● 初めてのパウワウPOWWOW ●

2002年9月 アメリカ先住民と自然公園の旅


<初めてのパウワウPOWWOW>
アメリカの真ん中の南のほう、ニューメキシコ州のアルバカーキ。市の中心部にある巨大な体育館ホール。ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン…。 単調なだみ声の太鼓の音が響く。数人で取り囲んで、寝かせてある巨大な1つの太鼓を片手のバチで打つ。うなり声のような歌が気合を入れて、ときどき高まる。 基本のステップは単純だ。色とりどりの民族(部族?)の衣装を着た人々が、三々五々連れ立って、自由に加わる。右回りの踊りの輪から離れて、バリエーションの振付けで踊りまくっている羽飾りのお兄さん。隣同士でしゃべりながら、手を取り合って、ひたすら基本ステップを踏みながらゆっくりと回っていく家族づれや、老人たち。 「Hey, come!」というおじいさんと子供の後ろにくっついてぼくも輪に加わる。踏みしめるステップの足元が体育館の床で、大地でないのは悲しいが、ぐるぐる回るうちに、床を超えて、その底にあるアメリカの大地を感じるのだ。

<アクウェサスネAkwesasneの踊り>
パウワウPOWWOWは、部族を越えた先住民どうしの交流のための踊り。それぞれの部族は部族ごとの踊りをもっている。植民者たちからモホークと呼ばれたアクウェサスネの踊り。やはり輪になってステップを踏んで回りながら、男女で手を交差させてつなぎ、ポジションを入れ替えて出会いの歓びを作り出す。素朴な手と手の触れ合いにどきりとさせられ、大地に生を受けた歓びを感じる。…その楽しい踊りを我々は、カナダとの国境に近いニューヨーク州にある先住民居留地の小学校の音楽室で小学生たちと踊った。持参の和太鼓や笛に合わせて輪になって炭坑節やねぶたを踊ってみせた私たちへの プレゼント。みごとな羽根かざりのついた部族の衣装をきた先住民文化教育ボランティアの大学生。誇らしげに民族衣装を着て踊る子供たち。

<Nature Week と先住民>
2002年9月、ゼミの4年生の友人つながりで、アメリカ、ニューヨーク州の自然公園にある大学に滞在し、自然体験と住民との文化交流をやるという日本のNGO(リンクスアカデミー)のプログラム(Nature Week)に学生たちと参加した。当初は先住民のナバホの大学との交流も含むゼミ研修旅行の予定だったが、準備不足のため果たせず、有志学生でアルバカーキ周辺の先住民地域を訪問したあと、ニューヨーク州にいきそっちから参加の学生たちと合流した。 私を含めて、アルバカーキから参加の学生たちにとっては、この旅は、先住民の旅。アルバカーキのインディアン文化センターの展示をみて、サンタフェのインディアン美術館にいき、世界遺産のタオス・プエブロの泥造りの集落をみて、先述のパウワウでしめる。…飛行機と車を乗り継いでニューヨークのはるか北の森に分け入り、突然現れた湖畔の大学構内の職員住宅にホームステイして落ち着くことになっても、この大地は先住民のものという印象がぬぐえない。…

<注意深く再生されて維持される自然>
自然公園の歴史を展示する博物館。19世紀のこの地域の森林伐採を示す写真は今回の旅行でいちばんショッキングなもののひとつ。伐採によってみごとに禿山になってしまった山々。切り出した木材で巨大な川の水面がみごとに全面的に見渡す限り、無数の丸太で埋め尽くされてしまっている写真。…この3月に訪問したシベリアの森林伐採、ミンダナオでみてきた禿山、テレビや写真でみたインドネシアやマレーシア、ブラジルの森林伐採がぼくの脳裏でだぶる。森の虐殺の断末魔の悲鳴。思わず、うぐぐぐーっ、と叫んでしまう。 博物館には、19世紀に始まる自然保護運動の叫びも展示されている。地道な学者の調査、まじめな政治家、運動に参加する名もない人々の顔。 山歩きやカヌーで我々のガイドをつとめてくれたKさんやJさんの森の中での注意深い身のこなし、森のあちこちにある丁寧で的確な標識や案内は、そんな歴史を背負っていたのだ。

<初めての田舎のアメリカ>
ガイドのJさんの農場で昼食をごちそうになる。見渡す限りの刈り取ったばかりの黄金色の麦畑、巨大な芋掘り機械が休む掘り返したじゃがいも畑。いろんな色の作物畑にそのまま広がる芝生に大きなテーブルを出して、地ビールを飲む。炙ったニワトリとここでとれたジャガイモにかぶりつく。庭のキュウリでつくったピクルスをつまむ。…有機農業はおもしろいとは思っているが、実際にやるにはわからないことが多くて、まだとてもできないという。この農場は、おじいさんがイギリス人から買ったという。その代からのアメリカ自営農業の近代化を物語る倉庫の農業機械。この農場ブランドのジャガイモの袋。…わずかに実を残したりんごの木から一つもいでかぶりつく。カナダ国旗になってる大きなメープルシロップの木の赤い落ち葉は記念にポケットへ。隣に住むJさんのお父さんがバギーにのって訪ねてくる。実直をしわに刻んだ顔。 カヌーですれ違った老夫婦と私の相棒のJさんとの湖の中ほど、カヌーを並べての世間話。Jさんの隣の農場が破産して、自営農家は、このあたりではJさんの農場だけになったという。「高価な農業機械のローンが払えなくなってね。」という破産の理由は、ニューヨークに帰るアルバニーの飛行場の近く、日本にもあるファミリーレストラン、デニーズでの昼食の後に聞いた。マクドナルド、ケンタッキー、…日本でもおなじみのファーストフード店の巨大なやつがずらりと並ぶ道路沿いの一角。「どこに行っても同じ店さ。」と、Kさんと顔を見合わせる。

<先住民の目>
我々を先住民居留地に案内してくれたのは森の中のポールスミスカレッジに通う大学生のTさんだ。なるほどたしかに我々と似た顔付きのTさんが、自分が先住民であることを強く意識し、そのことに誇りをもつようになったのは、中学生のころだという。先住民の踊りのチームに加わるようになって、先輩などから先住民の歴史や、独自な文化のもつ意味などを教わるようになってからだという。 ガイドのKさんは、先住民ではないが、自然への興味から先住民の文化に接近。自然を愛し、その厳しさと共に生きようとするものは先住民の知恵に素直な感動を覚えるのだという。 Tさんに言わせると、彼の大学でも先住民への偏見は根強い。ちょっとした数字の間違いに「おまえインディアンか」という教師。…そういえば、あの自然公園の歴史の博物館でも先住民に関する展示はわずかだ。この大自然に先住民がいたことは書いてはあるのだが。…

<家族の絆>
アクウェサスネの居留地の家庭で夕食をごちそうになった。肉や豆やコーンや、野菜を煮込んだ伝統的なスープ。そしてパスタやサラダやフルーツポンチなどのパーティー料理。長年鳶職を続けてきたおじいさんとおばあさんとその大きな息子3人で住む家に、その近隣一帯に住む親族一同すべて30人近くが集まってくる。 外には広々とした芝生。大きなイヌ。私物のトランポリンから、特大のビニール・プール、ブランコまで。アメリカ式の豊かさ。… 食後は、まだ明るいうちに川端まで歩いて、やはりこの一族の私設のあづまやへ。大きな川のむこうはもうカナダだという。きれいな大きな河。記念写真。 後でTさんに聞いて驚いた。一見豊かに見えるあの地域は、かつては大企業の産業廃棄物の処理場にされていたことがあり、そのためと思われる地下水などの汚染がいまでも問題になっているところだという。

<2つのアメリカ>
先住民ナバホの人々が、その土地で採掘されたウランの残土の放射能で被害を受けているという話が聞いていたけど。…と言えば、「アメリカじゅう、どこでも、こうなんだ!」とT。 自然と先住民とを無惨にも壊してきたアメリカと、そんな残虐に立ち向かってきた自然保護運動のアメリカ。2つのアメリカのせめぎあいはいまでもある。そのせめぎあいは、いまでは世界じゅうに広がって、いたるところで同じドラマが演じられている。 大地を踏み締めながら、夜中続けられる先住民の踊り。ぼくもその単調なリズムを、自然と先住民の側にたって、よろこびをもって踊りつづけたいと思う。部族を越えた連帯の踊り、POWWOW。

(2002年11月20日)



● シャーマンの踊り ●

2002年3月 シベリア先住民村


<漆黒の闇>
歓迎のウォッカの後、ついつい紅茶を飲みすぎたせいか。しょんべんしたくて目が覚める。漆黒の闇。一瞬、必需品と言われた懐中電灯を忘れてきたことを悔やむ。が、じっと目を凝らせば、窓があるべきあたりが微妙に白けている。ままよ、突撃。起き上がって、ソファベッドのとなりのイスの上に置いたはずのセーターや重装備のスキー用上っ張りやらを手探りで身につけ毛糸帽子をかぶる。そのままイスから奥、ドアがあるべきあたりの闇へ。ドアの横にあるはずのガラス戸の入った本棚が、窓からのぼっとした白さを反射している。ほら。こいつがドアのノブ。静かに回してぼくが寝ていた居間から玄関室へ。ドアは帰りに間違わないように、半開きにする。だが6畳ほどの広さの玄関室には窓がない。案内してくれた環境団体FOEJapanのエイイチロウさん、その奥のレーナさんが寝ている部屋に通じるドア、ホームステイの家主ニコライさん夫婦の寝室、そしてダイニングキッチンに通じる土足の廊下へ通じるドア。この3つのドアがあるだけの部屋だ。

<手探り2回転>
これほどの闇を歩くのは初めて。上も下もわからない。右側から壁を手で探る。壁。壁。ふわっとするもの。外套だ。ふむ。足になにかが当たる。靴だ。耳を澄ませれば、イビキ。こいつは、エイイチロウさんか、ニコライか? ドアのノブ。夫婦の寝室を開けてはやばいではないか。…壁。壁。ドアだ。ああ、しかしこれは半開き。いつのまにか一周してしまったのだ。あの部屋、こんなに狭かったかしらん。まあいい。冷静に研究することだ。今度は2つのドアと4角形の壁を確認しながらいくことにしよう。壁。壁。ふむ。ドアらしきもの。だがこれはエイイチロウさんの部屋か、廊下へのドアか。外套。靴。…あれ、また戻っちまった。あいかわらずまったくの闇だが、この部屋は狭く、私の歩幅は大きいようだ。もう一度。全神経を集中させて壁をなぞる。壁。壁。外套。ふむ。角にちがいない。足元に靴。しかもかなり大きい。手で確かめれば、私のマイナス80℃対応耐寒ブーツの手触り。たしか、廊下へのドアに向かって左に脱いで置いたはず。ということは、このあたりにドアがあるはず。…ノブ。えい、開けちまえ。そっと回してひっぱると、冷気がすーっと。大当たり!

<雪明かりの村>
冷たい廊下の部屋。左側を壁伝いにいけば、トイレのある裏庭に通じるドアがあるはずだ。おっと、なにやら足にぶち当たる。スコップのような道具。音を立てないように迂回しつつ、木の壁をさわり続ける。ドア。開かない。鍵がかかっている。落ち着け。手探りで鍵をみつける。留め金だけのやつだ。ドアを開ければ、外は雪。積もった雪でむら全体がぼーっと明るいのだ。村の発電機は深夜止められていて、寝るときに聞いた祭の縁日のような発電機の音はない。静寂の村。雪原の中に板でつくられた裏庭のトイレへの通路。はらはらと落ちる雪の中を、すべらないようによちよちと前へ。バーニャ(風呂場)を右手に通り過ぎて30歩ほど。小さなトイレ小屋の内部は再び漆黒の闇。しょんべんだけなら、盛り上がるくそが突き出た穴にまたがるリスクをおかすほどでもなし。悪いとは思いつつ、小屋の横の雪山に放尿。…ふっ。気もちのいいこと。

<盛り上がるクソ>
せいぜいマイナス10℃くらいだったとか。もう3月だから無理もない。しかもここ、クラースヌイ・ヤール村は、ハバロフスクから1日がかりで南下した山中なので、緯度はほぼ北海道に近い。それでも1月などはマイナス30℃を超えることもザラで、トイレの糞も凍っちまって簡単には汲み出せなかったに違いない。エイイチロウさんもレーナさんもこの村の屎尿処理法は知らないという。村人に確かめられなかったのが心残り…。 ともかく、屋外のトイレ小屋は木製の小さな小屋に穴があいているだけのシンプルな造り。翌朝、初めて食べたシベリアのイノシシやシカの肉をしっかり消化して、最初の作品を付け加えにいく。朝なので視界良好。耐寒長靴でしっかりとまたぎ、穴の底から盛り上がって、地平線に達する勢いのバベルの塔にわが作品を。…春のせいか臭う。そこで、唄いながらドアを半開きでやることに。新鮮な風が入り込んで心地よい。しゃがんだ視界に、トイレの前の家畜小屋の床が目に入る。カラカラに乾いた糞がごろごろしている。イヌのようだが、ヤギのたぐいかもしれない。動物の姿はないが、糞がころがっている。動物もうんこ。人間もうんこ。排泄のよろこびをわかちあって楽しくなる。

<テント暮らしから木のおうちへ>
この村の人口のほぼ半分を占める先住民ウデゲ(ウデヘ)人のことばを完璧にしゃべれる人は、世界広しといえど、もう10人くらいだという。そのひとり、カンチュガさんによれば、ロシア革命のあと、ウデゲ人がこの地域に定住して、ソビエト政府を支持するようになったのは、革命軍が中国系の「匪賊」を追い払ってくれたこともあるが、彼らが「こんな、木の家に住めるようになったこともあるんだ。それまでは、みんなテントの家に住んでいたんだから。」という。日本のそんへんの風呂屋にころがっていそうなおじいさん顔のカンチュガさんが、自分の家の部屋を見回してそう言ったとき、ぼくはなぜか、盛り上がったトイレのことを思い出していた。 やっぱ、テントって寒いのかしら。木の小屋のりっぱなトイレでも、年寄りにはつらかろうに。そういえば、いっしょにいった学生のホームステイ先のトイレは、木で作った座り便座だったとか。…

<シベリア先住民とタイガの旅>
2002年3月8日より1週間のシベリア旅行は、先住民の暮らしと森(タイガ)を体験する旅。発端は目黒の居酒屋だった。ゼミの学生たちとFOEJapan(地球の友ジャパン)事務所を訪れて、昨年9月に訪問したマーシャル諸島研修旅行への準備会の後、ちょっと一杯という話に。地球温暖化プロジェクト・チームの中島さんの誘いに、シベリア森林プロジェクト・チームのお兄さん、エイイチロウさんものってきたというわけだ。…シベリア体験エコツアーをやってるという話に、学生むけに格安でやってくれないかしら、などとずうずうしい質問をすれば、ベスト・シーズンの9月は忙しくってだめだけど、冬なら安くいけるかもね、なんて答えが返ってきたのが酔いといっしょに頭の隅に。 次は誘われるままにふらふらとでかけた11月のフェリス女学院学園祭の環境問題写真展。マーシャルにいっしょにいった写真家イトウさんの作品の中に、ウデゲの女性たちの民族衣装の集合写真があった。アイヌに似ているけどもっとカラフルな衣装に、われわれにそっくりのアジアのなつかしい顔。森でシカを解体する猟師。無惨に伐採された森。…突然無性にいってみたくなる。

<狩猟の民>
そんな私の思いがゼミの学生たちと共鳴し、いつのまにプロジェクトチームができて、学生たちの思いがさらにエイイチロウさんたちを動かし、1月くらいには旅の形が整った。FOEJapanのほうで、冬のエコツアーの実験ケースとして格安のプログラムを組んでいただけることに。…何度かの事前勉強会。様々の資料。黒沢の映画、「デルスウ・ウザーラ」を見る。カンチュガさんの回想記の訳本、『ビキン川のほとりで』(北海道大学出版会)を読む。そして昨年9月に取材され、今年2月に放映されたばかりの、この村の現状のテレビ・ルポ。それは、民放の環境問題シリーズの1つで、エイイチロウさんも登場して、日本の「北洋材」輸入が違法伐採を促進していること、狩猟の民、タイガの先住民たちが立ち上がって、森を守り、森と共存できる道として、森の木の実や薬草などの販売や、さらにはエコツアーを進める株式会社を創ったことなどを伝えている。

<株式会社ビキン>
村人が創ったその会社が、株式会社ビキン。ぼくがホームステイしたニコライの奥さんはそこで会計係として働いている。ニコライは、この村に1人だけいる警官。ニコライ一家はチェルノブイリの近くから移住してきた白ロシア人である。「家族の健康を守るために、仲間を見捨てて逃げてきた」という。最初は、猟師の仲間に入って働き、やがて警官になった。子供たちはすでに親元を離れ、その部屋を私たちが占領したわけだ。ホームステイ初日の夜、通訳をしてくれたレーナさんもやがて打ち合わせなどで消え、ニコライと2人でウォッカを飲んだ。1991年夏に2ヶ月のロシア留学を経験したはずの私のあやしいロシア語がアルコールで燃え上がる。彼もギターを持ち出して、歌いまくる。トマトとキュウリのサラダ。森の動物の肉野菜煮込み。素朴なパンもうまい。最後はスモモの手作りジャムをなめながら紅茶をすする。「ここの水はほんとにうまいんだ」といって見せてくれたバケツに入った井戸(?)水で入れた、水道のないこの村のこのお茶のうまさが冒頭の大冒険につながったわけだ。

<小学校のウデゲ語クラス>
雪で凍った村の道をよちよちと歩きながら株式会社ビキンの事務所を訪ねた。男たちが4,5人たむろして、じっと私たち訪問者を見る。改築中の部屋。エイイチロウさんによれば、森との共存を唄う会社経営も、実態は綱渡りのように大変だという。ロシアの経済じたいがこのグローバル化の中で綱渡りを強いられてきたのだ。…事務所では、われわれがハバロフスクから運んできたウデゲ語教科書の包みを受け取り、みんなで担いで小学校へ向かう。…村の道は社交場だ。あちこちで知り人にあえば、あいさつから世間話に花が咲く。ロシア系の顔。日本にもよくあるウデゲの顔。 やがて平屋の木造りばかりの村の家屋のむこうに、そびえたつがっしりとした2階建ての小学校の建物。子供たちがたむろしてるあたりが入り口らしい。

<民族文化実習?>
なるほど子供たちの顔も半分以上はなつかしいアジア系。壁にはってあるモスクワ発行の雑誌切り抜きの中で微笑む、すらりとしたヨーロッパ系娘の露出度の高い姿がなんとも異様に見える。わっと群がってきて教科書の包みをもぎ取るようにして事務室にもっていってくれた子供たち。始業のベルが鳴ると教室に吸い込まれていき、我々は、15人くらいの小学1年生クラスのウデゲ語授業を参観。ずっと小学校の先生をしていたカンチュガさんの提案にもかかわらず、「同僚で反対する人がいたために」ソ連時代にはついにウデゲ語クラスが開かれることはなく、ソ連崩壊後はこんどは教材を揃える余裕などがなく、ようやく最近になって始まったという。 事務室の奥には民族衣装や民具などを展示した部屋があって、手芸の時間に作った毛皮細工や布製品などを販売するという。われわれはつい買い物モードに入って品定め。黒テンの毛皮や山猫の爪のお守り、民族衣装や刺繍の壁飾りなどを、とっても穏やかな懐かしい顔つきの手芸の先生から購入。

<森と共存することばとくらし>
事務室前のホールでは、ロシアの民話劇のビデオを放映していて、低学年の子供たちが食い入るように見ていた。ニコライの家にも、またかなりの家にもテレビがあり、ビデオが入っているという。ウデゲ語放送はまだない。年寄りどうしではウデゲ語で会話するらしいが、多くの家庭はロシア語になってしまったという。 カンチュガさんによれば、中国との関係悪化のときに川に柵を作ったために、サケが登ってこなくなって久しいという。先住民のことばは、森の動物たちと川の魚と山菜をとる暮らしとともに消えてしまいつつある。木の家に住み、電気が入り、テレビを入れながらも、森との共存をめざす村人たち。小学校のウデゲ語クラスの子供たちは、どんな暮らしとことばを創り出していくのだろうか。

<タイガで輝く狩人たちとシャーマンの踊り>
先住民の狩人たちの案内で、いよいよ冬のタイガに入り、夕方には、巨大なうちわ太鼓のようなやつを打ち鳴らしながら踊るシャーマンの踊りを見る日の朝。同行の学生のひとりが腹痛という知らせが入る。とりあえず村の診療所に連れて行く手配をするが、Cちゃんは青ざめていたかと思えば、七転八倒、巨大な鎮痛剤をお尻に打たれ、点滴を入れてようやく小康状態。青ざめる私たち。村の診療所では検査器具がないため原因不明という。北海道からヘリを呼ぶか、なんて話も。…ウデゲ人の女医さんは、2時間ほどして点滴が終わると、精密検査のためにハバロフスクの病院まで連れて行くことを提案。看護婦もつけるという。さっそく車の手配をし、大急ぎで朝飯をかっこむと、荷物をまとめ、助手席のシートを倒してCちゃん寝かせ、私と通訳のレーナさん、やはりウデゲ人の看護婦さんが後部座席に詰め込まれて出発。 あとで聞けば、雪のタイガの美しさは格別で、いつもシャイな先住民の猟師たちは、なんとも生き生きと森の動物や植物のことを語り、輝いていたとか。

<森で立ち往生、危機一髪>
村からハバロフスクまでは車で6,7時間。そのうち半分は、除雪はされているが、雪が凍って、舗装されてない山越えの悪路。来るときのバスは坂道で融けかけた雪にはまって、立ち往生。1時間ほど悪戦苦闘し、みんなでバスを押して切り抜けたのだ。今度は乗用車で、運転手も勝手知ったる村人。…だが、後部座席の3人は悪路をぶっとばす乗用車には重過ぎたらしい。がが、がががが、がーんという音とともに、後ろのタイヤがいかれてしまった。が、幸いに、そこはすでにハバロフスクの近郊。木々のむこうにビルが見える。ずっとぐったり眠っていたが、注射器にいれてあった、奇妙な液体を看護婦さんが飲ませたあと、すこし元気になったCちゃん。修理に一生懸命の運転手さん、いつも穏やかな顔の看護婦さんを置いて、レーナさんが時おり通り過ぎる車をうまく捕まえて白タクにし、Cちゃんと私、3人で乗り込む。ハバロフスク市内までは、もうほんの20分ほど。

<救急車>
ホテルに荷物をおいたあと、すぐに病院にいき、どうやら腎臓結石らしく、命に別状はあるまいという診断。しかし、腎臓にできた石はなかなか出てくるものではなく、石がつまったとき、なんとも痛いのがこの病気の特徴とか。案の定、その夜、痛みが再発し、救急車で病院へ。鎮痛剤の注射でおさまり、精密検査の結果、やはり腎臓結石だ、と。こういう時、旅行保険とことばのできる人はほんとうにありがたい。しかもハバロフスク出身のレーナさんは、地元の医療事情に詳しく、巧みにヤブを避けてくれたのだ。…翌日になって、村からみんなが到着して再開。学生寮に宿舎を移して、ホームステイ先のウォッカで鍛えられたみんなの感動の酒盛り。だが、その翌日、再び激痛があって、救急車で病院へ。…救急車のお医者さんは、みんなごっついおじさんで、Cちゃんのお尻は注射でぼこぼこになったが、「みんな、とっても優しかった」そうだ。

<途絶えたシャーマン>
かつては腎臓結石なんぞも、村のシャーマン(祈とう師)が直したに違いない。だが、村のシャーマンはいまでは途絶えてしまったという。最後のシャーマンのおばあさんは、数年前に死んだ。後継者を決めず、シャーマンの知恵や術をだれにも伝えずに死ぬ者は、恐ろしく苦しみながら死ぬという言い伝えがあるにもかかわらず、シャーマンになることのつらさを人に味合わせるのがいやで、自分だけが苦しんで死ぬ道を選んだのだという。 薬づけ、機械づけで精神面を含むからだ全体の治癒力を無視しがちな近代医療への批判が高まり、先住民の医療技術が見直されているいま、なんとも惜しい話。でも、ロシア語をしゃべるウデゲ人の女医や看護婦さんがてきぱきと仕事をする診療所を見た後では、それもわかるような気がする。 生き生きとした森の暮らし、そこで培われたことば。シャーマンの知恵はそんな暮らしのなかでのみ輝き、シャーマンになる厳しい修行もよろこびになりえたのだろう。その意味で、最後のシャーマンのおばあさんはほんとうに断末魔の苦しみを味わったのかもしれない。

<精霊のたたり>
だが、森があって、人が森と生き続けようとするかぎり、シャーマンの知恵は消え去りはしない。…ニコライの家で、人々が集まったときのよもやま話。つい、先日のこと、切ってはいけないという精霊のしるしをつけた木を切った男が、その数時間後に、事故を起こし、救急車で病院に運ばれたけど、とうとう片足切断になってしまったんだ。別の村人がいう。去年は、酔っ払って、川にある精霊の祠を鉄砲で撃った男が家に帰ってみると、子供がおぼれて死んでしまっていた、なんてことがあったね。…みんなほんとうのことで、そんな話がいっぱいあるそうです、とレーナさん。

<新しいシャーマンの踊り…>
世界中のあちこちに普遍的にあるそんな祟りの話は、人々の暮らしに必要なその土地の生態系を守ための巧みなタブー集であることが多い。そんな古来の知恵をしなやかに受けとめて、もちろん人類史の成果を消化し、数限りない失敗をも見据えながら、自然と共存するほんとうに豊かな生活をつくりだす知性をもちたいと思う。ロシア支援、シベリア開発の怪しい計画をチェックし、政府や企業のとんでもない援助で世界中の先住民や自然を痛めつけてきた過ちを繰り返さないようにする知恵と力をつけたいと思う。漆黒の闇の中を手探りで進もうではないか。…先住民の知恵を生かしながら、奥地に広がる原生林をうまく残して、雪明かりの村の村人たちが新しい暮らしを創ることに成功したとき、あの小学校の子供たちは、新しいシャーマンの踊りを踊ることになるだろう。こんどこそはそいつを見届け、いっしょに踊りたいものだ。

(2002年5月3日)