くから見れば、新宿の高層ビル街のようなシルエットをもつ一角ができている。巨大な電力消費。ダムや原発はそのために必要になるのだ。…その町外れにある巨大ごみ捨て場パヤタス。そこで働く明るく聡明なごみ拾い労働者たち。ぼくはそんな彼女らを自然の中に戻したいと思う。…などと、市ヶ谷の高層ビルの大学オフィスで言う自分は滑稽至極。でも、我々の前の世代が何十年かかけて作ってきたものを、我々と、あとに続く世代で何十年かかけて、壊したいと思う。そうして、壊された自然を蘇らせるのだ。

その気になって探すと、そんな新しい開発・生活のやり方を試みて、確かな手応えを感じている人は世界中にずいぶんといる(たとえば、デビッド・コーテン『ポスト大企業の世界』シュプリンガー・フェアラーク東京、2000年、という本をご覧ください)。ミンダナオの夏子さんの仕事も、これからが楽しみだ。

(2001年5月31日)



●  ベトナム、ホーチミン!!―2001年春 ●
― 岡野内 正 ―


<ホーおじさんのうた>♪♪♪♪
ベトナム、ホーチミン、ムオナム、ムオナム、
ベトナム、ホーチミン、ムオナム、ムオナム、
ベトナム、ホーチミン、ムオナム、ムオナム、
ベトナム、ホーチミン、ムオナム、ムオナム!

…元気のいい明るい歌だ。とくにこの最後の繰り返しの部分がいい。
ツアーガイドさんに教えてもらったベトナム語の歌。「ムオナム」とは、「万年」=万歳のこと。
独立のためにずっと闘ってきたホーおじさん(ホーチミン)に、やっと勝利して独立したベトナムをみせられなくって残念だ、
…そんな意味の歌だという。
…ホーおじさんが今のベトナムをみたらどう思うだろう!

<ゼミ研修大名旅行!>
2月下旬から3月初めまでの2週間。23人の学生たちとのゼミ研修旅行。今回は珍しく日本からの添乗員、スタディツアーを数多く手がけてきた「ピースインツアー」社のインドシナ担当のベテラン、鈴木さん付き。…部屋についたバスタブ付きシャワーから湯が出る程度のそこそこの高級ホテルに滞在。冷房付き貸し切り大型バスで移動。中部のフエにはジェット機。南部メコン・デルタ地帯では2隻のエンジン付き小船。…中部激戦地や旧サイゴン近郊でのベトナム戦跡めぐりを中心に、南部農村での農作業体験、ホーチミン大学日本語科学生との交流会、日本企業訪問、元ストリートチルドレンの養育活動やマングローブ植林をするNGO見学、少数民族地帯訪問など。

<ストリート・チルドレンの寝顔>
路上で寝る子どもの寝顔を初めてまじまじと見た。深夜、ディスコにいこうぜ、という学生たちにくっついて、ホーチミンの街を歩く。お目当ての店がみつからず、欧米系の男とミニスカートのボディコンお姉様のうろうろするナイトクラブの入場料、日本円にして600円の高さに逡巡したわれわれはひとまずホテルに引き返すことに。2週間もいると6万ドンの高さは身にしみてくる。東京の6千円くらいの感じ。…

<もつれた足>
ホーチミン市のあの中心部はフランス時代のつくりで、1区画がやたらと大きい。深夜2時間近くも歩いて疲れたMが、道端のなにかを蹴飛ばした。軽い金属性の音。…蚊取り線香とそれを突っ立てる金属片。早歩きの足を止めたぼくの視界に、道端のござでごろ寝する女性と2人の子ども、というより赤ん坊が入ってくる。後からきたHは、その蚊取り線香がその親子の眠りを守るものだということを見て取って立ち止まる。…あっ、どうしよう、あわてるMちゃん。H君はポケットからライターをだして、そっとござのそばに戻した金属片に突っ立てた蚊取り線香に点火しようとする。…ぼくを含む何人かが路上の親子の回りに集まる。死んだように眠りつづける3人。ぼろをまとったように見え、異様に老けて見える女性。その胸元にくっついて寝る幼児と、その足元あたりで仰向けになって寝るようやく1歳くらいの赤ん坊。…あのくらいの年のこどもは、私の地方ではウサギ目とかいって、目を半開きにして眠るのだ。長い赤ん坊のまつげのあいだから黒い瞳が見える…。

<花を抱いて寝る少女>
そこから3区画も離れていないビルの軒下に小学校3年生くらいの少女がひとりで横たわっている。ホテルの近くで、行きにも通った道。…行きのときにもその子は寝ていた。その近くの角っこには、何人かがたむろして、妙に肌を露出させた疲れた顔の女性が小学1 年生くらいの男の子をしかっていた。あの人たちはどこにいったのか。すでに2時をすぎた深夜に、女の子だけが顔を壁にむけてコンクリートの上に横たわっている。…足早に通りすぎてだいぶたってから、学生たちに言った。「あの女の子、やばいよな。」「…。あの子、花抱いてましたよ。のぞいて見ると、赤い花を抱いて寝てるんです。」

<深夜のホーチミン>
3月の南ベトナムは夜でも生暖かい。ずらりとならんだシクロ(自転車と人力車を合体させたやつ)で眠る車夫のおじさんたち。店じまいした屋台の売り場台の上で寝る人(マニラでもよく見る光景)。歩道に長椅子を出してだべりながら、横たわる人。まだ営業している屋台。ビアホール。殺気だった整理屋が殺到するバイクをさばき、欧米人とボディコンと物売りがわんさと集まるナイトクラブ。…道端で眠るのも悪くないかもしれない気候。だが、時折、轟音を立てて通り過ぎるトラックやバイクからの排気ガスとほこり。緑の制服の公安警察のジープ。

<高級ホテルのバスタブ>
ホテルの部屋に戻るとバスタブに湯をはって体を横たえる。昼間からのほこりと排気ガスを湯船に浮かべながら、突然、花を抱いて路上で寝るあの女の子をここに連れてきたい衝動に駆られた。…ベトナム全土に5万人はいるといわれるストリートチルドレン。ぼく自身も見学した、そんな子どもを引き取って育てるNGOの苦闘。… 構造的複合的な問題だなんてことはわかってはいても、いまあの子を助けられないのは悔しいではないか。今、あの子は危険すぎる。タイやフィリピンの児童買春のことが頭をよぎる。…一瞬、可能性を真剣に検討。カマトトぶって、ヒューマニストを演じる自分。「この子、お風呂にはいったほうがいいと思って。…いやあ、日本なら児童相談所とか、子どもが寝るところがあるから。…ベトナムにもあるんでしょ。」などと、ホテルの人やら公安警察にしゃあしゃあと。…

<口惜しい――!>
…が、そんな空想は、湯船の水といっしょにシャワーで流しちまって、素っ裸で真っ白なシーツのベッドの中へ。同室のH君はディスコ。口惜しさが怒りに変わり、頭がぐるぐる回る。…ストリートチルドレンなんて絶対になくしてやるんだから!今にみておれ!…50 万人はいるといわれるバングラデシュ、ダッカのストリートチルドレン。マニラ、リマ、ジャカルタ…第3世界の都市の膨大な路上生活の子どもたち。…でも、ベトナム、ホーチミンでストリートチルドレンを見るのは、とりわけ口惜しい。なぜか? ベトナム戦争があったからだ。

<地下トンネルの子供たち>
旧南北国境付近の解放戦線の村人たちの地下トンネル。アメリカ軍の爆撃のクレーターが今も残る海辺の村の記念館。地下深く何層にも掘り巡らされた地下壕の生活に思いを馳せ、海岸に開いた出口から外に出る。と、とたんに村の子供たちに取り巻かれて、英語で名前を聞かれ、握手。人懐こいこと、と思いきや、向こうはこっちの名前を呼びながら必死の形相でコカコーラを売りつけてくる。ベトナム戦争の苦難を思い、いささか感傷的になったこっちの心は、そんな子どもの悲痛なしつこさを振り切るエネルギーを失っていて、むこうの言い値どおり、普段の倍の値段で、せめてコーラではなくミネラルウォーターを買ってしまう。

<グエン・バン・チョイ通り>
もうもうと排気ガスを巻き上げるバイクの大洪水で渋滞するホーチミン市内。埃と排気ガスよけのマスクをつけた人々の顔がガスマスクのようで、異様に見える。バスの車窓からふと見れば、「グエン・バン・チョイ通り」などという看板がみえる。むかし、「グエン・バン・チョイ、ビクトル・ハラを、決して忘れはしない」などという歌詞の歌があったが、ぼくの学生時代にはやった「あの人の生きたように」とかいう本に出てくる、あのベトナム戦争の英雄にちがいない。アメリカの国防長官を暗殺しようとして失敗し、死刑になった人だ。…排気ガスまみれのベトナム戦争の英雄通り。

<あの戦争はなんだったのか>
最後の日に訪れた戦争記念館。そこには、無差別爆撃から村ぐるみの虐殺、ダイオキシンの枯葉剤散布まで、ハイテク兵器を駆使したアメリカ軍の残虐な攻撃によって無残に殺された人々、それに対して果敢に、自己犠牲をいとわずに闘った人々、そんなアメリカの介入を告発し続けて命を失った日本を含む各国ジャーナリストたちの姿。…ベトナム戦争の苦難の激しさ、それを乗り越えてきたベトナムと世界の人々の苦闘を実感すればするほど、今のベトナムのみじめさが痛感される。口惜しくなる。

<何のために死んだのか>
ホーおじさんに今のベトナムを見せたいと思う。1975年に南ベトナムはアメリカ軍を追い出して独立した。2001年春、外国人と結びつく者だけがお金もちになり、ショッピングセンターやナイトクラブに出入りし、貧乏人やその子どもは排気ガスもうもうの路上で寝る。ホーチミンという名前になったサイゴン。そんな街をホーおじさんに見せたい。そんな独立のために人々は闘ったのか。こんな 21世紀のベトナムを夢見て死んでいったのか。

<無念の先住民族村>
今回の旅行の目玉のひとつが、中部高原地帯先住民村の伝統的家屋での1泊であった。だが、その地域への立ち入りは直前に禁止されてしまった。輸出向けコーヒー生産が急増しているその地域では、入植してコーヒー作付けを広げるベトナム語を母語とする人々と先住民との間での土地争いが急増し、数千人規模の先住民の抗議行動がおこったためらしい。…そうだとすれば、あまりにも拙劣な、一次産品モノカルチャー農業の推進ではないか。植民地経済の再現ではないか! おきまりの先住民の土地取り上げと入植!

<開発のイメージ>
生まれて初めて稲刈りをやったデルタ地帯農村。学生時代訪れた新潟や兵庫で農業をやる友人宅ではコンバインが稲刈りをして、ベトナムのように、左手で稲を束にしてつかみ、右手の鎌をざくっと振り下ろすことなどできなかったのだ。その合作社の長が言う。俺たちには機械がない。日本みたいになれるのはいつのことだろう、と。暑い日差しのもとでのベトナムの手の稲刈りをロマンチックに言うつもりは毛頭ない。でもガイドさんを通訳に、つい演説してしまった。日本の農業の失敗から学んでほしい。機械と化学肥料と農薬づけの日本の農業は、農民自身も、消費者も苦しめているよ。日本政府の援助だって? 気をつけたほうがいいよ。日本の農民は、日本政府の言うことをきいてひどい目にあってきたんだから!

<排気ガスを吸える便利さ>
1993年に訪れたキューバのハバナでは、ガソリン不足のため、バスも車もほとんど通らず、異様に澄み切った空気の都市で、街はお互いに知り合いらしい人々であふれていた。2001年のホーチミンの人々は、排気ガスをいっぱいに吸いながら、バイクで移動する自由を楽しんでいる。いや、ホーチミンの人々は東京と同じ。無関心な、疲れた、余裕のない顔をして、目が合ってもすっとそらしてしまう。排気ガスに煙る大通りのショッピングセンターで買い物をするために、胸にいっぱい排気ガスを吸い込んで働いているのだ。東京の人々がそうしてきて、いまだにそうしているように!

<第2のベトナム戦争>
ベトナムのひとがいくら日本のまねをして開発を進めても、アメリカや日本を経済的に追いぬくことはできない。日本やアメリカの多国籍企業はベトナムの自然と人間を利用しようとしているだけだ。ベトナムの人々は、むしろ、みずから多国籍企業の罠にはまっているように見える。アメリカや日本の消費文化に幻惑されて、自分たちの自然と人間関係とを、自ら壊しつつある。排気ガスとストリートチルドレン。…アメリカとその同盟国日本は、一度はベトナム戦争で敗北したが、こんどの経済戦争では着実に勝利しつつある。ベトナムは自発的に植民地になりつつある。

<ばかばかりじゃねえはずだ…>
1975年までのフランスと日本とアメリカに対する戦争がムダだったなんて言いたくない。人類史の中でむきだしの植民地支配を終わらせるためには、不可欠の闘いだった、人類はそれほど野蛮だった。開発援助だの多国籍企業だのが大々的に登場するのはベトナム戦争以後なんだから。こういいたい。多国籍企業を利用するつもりで、引き入れた人々は、いっしょにアメリカや日本の開発イメージをも取り込んでしまった。こうして自発的な植民地化の道に引きずりこまれてしまう…。それに気づいているベトナムの人もいるに違いない。…あんなとんでもない戦争を闘ってきたひとたちだもの。

<第2のベトナム戦争は日本やアメリカで闘おう>
20世紀型の開発の魔力。こいつをやっつけるのはむしろ、日本やアメリカに住むわれわれの番だ。…九州土呂久の砒素中毒の話を思い出す。江戸時代末期から猫いらずを作るために鉱物を焼いて、有毒の煙を吸い込みながら砒素を作ってきた何人かの村人たち。砒素を売って、りっぱな屋敷を建てながら、その中で病魔に臥せって死んでいった人々。…今、この砒素中毒問題のNGOはアジア砒素ネットワークという国際NGOに発展したが、そのメンバー広中さんがタイ北部でみたHIVの村のこと。…身売りされてバンコクに送られ、HIVに感染して帰ってきた女性たちは、身売りの金でりっぱになったテレビつきの家にもどり、その屋敷の中でやせ細って死んでいくのだと言う。

<楽しく愉快なトンネルくらし>
生活の隅々まで多国籍企業製品に取り巻かれるようになった都市生活の私たちのくらし。世界中を巨大開発で掘り返し、地球を汚して、豊かさの幻想をふりまきつづける多国籍企業。…でも考えてみれば、多国籍企業って意外に弱いかも。私たちは、その企業活動について、消費者として制裁できるし、労働者として意見できるし、各国政府を通じて法規制だってできる。…メディアからパンツまで。ほうら、便利になったよ、グローバリゼーションばんざい!という多国籍企業賛美の爆弾はベトナム以上におれたちの上に降り注ぐ。そんな爆弾をうまく避けながら、トンネルを掘ろう。人間と自然、人間と人間との楽しく愉快な関係をつくるんだ。…

<Hic Rhodus、hic salta!(ここがロードスだ、ここで跳べ!)>
むかし、知ったかぶりの男がいて、ロードス島では、ぴょんと跳ねると、そんへんの家なんて跳びこしちゃうんだよね、と。それを聞いた別の男が、ほう、それじゃ、ここで跳んでごらんよ! と。… 第2のベトナム戦争を多摩で! 世界の開発の流れを変えてしまうためにトンネルを掘って。ネットワークを張り巡らせて。…そんなことを考えるとわくわくしてくる。…第2のベトナム戦争を進めるのは、勝利後に堕落してしまう共産党式の軍隊的権威の組織ではなく、キャンパスや職場、友達どうしや近所で気軽に作られたNGO。あやしく愉快で楽しく、でも、ちょっとすみにおけないことをいったりやったりして…。そんなNGO活動はなんといっても楽しいので、多国籍企業の進出やインターネットの普及とともにウィルスのように世界中に広がり、…多国籍企業にくっついて、あるいはその中で増殖し、…やがてネットワークを作って企業活動までコントロールするようになる。…

<ウィルスになろう>
ぼくが関わってるいろんなNGO。それがそんなりっぱなウィルスに成長して、ベトナム、ホーチミンでNGOする人々ともネットワークで結ばれるとき。…ホーおじさんに見せたい思う。ほんとうに独立したベトナム、ホーチミン!…花を抱いた少女、黒い瞳の赤ん坊はそのときどこにいるだろうか。

(2001年4月2日)


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