● ジャングルのクリスマス ●


<星空に流れるうた>
イブの夜だったと思う。船のへさきの甲板、舵を取るキャプテンの操縦室のすぐ前にすわりこんで歌った。夜空には降るような星。天の川。後部にあるエンジンのけたたましい音もここではそれほどではない。顔にあたる風。黒々と両側に広がるジャングル。静かな河を切り裂く船がつくる波の音。歌サブゼミでいつもいっしょのHやA。驚くべきうたのメモリーのYやM。…美しい女声の響きに誘われて、オランダ人の相客とその家族が加わる。ジャングルの風を浴びて、まったりとする、食後の夜の至福のとき。

<2度目のバングラデシュ>
ぼくにとっては二度目のバングラデシュ。今回のテーマは、有機農業と自然公園、そして踊り体験。人権問題をテーマに武装闘争終了直後の東部先住民地帯に潜入?した3年前のような緊張感はない。それでもダッカ市街の喧騒、群れ寄る裸足の子供たちの群れ。それを文字通り蹴散らす鉄砲をかつぐひげをはやした「濃い」顔のガードマン。ごみがぷかぷか浮かぶ、どうみても真っ黒のどぶ川で水浴びをし、口をすすいで歯磨きまでしてみせる女たち。…そんな情景にあてられて、学生たちは次々と発熱。

<自然公園!>
熱でダウンの二人をかかえて、病院に連れていってダッカに残るか、みんないっしょに行くかで逡巡。ついに全員飛行機でダッカをたち、自然公園の近くの町に向かうことを決意。だが、霧で出発のめど立たず、5時間ほど空港の待合室で高熱の二人を寝かせながら待つ。その間、日本のフェアトレード会社の現地視察の人々といっしょになって議論したり、それなりに楽しむ。ついに飛ばないことがわかり、8時間かけて小型バスでダッカ脱出。熱の二人もいつのまに回復基調。見知らぬ町の道路際のガソリンスタンドの穴だけのトイレ。体に染み付く車の揺れ。フェリーでの渡河。真っ暗の大都会のホテルの食事。それでも11時くらいには波止場についただろうか。小さなボートのはしけで小型客船に乗りこんでようやく体を横たえて眠りにつく。翌朝は、ガンジス河口デルタ地帯のジャングル自然公園の真っ只中。・・・

<シュンダルボン>
ベンガル・トラが住むという一面のジャングル。岸辺では鹿が水を飲み、猿が樹上で吠え、水鳥が行き交う。ほとんど流れがないように見える、時々水草を浮かべた、水路のような川。自然公園に指定されているため、人が住むことは厳しく制限されているというが、川沿いに時々集落のようなのが見える。…乗組員を含めて30人ばかりを乗せた船で3泊。クライマックスは、海にいちばん近いポイントで下船して、すこし歩くジャングル探検。銃をもったガードがついてきて、トラの襲撃から守る。特別の許可で家の屋根をふくために草刈をしている人々のいる草原を越える。トラにおびえておっかなびっくり林を抜ければ、突然、水平線が開け、砂浜が現れる。ベンガル湾。インド洋だ。…茶色に濁った水。すぐにこちらも自然の姿になってベンガルの水に溶けこんでしまう。ネパール、インドから、うんこやおしっこ、燃やした人体の灰、農薬やゲロ、ありとあらゆる血なまぐさい弾圧と貧困を押し流してバングラデシュに達してここに注ぎ込んだ水。そいつと一体になってぷかりと海面に浮かび、地球儀に張りつくように空を見上げる。

<独裁政治>
帰りに空港でいっしょになったバングラデシュ人は、西部の辺境地帯の出身。その地方では反政府勢力への弾圧が続いており、日本女性と結婚している彼は、ひとりで里帰りしたところで、軍(日本語をしゃべる彼は「自衛隊」と表現した)につまかり、競技場で公開処刑されるところを、危うく免れたという。帰国してから、前回お世話になった先住民NGOで働く日本のMさんが、危険を感じて帰国してきたことを知った。先住民の奥さんともども、いっこうに守られない和平協定に不満で武装闘争の継続を求める元先住民ゲリラと、政府や軍部など両方から命を狙われていたという。我々が滞在していたころは、政府の弾圧が強まり、いちばん緊張が高まっていた時だった、というのだ。そういえば、出発直前に、映画館で爆破事件があり、向こうの旅行社から、「テロ攻撃ではなく、いつもの政治だから心配ない」というメールがはいった。「いつもの政治」が問題なのだ。

<過酷な児童・女性労働>
冬の夜のバングラデシュはひんやりとした霧の中。…行きの飛行機はクアラルンプルからダッカ夜便が飛べず、一晩余分に空港内の高級ホテルでプールと豪華バイキングの夕・朝食つきの無料ステイ。帰りは、ダッカ発夜便が飛べず、深夜にさんざん空港で待たされたあげく、バスで空港近くのアパートのようなあやしげなホテルへ。蚊がぶんぶん。最後の最後にマラリアをもらってはしゃれにならないので、蚊取り線香をたきしめ、明け方4時頃、ようやく仲間の部屋のうちでまともに使える風呂を借りて水浴びをすませ、眠りにつく。とたんに激しいドアのノック。「Dinner is ready!(夕食の準備ができました!)」という声。ねぼけまなこでみんな苦笑いしつつ、食堂に集まり、チャーハンと唐揚げを食べる。朝5時頃、歯磨きなどすませ、再びベッドへ。とたんに、モスクからスピーカーで朝の祈りをつげる声。思わず、毛布をかぶると、今度はもっと近くのモスクから大音量。…勘弁して、とつぶやきながら、もうろうとしてしばらく奇妙な夢をみたと思えば、再び激しいノックの音。「Breakfast is ready!(朝食の準備ができました!)」…この恐るべきホテルの窓から、ふと外を見れば、レンガをかち割る作業場が見える。かなとこのようなもので、数名の女性、子供が、レンガをたたき割っている。過酷な児童労働で有名なレンガ割り作業に違いない。機械でやれば一瞬の作業が、ここでは安価な人間労働で行われる。人間の命の安さは、独裁政治の土壌になっている。

<バングラデシュ女性、日々の闘い>
市場に買い物にいった私たちのグループのうち数名が、セクハラにあった。市場の店主が、布切れを薦めながら体にかけ、胸を触ったというのだ。被害者は不快感を示したり抗議し、いっしょについていった日本語ガイドの人も厳しく抗議したが、店のほうはなにやら居直っていたという。…毎晩、参加者の間でおこなった小人数と全員でのミーティング(見聞をシェアするので、シェアリングと称した)で、この話が話題になった。バングラデシュの人々のいいイメージが一挙に崩れたというのだ。…わたしはこの国のフェミニスト活動家たちの厳しい闘いのことをしゃべった。女性たちは、村では古い男たちのしきたりと闘い、町では、古い道徳を踏みにじる男たちの欲望むきだしの暴力と闘う。女性の抑圧は独裁政治の温床なのだ。

<広まる有機農業>
村の土壌が、1970年代半ばの独立以来の農薬・化学肥料を使う近代農法導入のおかげで、ひどく痛んでいるという。それに気づいた農民たちの間で、静かに有機農業への復帰の動きが広がっている、というテレビ番組を見たのは、もう1年以上前。…その実態を確かめにいくのも、今回の旅の目的にひとつ。

りっぱな宿泊研修施設の中に、有機農法実験農場をもち、家畜糞尿から調理用ガスを取り出すバイオガス設備を備えた巨大NGO。有機農業の普及を中心に活動し、効能、薬効などを記した名札をぶらさげた植物でいっぱいの別のNGOの実験研修農場での宿泊。実際に有機農業を実践している村の見学。有機農業とてもいい!といいながらも、もっと収量の上がる農法が知りたいという村人たちに、つい日本農業の惨状を訴えたりしたが、出費のいらない有機農業が根づいた地域があることはともかく確認。にんにく、ブロッコリーなどいろんな作物をいっしょ混ぜて並べて植えた畑は壮観。…こうやって土壌が改善され、やがて都市貧困住民が村に戻り、新しい村の暮らしを作りながら、独裁政治の土壌も改善していかないかしら、などと考える。

<豊かなミーティング>
その研修農場では、朝晩にうたのミーティングがある。べちょっとした不思議な音のでる太鼓や、びよよーんという音を出す竹のさおを押さえて音程を調整する一弦のギター(エクタリという。ダッカで買ってこなかったのが悔やまれる!)、小型のじゃばらを手で動かして風をおくる小さなオルガンとアコーディオンの中間のようなやつ、それにカスタネットのような手に挟む拍子木。ほとんどイスラム教徒のはずだが、バリ島やタイなどでもみるような、はっぱのうえに花をならべたお供えのようなものと、ゆらゆらゆれるろうそくの火を囲んで歌う。…ベンガルの有名な歌や、即興で有機農業を称える歌。我々の歓迎会にもなった夜の集まりでは、踊りも飛び出す。…農場でとれた野菜や、池で飼う魚やニワトリから作られる農場の料理も実にうまい。手で食べて全身で味わう。…有機農法の開発が、ベンガル農村の文化的な豊かさを復興させることと、自然に結びついているとすれば、楽しいではないか。

<日本のNGO>
ダッカでは、有機農業をやっているOISCAという日本のNGOの農場も見学させていただいた。地元の巨大NGOのPROSHIKA研修センターの農場や、より小規模なUBINIGの農場と比べれば、はるかに小規模(農場の規模はUBINIGと同じくらいかも)、というより、有機農法の実験・研究・研修・普及のシステム化の点で、遅れをとっているように感じた。学生ことばでいえば、「しょぼい」。日本の有機農業研究者との連携はすこしはあるようだが、地元の有機農業NGOとの交流はないということであった。全国から研修希望者を集めてダッカの農場で農業研修をやっているが、研修の事実上の目的は「日本的な」規律をもつ生活の体験を与えることであって、この国にあった有機農業の普及あるいは農村の変革ではない。この点が、先述の地元NGOとは根本的に異なる。…とはいえ、OISCAというNGOは、やや宗教的なバックボーンをもち、保守系政治家との結びつきも強く、うんぬん、という批判をしばしば日本のNGO関係者から聞かされていたが、農家の次男だという日本人の所長さんの素朴な人柄と苦労話には、妙な親近感を感じた。…都会のエリートのNGOではなく、田舎の庶民のNGOとしてのOISCA。そんな視点でこのNGOのことを調べてみたい誘惑にかられた。OISCAの人たちも、日本の古い農村の文化とベンガルの古い農村の文化を交流させるような農民交流のプロジェクトをやったらどうかしら、…などと勝手なことを考えたが、よけいなお世話かな。

<バングラデシュの踊りと音楽>
ダッカ大学の踊りや音楽の先生から、ホテルの一室で、直々に教わる機会をもった。ほんの3時間ほどだが、リズムと踊りの基本、動物の動きをまねた、いくつかの基本ポーズなど。先住民の踊りの模範演技は圧巻。こっちは、あやしいアイヌの踊りを披露する。踊りの先生は、生物の動きをまねたアイヌの踊りの素朴さに興味をもってくれたみたい。…とてもすてきな女性の踊りの先生は、2月には日本に招待されていて、公演をしてくるとか。妙な言い方だが、からだだけで通じ合う踊りのつきあいが好きだ。きたえたからだの美しさは、すべてを超える。座ってみていると眠くなる踊りも、自分も踊りながら追っかけるとからだに染みとおってくるのだ。

<豊かな・闘う・踊るバングラデシュ>
自然の豊かさ。それと調和する時の農村文化の豊かさ。ちらりとかいまみた闘うバングラデシュ。巨大NGO、PROSHIKAと現政府との関係は最悪の局面を迎えていたときらしく、貧しい土地なし農民へのエンパワーメントによる社会変革を訴えるNGO職員の講義は、深い怒りをたたえる革命家の演説を思わせた。最大の援助供与国日本を含めた、先進諸国の多国籍企業中心の世界経済のしくみがこの国をがんじがらめにしている。だが、バングラデシュの人々は、ただ翻弄されているだけではない。世界遺産のモスク近くの池の住民は、生きたニワトリの餌で巨大ワニを飼い慣らして見世物にしていた。バングラデシュの人々は巨大多国籍企業を飼い慣らそうとしているのかもしれない。…村の女性を強くするための貧困女性への無担保融資で有名なグラミーン銀行が、北欧の多国籍企業と提携して作った携帯電話の会社は、すでにバングラデシュ内の携帯シェアの80%以上を占め、情報不足のために貧困な農民が作物を買いたたかれるのを防ぐのに貢献しているともいう。…巨大企業を飼い慣らしたいのは、日本に住むわれわれとても同じことだ。…今回、いっしょにジャングルのクリスマスをすごした仲間たち。日本中世界中に散らばっても、なにか、世の中をよくするすてきなことをやり、またジャングルの星空を見上げて、バングラデシュのこと、わたしたちのことを語り合いたいな、と思う。

(2003年6月3日)



● 虐殺の後の美しい夕べ ●

カンボジア・ベトナムの旅、2003年2月


<世界遺産のてっぺんで踊る>
アンコールワットの中心部にある高い石塔の上に、急な傾斜で目も眩むような階段をよじ登っていく。三十段くらい登って下を見れば、下腹にひやっとしたものが走り、思わずしがみつきたくなる。ひたすらひとつ上の階段だけを見て両手を使ってよじのぼる。 ふとかなたをみれば、眼下に見下ろす女神のレリーフのある回廊、その向こうの緑の木々、はるか地平線の向こうに広がる青い空。日陰を選んで途中の石の張り出しに寝転がって、こっちも遺跡の一部になる。

その朝習ったばかりのカンボジアの古典舞踊や民族舞踊。だれともなくおさらいをはじめ、基本ポーズやら、簡単なふりに沿ってからだを動かす。「この石、裸足だとちょー気もちいい!」という声に誘われ、みんな裸足になって、踊る。いつのまに、修学旅行らしきカンボジアの高校生たちの好奇の目に囲まれ、女子高生(実は先生だったのだが)らしき女性たちは、見かねて正しい振りを教えてくれる。いつのまに石塔のてっぺんの張り出しの上に人垣ができ、手拍子が入る。歌が入る。手すりなんぞないので、うっかり夢中に踊って、滑り落ちれば、命はない。…でも、そんなことなど気にならない。眼下に大伽藍と遺跡の町の森を見下ろし、カンボジアの若者たちと共にアンコールワットとに溶け込んで踊る女神たちと一体になる。

<虐殺のサバイバー>
今回のゼミ研修旅行の中心は、カンボジア。その案内人に、ポル・ポト時代の虐殺の生き残りであるSさんがついてくれたのは、手配してくれた旅行社の鈴木さんの配慮とはいえ、まったくの大当たり。Sさんは、そのアンコールワットの町生まれ。家族全員は殺されたが、中学生くらいの年齢だった彼だけが虐殺の時代をかろうじて生き延び、難民として日本へ。高校、大学と日本で教育を受けた後、数年前から帰国して、旅行ガイドや通訳などで稼ぎながら、虐殺を繰り返さないために何かをしたいと考える熱血漢。

日本生活が深く長いので、日本語がほぼ完璧。通訳としての経験も広く、深い。その彼からプノンペンで、虐殺の体験談を聞いた。

<しゃれこうべの前の体験談>
カンボジアの首都プノンペン。大量の虐殺死体が発掘された記念公園。その中央部には、ガラス張りの塔が立ち、中には、発掘された頭蓋骨が何層にもわたってずらりと積み上げられている。

ほんの4年ばかりのポル・ポト政権時代に、100万人を越える人が殺されてしまったのはなぜか。ナチスのユダヤ人虐殺や、日本軍のアジアのあちこちでの虐殺や、最近のルワンダの虐殺とは違って、同じカンボジア民族の間で行われたのはなぜか。…

学生諸君からの素朴な質問に、Sさんは、しゃれこうべの塔を見上げながら、「それは、話せば長いことです。こんなところで、長長と話してしまっていいのかどうか、わからないのですが、…」といいながら、語り始めた。

<新住民と旧住民、疑心暗鬼、疑うことを知らぬ若者…>
あくまで、私の体験に基づくことだから、これがすべてと思ってもらっては困る、という慎重な留保つきで語った彼の話を要約すれば、
次のようになる。

ポル・ポト時代の虐殺の特徴は、同じ村の中で、知っているものどうしが殺し合ったこと。それは、具体的なだれがだれを殺せという殺害命令にそったものではなく、絶対の権威と力をもった「組織」の意向を積極的に実践した村人たちによって行われた。Sさんたちカンボジアの人が、最高指導者ポル・ポトの名を知ったのは、ようやくポル・ポト支配が終わってからのことだという。…「組織」は、ゲリラ時代の根拠地になった農村のもとへ、都市や旧政府軍支配地域の住人たちを強制移住させた。強制移住させられたそのような人々は、もとからの村の住民(旧住民)に対して、新住民と呼ばれた。長年の植民地支配や戦争による旧住民の困窮は、すべて都市や旧政府支配農村の住民、すなわち新住民のせいだとされた。…村では、「組織」の指導のもとで、村レベルで全住民を集めた集会が頻繁に開かれた。そこでは、新しい社会をつくるための貢献度について、住民が互いに評価しあうことが求められた。強制移住の過程で健康を壊し、農業体験すら持たない人の多い新住民の中から、うまく働けないものが、敵として糾弾された。自分が敵として糾弾されることを怖れる村人の中から、忠誠を示すためにその敵を撲殺する志願者が現れた。その撲殺者といえども、いつ自分が糾弾されることになるかわからない。…村人の間での疑心暗鬼。ついには新住民のほとんどを撲殺してしまうほどの恐怖政治の進展。それを支えた、「組織」の指導を信じた、疑うことを知らない若者たちで構成された軍隊。…

<ゴミ山の女神と子供たち>
その虐殺現場の直前、やはりSさんの案内で、プノンペンのごみ処理場を訪れた。人口100万人になろうとするこの大都市のごみの埋め立て場。そこには、やはり虐殺の生き残りで難民となっていた女性が、ごみ拾いで暮らすその地域の子供たちのために、医療施設と識字・職業訓練学校を運営している。

日本でもおなじみのごみ収集車に混じって、バスで現場に近づくにつれ、荒涼とした一面のゴミの原が現れる。そして、ビニールのやける煙の臭い。フィリピンのスモーキー・マウンテンと同じ原理で、埋め立てたゴミのメタンガスが自然発火しているのだ。すてきな笑顔の彼女の説明を聞き、教室を見学し、ゴミ山を歩くうちに、のどと鼻がダイオキシンだらけになった気分。…数年前から愛媛大学のグループがダイオキシン調査をやっているがまだ結果はまだ出てないという。…虐殺を生き延びた彼女は、こんなところに一日中いれば、この煙にやられてしまう。他の教師たちも。そして、ごみ拾いで暮らすこの地域の住民たち。このゴミ山で働き、裸で遊びまわる、いまは元気なこの子供たちも。…

<アッタマくること;その1>
フィリピンですでに1980年代から有名だった自然発火のゴミ山、スモーキー・マウンテン。90年代初め、初めてそこを訪れた時、ショックと怒りで唇を震わせながらあふれる落ちてきた涙。口惜しさを噛み締めながら、こんな人をなめたゴミ処理システムをいつかぶっつぶしたい、と思いながら10年近く。スモーキー・マウンテンはマニラ郊外に移転するも、ごみ拾いで生きる住民たちの生活は一向に変わらず、パヤタスでのゴミ山崩落事故。…それでも、「神の子たち」のようなドキュメンタリー映画もでき、ゴミ山地域の問題に取り組む若手研究者も現われ、私などの出る幕ではないか、と思っていた。だが、このプノンペンのざまはなんだ。いつかテレビで見たラテンアメリカのゴミ山のシーンが頭に浮かぶ。第3世界のあちこちでダイオキシンの煙をあげて子供たちをいぶしているゴミ山。…なんで、いつまでも、こういうダイオキシン付けのゴミ処理システムを放置するんだ。ざけんじゃねえ。つまんねえ道路を造る前に、こいつをなんとかしろ。研究者はなにをやっとる? 開発だの福祉だのごたくを並べる前にこいつをどうするか考えろ!…などと、自分に跳ね返ってくる罵詈雑言を学生諸君の前でわめいたプノンペンの夜。

<あったまくること;その2>
製造物責任というが、ダイオキシンなんぞを出すような化学製品をつくるやつに責任を取らせたいね。自然のものをリサイクルして生きてきたこの国の人々。このサイクルを壊すような化学製品。こいつは、地雷といっしょだよ。製造も使用も、国際的に禁止すべきだね。…アンコールワットの町では、地雷除去NGOやリハビリセンターを訪れて、地雷被害者のなんとも重苦しいまなざしに迎えられる。…そのあと訪れた、遺跡の近くの農村では、農民からさらに頭にくる話を聞いた。

いまは乾季で、稲の切り株のみえる田んぼには、冬瓜やらかぼちゃやらが植えてある。牛の糞の有機肥料。聞けば、化学肥料を使ったこともあるが、田んぼで取れる魚が死んで、食料に困るので、化学肥料はやめたという。農薬は?と聞けば、これを使ってる、といって15センチくらいの高さのプラスチック製容器をみせてくれる。ドイツ系の多国籍企業BAYER社製の農薬。タイから輸入されるらしく、タイ語で用法が書いてある。…数年前に、多くの村人がこの農薬を使うようになってから、自分の土地の害虫が増えてきた。ニワトリが死んだこともあるし、使っていて頭がいたくなり、気持ち悪いから使いたくないが、害虫の被害がひどいので使わざるをえない、という。いつのまに8人くらい集まってきた幼児たちのひとりの髪をつまみながら答えてくれる農民の女性に、子供たちへの影響は、ずっと後になって現れるから、気をつけて! と言おうとして言いそびれたのがなんとも心残り。…農薬導入以前と以後では、収量はどうか、という学生の鋭い質問に、農民は、変わらない、と言う。農薬の値段は変わらないが、年に4本は使い、その負担はつらい、と。

<湖のエビのうまいこと!>
遺跡の町は巨大な淡水湖に面している。船を借りて、船の上の小学校や警察署、理髪店からマーケットなど水上村の見学をした我々は水上お土産屋で一服。好物のココヤシジュース。Sさんのリクエストで、湖で取れるエビのから揚げがサービスで登場。そのうまいこと! ついビールを1杯、となり、店の策略にはまる。…だが、その湖に毎年毎年農民たちが使うようになった農薬が流れ込んでいるとすればどうだろう。

多国籍農薬会社は、着実に売り上げを伸ばし、カンボジアの大地と水は汚染され、環境ホルモンが蓄積される。いやいやながら農薬を使う農民の収量は増えず、出費のみがかさんでいく。敵が地雷を使うのでこっちも、という地雷のサイクルと同じだ。ダイオキシン、地雷、農薬。虐殺のあとのカンボジアの自然は、ゆっくりとした虐殺のサイクルに飲み込まれる。人々は、たくみなわなにはめられ、お互いに殺し合うのだ。

<ベトナム先住民族魔法の酒>
カンボジアにはベトナム経由で入った。そのベトナムでは、中部高原地帯の先住民族村に一泊。2年前の訪問時には、輸出用コーヒー増産のための入植にかかわるベトナム系住民と先住民とのトラブルで当局から禁止されたプログラム。その先住民出身の案内人は、地方都市の大学の英語教師。「その問題はもう終わったよ」と口をつぐむ。…彼の案内で村を歩けば、ひとかかえの壷の回りに集まった人々から酒を勧められる。葉っぱやらなにやら不思議なつめものをした壷に差し込んだアシのストロー。壷の口から、水を注ぎ、そのストローでちゅうちゅう吸う。ひとりが飲んで減った分だけ、水を足して、次の人がまた飲む。この調子で、水を注いでも、注いだ水がすべて酒になってしまう魔法の酒壷。人類の夢、ここに極まれり! …この手の酒、もう10年ほど前に、フィリピン、ミンダナオ島の山岳地帯先住民のもとで飲んだことがある。…先住民の踊りを見てそれにまじって踊り、たき火のまわりで飲み、伝統的な長屋に入ってその酒を飲んだ次の朝。ホーチミン市に向かう飛行場の売店でその酒壷を発見。しかも500円くらいという安さ。さっそく購入し、その夜はホーチミンのホテルの部屋で酒盛り。…ペットボトルから大量の水を注ぎながら飲み、やがて味が薄くなったころに、解剖に移る。…いちばん上の葉っぱの下は、白いタピオカイモのほした破片とまじった籾殻。掘っても掘っても籾殻。…むむむ。魔法の種はあの籾殻であったか。敬うべし、先住民の知恵。

<虐殺のベトナム>
いきなりクチのベトナム民族解放戦線のトンネルを見る学生たちは、竹槍がぶすっと刺さって、肉感的にぞっとする罠をしかけたベトナム・ゲリラの残虐さに衝撃を受ける。そこで見せるビデオ映画のアメリカ非難は、北朝鮮のそれとだぶる。…どっちもどっち、の印象から、 植民地支配への人々の深い怒りをしっかり受け止めるためには、やはり、アメリカのハイテク爆弾や、無数の虐殺写真、ダイオキシンの枯葉剤で生まれたホルマリン漬けの胎児が待つ戦争博物館にいかねばならない。…アフガン攻撃で使われたに相違ない、アメリカの巨大爆弾。鉄が飛び散る残虐爆弾。クチのベトナム軍が体験させてくれる1発2ドル実弾射撃の発射音の凄さと反動の衝撃も、そんなハイテク兵器の分厚い鉄板の不気味な手触りの中で、ちゃっちいものに感じられてくる。…いつも冗談ばかりのガイドのQさんが言う。「ベトナムの人、アメリカのしたこと忘れません。爆弾いっぱい落として、たくさん殺して、ダイオキシンいっぱい残した。…でも、いまはビジネス。昔のことは別にして、アメリカとつきあっています。」

<虐殺を越えて有機農業へ>
そのベトナムで最近注目の自給的有機農業の見学ができなかったのは残念。多くのベトナム農業は、化学肥料・農薬ばっちりの近代農業。Sさんは、タイやベトナム産の野菜や果物は農薬が残ってるからと、カンボジアでは敬遠する人が多いと言う。…しかし、先述の遺跡村の農民からおもしろいことを聞いた。最近、外国のNGOが、自然の材料で害虫をとるやり方を広めている、と。自分の所にない植物が必要で、複雑らしいので、自分たちはまだやってないけど。さらに、トマトとか、いっしょに植えれば虫がつかないという昔の技術を自分たちも知ってはいるけど、種が高くって、いまはやってないんだ、とも。

<自然と文化を調和させる開発戦略>
Sさんがカンボジアの将来に見せる情熱は、みていて気持ちいい。ごみ処理や有機農業についても深い理解を示してくれる。「どこの国にいるのかわからないようなすごい設備のリゾート・ホテル」建設ラッシュの遺跡の町の観光開発についても、Sさんは、批判的。…将来は、遺跡の近くの農家にホームステイして、農民のくらしを体験しながら、遺跡見学をやるようなツアーをやりたいのだという。

踊りのレッスンに参加するプログラムをやったのは初めて、というSさん。踊りのパワーに驚嘆していた。…われわれが泊まった遺跡の町のホテルの支配人もやはり日本生活の経験を持つ、虐殺の生き残りのカンボジア難民だった人。ちょうどNHK「アジア交差点」の取材が入り、客の役で出演した私たち(ついでに言えば、撮影は、シンガポールの下請け会社)。…その支配人の夢は、虐殺の生き残りで家族を殺されて、老後の介護をする人のいない老人たちのための介護施設をつくることだという。その夢も、すでに建物の建設に入って、実現の一歩手前だといいう。

<明るいジェノサイド論>
いつか、「明るいジェノサイド論」という本を書きたい、と言ったら、文学批評で売り出し中の友人から「そんなことぜったいいっちゃだめよ」とたしなめられたことがある。ある大学の「ジェノサイド論」講義がものすごく暗い雰囲気でいやになった、という話を聞いたからだ。…虐殺の生き残りの人々と会って、改めて思う。明るいジェノサイド論を書きたい、と。

元高校で、あの時代に拷問と虐殺の収容所だった博物館に並べられた、虐殺される直前の被収容者たちの大量の顔写真。収容所のファイルから発見されたものだという。そのなんともいえぬ恐怖というか不条理を見つめる目に引き込まれ、じっくりと全部見た。しばらく疲れで頭がくらくらし、カンボジア料理の傑作カレー鍋を食うまで回復しなかった。…いま、ぼくはその殺された人々の視線を感じる。こちらに向けて並べられたしゃれこうべの目。ぼくはひとりではない。たくさんの死者に見守られているからこそ、ほかの生き残りたちを励まし、歓びで満たす勇気を与えられるのだ。カンボジアの虐殺の生き残りたちがもつある種の迫力、明るさ。自分の中にもあるかもしれない恐ろしく深い人間の暗闇をくぐりぬけてきたその明るさに学ばずして、ジェノサイドからなにを学ぶというのだろう?

<かけがえのなく美しいもの>
今回の旅行に参加した学生諸君の成長ぶりも目覚ましかった。だんだん鋭くなる質問。コミュニケーション能力。ほぼ毎晩の集まり(感動をわかちあう=シェアするので、シェアリングと称している)の発言のおもしろいこと。…スタディ・ツアーのことをフィリピンのNGOではExposure、さらされること、と呼ぶ。どんなにすさまじい虐殺のあとでも、人が生き残っているかぎり、希望はある。おそろしい歴史の跡、人々の声、そして美しい自然にさらされて、人は育まれ、生きるよろこびを歌う力を身につけていくのだろう。アフガニスタンで人々が殺され、パレスチナで虐殺が続き、イラクでさらに多くのひとが殺されようとする時。それでも希望を持ちつづけるためには、殺された無数の人々の力を借りなければならない。

(2003年3月4日)