● キンバムチセウゴ(長い夜が明けて)・・・ ●

2002年1月

<<< 謝辞 >>>
まず、最初に私たちを受け入れて、すばらしいプログラムを組んでくださった、ソウル、延世大学の金賛鎬先生と「代案教育研究会」の朴ソヨンさん(ずっと、英語でメールでやりとりして、見事な手腕でいろいろ手配をしていただきました)をはじめとする学生のみなさん、春川、江原大学の黄昭淵先生や同僚の先生方、そして「日本学科」の学生のみなさんに、心から御礼を申し上げます。そして、無理難題に近い直前のリクエストの対して、豊かな人脈を駆使して旅行の全体をすばやくコーディネートしてくださった、お春さんの韓国語の先生、在ソウルの佐々木典子さんにも、その能力に感嘆しつつ、深く感謝いたします。


<チョン、チョン、チョン、タ、クン!>
あの、チャンゴという両面太鼓を叩く。はしを持つようにバチを握った左手。長くでかい竹べらのようなやつを、バシッ、バシッと打ち付ける右手。・・・両手を使って、両側から叩くのがチョン。右手の竹べらのバシッ、がタ。左手の丸いバチがクン。・・・大きな声で、チョン、チョン、チョン、タ、クン!と叫びながら、チャンゴを叩く。  1月のソウルは寒い。腰をおろした落ち葉がまばらな地面から冷気が伝わり、けつの穴がしびれてくる。ソヨンさんたち差し入れのあったかい缶コーヒーを、まずは、けつに押し当てながら飲む。延世大学キャンパスの中の林。鳴り物がにぎやかなので、練習はいつもこのあたりだという。サムルノリ・クラブのリーダーは男性だが、女性のほうが多い。みんな、透明感のある、とてもいい顔をしている。われわれはチャンゴと、ブクという中太鼓と、チンという鍋蓋のような鐘のパートに分かれて、基本リズムを練習する。

<はねまわる太鼓>
ひととおりできるようになると、チンをもったリーダーのもと、全パートで合わせてみる。3とおりほどのリズム・パターンを組み合わせれば、もうりっぱな曲になるのだ。息がぴったりとあって、太鼓が響くときのえもいわれぬ快感。・・・最後に響き渡る銅鑼。ぐわーーん!・・・こんどは、土ぼこりで茶色になった迫力のさらしで、チャンゴやブクを腰にくくりつける。チンをもったリーダーを先頭に、輪になって、叩きながら歩くのだ。ただ歩くのではない。膝をおりまげて、ステップをふむ。リズムはだんだん激しく、早くなり、やがて、その場とび一回転を入れながら歩く。自分が林と一体になってしまったかのようなよろこび。葉を落とした木々の間から漏れる弱い太陽、厳しい冷気が火照った体に心地よい。あっという間の3時間であった。

<サムルノリ・セット>
韓国民衆芸能サムルノリの魅力を体験させてくれるとてもすてきなワークショップ。でも、ずっと見まもって通訳などしてくれた代案教育研究会の面々には悪かったかも。だって、とにかく寒かったし。しかも、みんなこの手の楽器やったことないとか。・・・でも考えてみれば、我々だって、日本のお神楽の笛や太鼓、触ったことない人がほとんどじゃないかしら。・・・などと思ううちに、無性にチャンゴが欲しくなってきた。自由行動の最終日。最後の晩餐まであと1時間ちょっと。急に思い立って、道端の観光局のお姉さんに、そういう楽器をおいてそうな店を聞くや、地下鉄で直行。路上にチャンゴを並べた店が目に入るや、飛び込んで、英語とあやしい韓国語を駆使しつつ、有り金残らずはたいて、銅鑼、チン、ブク、チャンゴの一式購入。古典舞踊の小さな太鼓、ソコ2つに、教則本にテープまで買って2万5千円ほど。

<ソコ>
古典舞踊で使う、握り棒がついた小さなでんでん太鼓のようなやつを、ソコと言う。こいつの使い方は、江原大学の舞踊学科の学生さんから習った。左手にソコの柄、右手にバチをもち、トン、トン、トン、トンとソコの片面ずつを交互に叩くのである。もちろん、舞踊なので、ソコの位置は、へその前の高さから、だんだん上昇して最後のトンのときにははるか頭上までもってくる。そしてパッと両手を開いて再び臍の前あたりから、次のトンを始めるのだ。ステップもあって、ソコに合わせて、軽快に踏む。このような基本パターンを、さらに3種類。我々は10人ずつの2チームに分かれてありさんのように並び、先頭の天女の羽衣のようなすてきな練習着の舞踊学科生のあとについて、ソコを叩きながら、ぞろぞろと続く。左右両側から登場した2チームは、全体で大きな輪を作ったり、ふたつのうずまきになったりして、最後には再び左右から登場し、中央で激突するか、と思いきや、うまく2本の線がいっしょになり、チーム構成員はお互いに体を左右によけてすれ違い、再び2本の線に分かれる。・・・はずなのだが、我々がやると、体を左右によけるタイミングがはずれて、激突するものが続出。チャンゴを叩いて拍子を取る指導者のお姉さまの大爆笑。

<古典舞踊のよろこび>
これもほんの3時間ほどであったが、広々とした板張り、鏡張りのすばらしいスタジオでのレッスンは至福の瞬間であった。バレエでも日本舞踊でもそうだが、古典舞踊というものには、何か凛とした気品が漂う。それは指導者のちょっとした所作や表情の中に現れて、レッスンを受けるものに伝わってくるのだ。人間って、こんなことだってできるんだよ!差別と屈辱に充ちた世界の中で、宮廷だの貴族だのに芸を売って生きた芸人たちの人間賛歌が、見るものを感動させ、平等にしてしまうのだ。 デモンストレーションで見せてもらったソロの踊りなどは、優雅ながらも、どこか鬼気迫るものがある。常に大陸からの、また日本からの侵略のさらされてきたこの地域の歴史。そういう男どもの争いの中で暴力にさらされてきた女性たち。そんな歴史を飲み込んで押しつぶし、糸にして天空に吐き出す蚕のように、舞う肉体がきらめいてみえるときがある。

<ヤクチュ、ハンジャン、…(お酒を一杯…)>
いい酒を飲んだ。キム・チャンホさんは、たたかう大学教師。エリート主義的な学問、かっこうだけの授業、そして、ソウルという巨大な都市の病理…。日本のフリースクールにあたるような、登校拒否の子どもたちを集めた自由学校を、なんと市のお金でつくるという動きに中心的にかかわっているという。大学の授業もインターネットを駆使して、対話型の授業を展開しているという。代案教育研究会などというずいぶん広範な学生を集めた組織も、学生たちが主体的に学べる場を作りたいという試みらしい。欧米の図書館政策にあこがれて、大学院で研究したいという学生リーダーのソヨンさんに、自分の国の地域コミュニティの実状をしっかり分析する必要を気づかせてくれたのはチャンホ先生だと彼女はいう。授業評価は大学がやっているが、結果の公表はされない。こんなもの、とせせら笑う教授もいるが、それは間違っていると思う、と。うちの学部でね、学生たちがやって、いろいろ風当たりがあったけど、4月には結果を公表するんですよ。…と、こちらの苦労話をついひとくさり。

<ハシゲッスムニカ?(いかがですか)>
2年の日本留学のキムチャンホさんの日本語もすごいが、春川では、日本学科のフアン・チャンヨンさんが滞日経験6年なら、一緒に飲んだ、別の学部の同僚のフアンさんの先輩8年。所々に残る雪をよけながら、タクシーで居酒屋に乗り込み、白いどぶろくのような酒マッコリをひしゃくですくいながら、エイのような魚の刺身をつまむ。サメ科らしく、口いっぱいに、アンモニアのしょんべんくさい匂いが広がる。そこですかさず酒を口に含むと、えもいわれぬ香りになるのだ、と先輩。まったくくせのないクリーム色の肝はとろける珍味。  日本語でわあわあ言いながら飲んでいる私たちを、もう一組だけ客のやや年配の労働者ふうの一団が、ちらちらと見る。…が、そのうち、その先輩の音頭で、ぐいっと杯を空けて、さかさにして見せた後、反時計回りにそれ次の人にまわしてさらにぐいっと、…を、やるうちに、何も気にならぬ酔い心地。

<チェジュド>
済州島(チェジュド)出身というその先輩と故郷の話で盛り上がる。私の知り合いが書いた『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文春文庫)というえらくおもしろい本のクライマックスは戦後すぐのチェジュド蜂起とその無惨な弾圧の話。 それを逃れて日本に渡り、「在日」になって苦難をなめた後、「帰国運動」で北朝鮮に渡るが、再び弾圧されて行方不明に…。5年も前に読んだ本なのに、なぜか、鮮明に蘇えってくる。日本人なのに、そんなことを知ってるか、とその先輩にいわれて、ついついあらすじを語る。…ぼくの大学時代の先輩であるその本の著者の数奇な人生。…そう、研究会の仲間で「在日」のとてもおもしろい友人のお父さんもチェジュド出身だったこと。韓国の民主化の進展でやっと彼も韓国にもいけるようになって、チェジュドの大学に留学していたこと。…

<天皇、ヤスクニ、…>
いつのまに話は広がる。どうも天皇のことがひっかかるんです、というファンさんに、私が持論の民営化論を述べれば、そいつはおもしろい、と彼。「そりゃ無理だろう、天皇もよく働いてるよ。天皇家の血筋に高麗の血が入っているなんて天皇が言うもんで、わが大統領はめろめろじゃないか。」と先輩。「靖国神社参拝問題のときにおもったけど、小泉っていう人は、植民地支配のこと、わかってないんすよ。」という私に、「靖国?ありゃいいんだよ。日本も小沢流にいえば普通の国になりたいというだけの話だ。韓国だってやってるよ。」と先輩。「たしかに戦争で死んだ兵隊の慰霊は韓国でもやってますけど、ちょっと靖国とはちがうでしょう。…いやあ、この先輩、ちょっと右翼なんですよ。」とファンさん。「私はね、8年間ずっと奨学金をくれて私を勉強させてくれた日本政府に感謝しているんですよ。…韓国と日本とは長い歴史がある。どっちも悪いことはいろいろやっている。でもね、近代史をみると、日本のやったことは韓国をほんとうに不幸にした。いまだに南北分断されて、離散家族ができたのも、日本が韓国を植民地にしたからなんですよ。このことだけは、日本の人に知っておいてもらいたいと思いますよ。」とやや改まった口調の先輩。

<歴史、…>
「いやあ、まったくそのとおりですよ。でもね、ぼくは歴史学の学会の役員をやてたことがあって、そのころ、毎年のように、古代史の人が、決議文を作って政府に出していたんです。天皇陵を発掘させろ、ていう決議です。宮内庁は、ほんとうに天皇陵かどうかも怪しい古墳まで天皇陵に指定して、皇室のプライバシーだからといって、発掘を許可しないんです。でも、古代史のいろんな論争は、そういう大量の天皇陵をぜんぶ掘ってみるとほとんど解決するそうです。むしろ古代史の人たちは言うんです。掘らせないのは別の理由があるんじゃないか。掘ってみると、天皇家は韓国からきた、朝鮮半島からきた<朝鮮人>だってことがわかってしまう。日本の政府は、それがいやなんじゃないか、って。…でも、もしそういうことが証明されるとおもしろいですよね。日本の原住民はアイヌとか沖縄とかの人。それを支配しにきたのが、韓国からきた天皇家。近代になって天皇の日本が朝鮮半島を支配したのは、いわば里帰りで、自分の故郷に帰ってきただけ。日本の先住民も、再征服された韓国の民衆も、このとんでもない支配者一族の共通の被害者だ、っていうことになってしまうじゃないですか。…」そんな私の演説に、先輩は呵呵大笑。「よし、乾杯だ!2次会は、カラオケにいこう!」

<アチミスル(朝露)>
ソウルでもカラオケにいった。韓国の学生も日本の学生も最近の日本の歌。私は、「イロナ(起きろ)」で始め、「セヤセヤパランセヤ(鳥よ鳥よ青い鳥よ)」でしめて、「アチミスル(朝露)」で盛り上げる、という選曲。最初のやつは2番以降の歌詞が怪しく、2番目のは、日本で学生たちと練習しかけたが、講師としてきてもらった韓国からの留学生が唄うメロディーと入手したCDとがあんまり違いすぎるため挫折してうろ覚え。まともに唄えるのは「朝露」だけ。この歌は、1970年代の民主化運動の中で生まれ、弾圧で殺された者の葬儀がデモになってソウルじゅうがこれを歌い、歌の作者が「これはもうぼくの歌じゃない。民衆の歌だ。」と叫んだという。独裁時代には禁止されていたが、いまでは、韓国では人気ナンバー1の国民的歌だ、留学生から聞かされていた。今回の旅行の参加学生にも楽譜と歌詞カードをコピーしてあったが、持参した私のCDをみんなが聴いたのはやっと行きの飛行機の中。みんなで何か歌を、とう場面になった時の備えだったが、ついにその機会がなかったのはむしろ幸運というべきか?

<…?>
ソウルの学生お勧めギンギンの大スクリーン付きカラオケと違い、春川の先輩御用達の所は、ビールに、妙に品よく色っぽいお姉様付き。「先輩はこういうのが好きなんですよ。でもあやしいところじゃないから大丈夫ですよ。」とファンさんが耳打ち。先輩はさっそく日本の演歌をうたいまくり。おねえさまもデュエット。こっちも演歌気分で与作など。「カラオケ嫌いなんですよ。」というファンさんもなにやら日本の演歌を歌わせられている。こっちが歌のとき、先輩はお姉様とチーク。先輩がばんばん唄いだすと、いつのまに私が彼女と瞳を見つめ合いながらチークを踊っていたりして…。そろそろ最後ですよ、というファンさんに私は、「アチミスル」をリクエスト。かなり酔っていた先輩も、これがかかりだすと、ぼくの顔をじっと見て、「これ、唄えますか?…これは、ほんとうに、いい曲なんです。」と言って立つと、お姉様もいっしょに4人で肩組んで大合唱。

<長い夜があけて…>
全部おごってくれたうえ、「今日は本当に楽しかった」といって固い握手をくれた先輩、タクシーで送ってくれたファンさんとも別れて宿舎の江原大学男子学生寮へ。長い廊下の真ん中あたりの部屋がにぎやかなのでのぞいてみれば、わがゼミ生たちと日本学科の学生たち。焼酎、ビール、つまみがずらりと並び、8人くらいで深夜1時の宴たけなわ。かなりへべれけの私は、焼酎1杯くらいであとはゼミ生にまかせて部屋に退散。…明け方5時ころ。話し声に目が覚め、しょんべんに起きれば、かの部屋で、「あんまり日本語できないんです」といってた日本学科の男子学生が大演説。「韓国人はね、…」「日本人はね、…」廊下の端の部屋に戻っても、主語だけはよく聞こえる。やっとるわい、…と楽しくなりすっと眠りに落ちる。…

<真珠よりもきれいな朝露>
「いや、もう、韓国の学生はすごいパワーで、ぼくは死にました。」などと、夜中じゅうつきあって、ついにダウンして朝飯に起きてこなかったわがゼミ生たち。女子寮のほうでも夜じゅう話していた部屋もあったらしい。学生たちだけでいったソウルのホームステイのほうは、共通語が英語だったせいもあってか、そこまではいかなかったが、特に高齢の家族の方々との出会いはかなり強烈だったらしい。…こういうつきあいなしに、日本人の誇りがもてる教科書を作ろうだの、歴史を見直そうだのという議論がまかりとおるのが「長い夜」の時代だとすれば、夜中の熱い話が「ちょー、おもしろかった!」という学生たちの瞳の輝きや、太鼓を叩いて踊った汗のしずくは、真珠よりもきれいな朝露。

<韓国の学生たち…?>
さて、わがゼミ生たちは韓国の学生たちにどのように映ったであろうか。…梨花女子大も、延世大学も江原大学も、キャンパスは横断幕やポスターでいっぱい。それは、単に新入生歓迎というだけのもあれば、「キャンパスの隣の小川の埋め立て反対!」「授業料値上げ反対!」なんてのから、「労働者・貧民と連帯せよ!」などというのも。延世大学の学生サークル用施設では、ストライキ中の民間企業の労働組合が寝泊まりしている部屋があったり、民主化運動のときに殺された学生の石碑やら、北への訪問を実行しようとして(?)殺された活動家の祭壇があったりする。江原大学では学費値上げ反対の篭城もやっていたとか。…しかし、そんな学生会執行部には批判的な学生も多く、役員のなり手も減っているとか。学生会の予算の使い道もよく問題になるそうだ。…

<NGO…?>
そんな説明をしてくれるソヨンさんやファン先生のことばの端々に、学生どうしの派閥抗争の殺し合いで血塗られて腐敗の極にまで達してしまった日本の学生運動を日本人が語る時に漂うものとは違う、3・1独立運動以来百年の過去の学生運動へのある種の尊敬のようなものを感じるのは私の思い込みのせいだろうか。しかし、それだけにいっそう、大多数の学生の思いを離れつつあるかのような今の学生運動への苛立ちのようなものを感じるのだ。 それにしても、今回の企画で最後まで私が窓口になってしまったのは大失敗であった。向こうは、最初やってくださっていた佐々木さんは早々と学生代表のソヨンさんにバトンタッチ。その彼女とこっちの学生代表とでうまく連絡を取り合いながら作っていければ、そんなネットワークの経験じたいがもっと双方にとって意味をもてたかもしれない。…大上段に振りかぶった使命感のようなものではなく、普通に楽しみながらも、真剣になにかを求めている。…今回の延世大学と江原大学の学生リーダーたちの雰囲気は、日本でもようやく花開いてきたNGOのそれ。

<チョゴチンクヮンヤエ(あの荒野へ)…>
独裁を倒す運動の中から再び独裁が生まれないようにするには、独裁を産み出す文化が変わらねばならない。皇帝の独裁を倒す運動の中からソビエト社会主義の独裁が生まれた。それもようやく倒されて長い夜が明けた。が、1991年の朝露は厳しい試練にさらされている。人々が変わり、文化が変わるのは容易ではない。 李朝の独裁を引き継ぐ天皇の独裁を倒す国際的運動の中から、北と南の軍事独裁が生まれた。南の軍事独裁はようやく倒されつつあるが、まだ完全ではない。幕府の独裁を倒す運動の中から天皇の独裁が生まれた。天皇の独裁を倒す国際的運動の中から、自民党と社会党とで日本社会を二分する戦後日本の奇妙なエリート独裁が生まれた。このエリート独裁は崩壊しつつあるが、まだ倒されてはいない。市民の力がまだまだ弱いのだ。 運動から生まれる独裁を拒否することで、むしろ勢いを得て世界に広まってきた1990年代以後の国際的なNGOとその文化。日本と韓国の若者たちがそんな文化を自分たちで創って広めていけるようになったとき、長い夜が明けて、あたり一面のはっぱの上で朝露がきらめくのだ。 さあ、春のキャンパス。学生たちといっしょに、荒野に出てあのサムルノリセットを鳴らすことにしよう。 チョン、チョン、チョン、タ、クン。 グォーーン!

(2002年3月8日)