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<阿波踊りパワー>
満場の喝采を受けながら、O君とともに、舞台に上がる。「We Japanese are 27 people. But we have so many casualties. Almost all students are in beds. Somos 27 estudiantes Japoneses. Pero todos son en la camas. Porque,es mucho calor, …hay diarrea, fiebre, …etc.(日本からの27人は多くの犠牲者を出して、ほとんどがベッドで臥せっております。暑さのせいで、下痢になり、熱を出し・・・。)」英語スペイン語まじりで、ここまで来てお腹を押さえたり、頭に手をやったりしてみせると、大爆笑。1週間くらい先に来たヨーロッパ人たちにとっても事情は同じだったらしい。「But our struggle will continue. We will be never defeated. Lutta e continua. Avanti popolo!(しかし、われらの闘いは続く。決して負けはしない。闘いは続く。人民よ、進め!)」最後はイタリア語のどっかで聞いたセリフでアジれば、満場の大喝采。「We will perform a traditional Japanese folk dance. Bailamos un baile traditional folklorico. Es baile para una fiesta en Agosto. Es mucho calor,pero bailamos como Samba en carnaval de Brazil. (いまから、日本の伝統的民族舞踊を踊ります。それは8月の祭りのための踊りです。8月はとても暑いのですが、ブラジルのカーニバルの時のサンバのように踊るのです。)」よくもまあ口からでまかせにしゃべるものよ、とわれながらあきれつつバイリンガル口上を述べれば、大拍手。会場からさらに2人の日本の男子学生が壇上に駆け上がってくる。静まってから、音楽なしで、いきなり「ちゃんちゃらん、ちゃんちゃらん、あ、えらやっちゃ、えらやっちゃ、よいよいよいよい!」と叫びながら、踊る。私の阿波踊りは、5月の体育祭イベント出場のために保存会の人から特訓を受けた正統派。Oは地元の元気なくずし踊り。あとのふたりはやけくそでわめきながらあとに続く。おーっ、というどよめきとともに拍手が鳴り止まぬ。壇上を一周したところでマイクを取って、感謝のことばを述べてさらに大喝采を受けながら舞台を下りた。

<労働キャンプのヒーロー!>
「先生、ぼくら、もう、ヒーローっすよ!」といっしょに踊ったGが言う。私はその後すぐに寝たのだが、Gたちは酒を飲みながら大いに盛り上がっていたらしい。実際、多くの人から、君たちの出し物が一番!、と真顔で言われ、農場のヨーロッパ人のほとんどすべてからにこやかな挨拶を受けるようになった。最後の朝の集会で、スピーチを求められ、これは英語でやって、スペイン語通訳がついたが、最後に参加の各国語でありがとう!と絶叫。満場再び嵐のような大喝采。イタリア代表からは、WTO反対のイタリア語の本が贈呈され、ベトナム戦争にも解放戦線側に加わって参戦したという名物じいさんと抱き合う。・・・19世紀のヨーロッパの革命家たちがやたらと外国語をやりたがった気持ちがよくわかった。マイナー言語の人々が自分の言語を少しでもしゃべる人に対する態度はまったく違う。毎夜のように売店のそば、広場のあちこちではいくつかの輪ができて、歌や酒や話の花が咲いたが、自然と同じ言語をしゃべる人々で集まりがちになった。・・・とはいえ、わが日本の若者たちはすばらしかった。朝から晩まで歌声を絶やさず、有名になったMや、アイルランドやイタリア、スペインの若者たちと毎晩へべれけに飲んで交流していたGやDやOたち。農場最後の夜は、農場のキューバ人と日本人との交流の「日本の夜」のはずだったが、かなりのヨーロッパ人もハバナの高級レストランの食事をキャンセルして参加。阿波踊り、歌サブゼミの合唱、Mの歌やDの居合い、日本のお菓子やインスタント味噌汁を味わった。

<二つの世界>
農場のキューバ人がビールを飲む姿をみたことはほとんどない。ペソで給料をもらう彼・彼女らにとって、ドルでしか買えないビールは日本の感覚で言えば、1本1万円。なんでも平均給与はドル換算で20ドルくらいとか。半ドルくらいのペットボトル入りの水をがぶ飲みし、ビールの缶を次々と開けて乾杯し、1ドルちょっとのラム酒入りカクテルを飲み干す外国人たち。・・・時々、彼等の険しい視線を感じたように思ったのは私だけだっただろうか。
日本の夜は、いつものキューバの催しのように最後はサルサの乱舞。踊り疲れて、そっと踊りの輪を抜け出しベッドに向かう途中、ギターの音と歌声を耳にした。薄暗い月明かりの中で農場のキューバ人たちが椅子を並べ、輪になって座っている。まあすわれ、といわれ、ギターの音色の素晴らしさと甘い歌ごえの響きに吸い込まれるように、思わず腰をおろしてしまう。見れば、学生たちがさんざんお世話になった農場の医者と看護婦がいる。食堂やお掃除のおばさんがいる。とってもいい顔の老夫婦も。医者はひとりのおばあさんの血圧をはかっている。もっとも、2ドルくらいで買えるいちばん安物のラム酒の瓶をでんと置いて、わたしや、ギターの若者にすすめ、自分も飲みながらの診察。夜のそよ風が気持ちいい。こんなにくつろいだキューバ人の顔を見るのは初めてかも。

<君を愛することを学ぼう・・>
ギターの若者は、即興で歌をつくり、人々は、聞き耳をたてながら、ときどき大笑い。活き活きとした民衆の音楽の時。・・・そこにもう1本のギターを手にした若者も現われ、かけあいでギターを弾きながら歌い始める。特徴的なイントロ。冒頭のゲバラを称える歌だ。  農場を後にした我々は、首都ハバナの旧市街にある築80年の元大統領官邸のホテルに滞在して1週間ほど自由観光。1ドルもらって1万円、1ドルのものを買うのに1万円、ドルでしか買えない外国製品のあふれるめくるめきドル世界に片足を踏み入れた都会人たちのあさましさに、さんざんつきあうはめになる。
汗を流してまじめに働き、飯を食い、すこしばかりの酒と音楽、仲間と座ってすごすそよ風の月夜。これが革命だとすれば、これ以上何を求めることがあろう。これまで2度ハバナを訪れ、だんだん人々が金の亡者になっていくカストロの社会主義キューバの行く末に危うさを感じていた。だが、今回初めて農村暮らしを体験してみてわかったことは、意外に広いこの国の田舎の住民たちは、決してこの革命政権を手放さないだろう、ということ。我々にとってさえも、そうだったが、医療はタダ。教育はタダ。ビールはなくても、ラム酒と音楽と踊りがある。もちろん豆や芋や、ミルクやコーヒー、さしあたりお腹を満たせるだけの食物も。…

<アメリカに援助するキューバ!>
キューバ政府が当初はラテンアメリカ諸国のために、いまでは、アフリカ諸国さらには、驚いたことにアメリカ合衆国の黒人やヒスパニック貧民のために、医者となる人材を留学生として受け入れ、無償で養成しよう、というラテンアメリカ医療大学。見学にいき、もと海軍大学だったという小奇麗な校舎のパネル展示を見ながら、援助実績の話などを聞いた。どうしてアメリカなんかに援助するの?という質問に、案内の渉外部長のじいさんは大喜び。カストロ訪米時に貧民からの直訴があって始まった、と得意げに。救急車の中で瀕死の病人にどんな保険に入っているかを言わせ、支払い可能性に応じて担ぎ込む病院を決めるというアメリカ医療の恐ろしさを知るものにとっては、胸のすくような話。キューバがアメリカに援助しているなんて!

<ペルー先住民との再会>
でも、せっかく援助して医者にしてあげたのに、貧しい自国の人々のために働かず、お金を稼げる先進国に出稼ぎにいっちゃう、なんてことはないのかしら、とやや意地悪な質問をした。そんなことがないように、しっかり人選をしている、というあまり説得力のない答え。・・・が、あとでペルー人の留学生たちと会って、思わず息を呑んだ。全員があのずんぐりとした独特の先住民の顔。しかも男性1人にあとの4人は女性。数年前にゼミで訪れて合同セミナーをやった南部の都市アレキパ出身の女性もいる。その話をすれば、涙を流さんばかりに喜ぶ彼女。抱き合いながらペルー社会の先住民差別の凄まじさを思い、この人選のすごさに打たれた。・・・大学を出ても、ほとんど就職できない。とくに社会学専攻はそう。日本はペルーに莫大な援助をしているというが、貧困も失業も一向に改善しない。日本企業のための援助ではないのか。そんな鋭い質問を浴びせて、ゼミ学生たちを狼狽させたアレキパ大学の学生たち。だが、その中に、こんな先住民系の顔はなかった。インカ帝国の滅亡から最近の軍事政権の虐殺、そして都市スラムで貧困に沈むまでのペルー先住民たちの苦難の歴史。大学進学はいまだにありえないほどの贅沢だったのだ。「フィデル(カストロ)とキューバ政府にはすごく感謝している。早く医者になってペルーに帰って働きたい!」という素朴な瞳の先住民の女子学生たち。その顔があの特徴的なふわっとスカートに帽子の、クスコやプーノの市場で働くおばさんたちの横顔とだぶった時、思わず目が涙でいっぱいになってしまった。

<ツアー・ガイドの若者たち>
観光業でしっかりドルを稼ぐことは、革命を守るために戦略的に重要な任務。しかも、単に外貨の荒稼ぎをやればいいのではなく、外国人にキューバ革命を理解してもらい、キューバを支持し、さらに観光客の輪を広げるような国際的評判を確保しなければならぬ。もちろん、観光客をキューバ内の犯罪者から守り、同時にキューバ市民を犯罪的な観光客から守るという任務も。・・・農場で我々の担当になった2人のキューバ人ガイドに本音を聞けば、そのように自分たちの使命を語ったかも知れぬ。
20代後半で結婚したてのすてきな女性Sさん、そして35歳、ハバナ大学大学院でコミュニティ福祉の博士論文を準備しながら働いている子持ち黒人男性のI氏。どちらもきれいな英語をしゃべり、時間をきっちり守り、正確に日程をこなす。学生からのどんな質問も歓迎しつつ、的確に答えた。外国人からチップをもらったらどうする?という質問に、自分のものにしてはいけないというきまりはないが、みんな自発的に国に寄付するようにしている。多く寄付するものは高い評価を受けるからだ、という答え。
ほう、と、半信半疑の我々はついにチップを渡すことなく別れてしまったが、あの2人が、普通のキューバ人からみれば、気が狂いそうになるほどのドルだけで買えるぜいたく品消費の世界と接しながら、あくまでさわやかに自分たちの仕事をこなしていたのは、何よりも、自分達の仕事に対する使命感と誇りがあったからに違いない。すでに40代に入り、大学生の息子をもち、離婚したばかりという日本語通訳のA氏からは、若いSやIのような気負いは感じられないが、それでも、キューバと自分の仕事を愛し、われわれとの人間としての関係を大事にしたいという余裕のようなものが漂ってきた。「ほんとうにすばらしい学生たちですね。先生がうらやましい。」という彼は、まちがいなく、仕事を楽しんでいたと思う。

<犯罪都市ハバナ?>
今年の3月に卒業したO君は、プロのカメラマン。ハバナでは、何人かの男子学生たちと夜な夜なでかけては、ナイト・クラブのミュージシャンの写真。昼は昼で、ハバナの旧市街の写真をとった。その彼が、公衆電話をかけようと仕事用バッグを地面に置いたとたんに、高級カメラ、大量のフィルム、現金の入ったそれをかっぱらわれてしまった。旅行保険にはもちろん加入していたので、慌てず騒がず、警察に届け出た。だが、警官たちは、いろいろたらいまわしのうえ、ぬらりくらりとさぼって、盗難証明書をくれようとしない。らちの明かない半日に怒り心頭の彼が、「カメラない、仕事できない!お金もない!」と大声をあげるようになったところで、ようやく別の人が出てきて、証明書を出すには、英語とスペイン語のできる人だ、誰かいるか、といって、ホテルまで連れてきてくれたという。…そんなわけで、先生悪いけど降りてきて、と昼寝中のところに電話。寝ぼけまなこでおりていけば、ホテルの支配人と警官が待っている。在ハバナ旅行代理店の日本人にも連絡したけど、とりあえず、O君と警察にいってくれ、という。

<2つの顔の警官>
警察の車に乗り込んで、スペイン時代の要塞の外観を持つ警察署で待つこと数時間。・・・担当警官はテレビをつけて、くたびれたおもしろくなさそうな顔で、しかし慇懃無礼で権力的な態度でふんぞり返って、ぼーっとしている。O君は、前もこういう感じだった。この調子で勤務時間が終わるのを待っていて、結局なにもやってくれないのでは、と不安顔。安全な観光地キューバを売り出すために、犯罪を認めたくないんじゃないかしら。そうね、犯罪減少のノルマがあったりしてね。死んだ官僚っていうか、こういうおっさんばかりだと、ほんと、やな国だね。・・・などといううちに、夕方になって、旅行代理店からベテラン日本人のKさんがやはり日本人でメキシコから転勤してきた新入女性社員を引き連れて到着。日本大使館からも、早く証明を出すように電話を入れておいてもらいました、と。なるほど、すぐに別室へ通されて、今度はちょっと愛想がよすぎるほど元気のいい、仕事バリバリの若手警官の前に通され、あっという間に書類ができてしまう。ベテランKさんは、証明書の通訳をやった新入女性社員のプライベートに立ち入って楽しく仕事をしようとするこの若い警官から彼女をガードするのに気をもむほど。・・・
なるほど他のラテンアメリカ諸国と比べて、圧倒的に安全で凶悪犯のいない社会主義国キューバ。そうではあっても、おしよせるドル世界の誘惑にさらされたハバナの人々と、ドルの力でいい気になった外国人観光客たちを前にして、われわれのツアーガイドのように、使命感をもって、楽しく仕事をする警官を配置するのはむづかしいのだろう。ハバナ初日の夜には、深夜、ホテルの前の新市街側の路上で、数人の暴徒と警官隊がにらみあっていたという。・・・

<サルサ・レッスン!>
ハバナ新市街にあるその劇場へは、タクシーで。ダンス教師の名前の看板がでかでかとかかっている。新市街といっても、スペイン時代の旧市街ではなく、革命前の1950年代までの安っぽい「新」市街。風格のないだけむしろ余計にうらぶれて見える。コンクリート造りの高い塔をもつ教会の近くだ。日本で旅行をコーディネートしてもらった旅行社と現地代理店との行き違いで、芸術大学でのレッスンのはずが、新市街での1人15ドルの追加料金レッスンになり、参加者は、わたしとサルサ隊長M君、そして見学の卒業生Yさんのみ。
舞台下手の楽屋で持参の全身タイツとTシャツに着替え、バレエシューズをはいて、舞台へ。ねずみ色の舞台床は、日本でも舞台の上によく敷いてあるリノリウムのように見えるが、よく見れば、ベニヤ板にペンキを塗っただけ。数人の女性ダンサーが床に寝て柔軟をしている。他流試合の気合満々で、こっちも寝っ転がって柔軟性をアピール。…アフリカ系のひきしまった体の男性ダンサー、ナルシソ・メディナ先生は裸足。6人くらいの女性ダンサーもほとんど裸足。六本木のサルサクラブで鍛えたM君は、サルサ用?靴。思わず靴を脱ぎかけた私に、なれないのに裸足だと怪我しますよ、というM君の忠告と、ベニヤの四隅の釘の頭が目に痛く、バレエシューズのままで。賢明な選択だった。そのあと2時間近く、休みなく足を動かしっぱなし。数年ぶりのふくらはぎ筋肉痛を日本に持ちかえることになったが、足の裏皮だけは無傷だったのだから。
なんともゴージャスなレッスン。女性ダンサーたちはみなプロの踊り手。M君と私それぞれに三人がかりでつきっきり。最初のジャズダンスばりのソロの動きから、後半のペア・ダンスまで。激しいリズムの音楽と一体となってはじける筋肉。ウノ、ドス、トレス、uno、dos、tres、の掛け声に合わせて、最後まで体が動いたのは、愛の奇跡。どっと溢れる汗でタイツもTシャツもぐっしょり。先生の動きを見逃すまいとかけたままの眼鏡まで汗でにじむ。…踊りの後の燃える体の心地好さ。そんな者たちだけで交わせる爽快な微笑み。ドルをめぐる欲望と屈辱が渦巻くハバナで、あの農場の素朴な人々と流した汗を思い出す。・・・と見れば、彼女たちの手に、半分青いオレンジが光っていた。あの農場からの配給オレンジかしら。お金やものをねだるでもなく、屈託なく笑い、このあとモダンバレエのリハーサルをやる、という彼女たちのアーティストとして誇りのすがすがしさ。

<あなどれない文化の奥行き>
ハバナの宿の近くに美術館がある。軽く覘くつもりでいって、そこにあふれる500年にわたるキューバ人たちの強烈な個性とひたむきさ、生きる悦びと怒りと叫びに、魂を心地よくかきむしられる思い。山から下りて数日間風呂に入ってないふけだらけの頭をごしごしやるときのような。
宿の近くに19世紀ヨーロッパ調の堂々たる劇場もあった。バレエはかかってなかったが、オペラのチケットを入手。ほんの10ドルほどで、生オーケストラボックスすぐ上の特等席。1930年代のキューバ人作曲家のオペラ。キューバ様式を確立した歴史的なオペラだそうで、前に並んでいたイギリス人観光客たちは最初の場だけでぞろぞろと退散。おかげでこっちは頭にじゃまされず、コンガのような打楽器を入れたオーケストラのなかばラテンな不思議な音楽と、展開のテンポの速い不思議な悲劇を十分に堪能。20世紀はじめの最初の革命でいちおう平等になったはずの独立キューバのもとで残る、白人による黒人や混血人への差別がコミカルな悲恋物語に仕上げられている。ガラガラの客席には、イブニングドレスで正装の家族などもいて、ドルでいい席を買い叩いたかのような観光客然としたきたないかっこの自分たちが少し恥ずかしくなる。

<エコール・ド・バレエ>
宿のすぐ前は、国立バレエ学校。けちなビルの3階分をぶち抜きにしたような巨大な玄関ホールに、シンデレラが降りてくるような大理石造りの正面階段がついている。いかにもバレリーナという髪型の少女たちがときおりたむろする。キューバ滞在最後の日、留学情報を求めて、中に入ってみた。私のバレエの先生からキューバ舞踊のDVDなど買ってきて、と頼まれていたこともある。宮殿のような造りの2階もやはりおどろくほど高い天井。ヨーロッパのテレビ局が取材に来ていて、忙しいので申し訳ない、といいながら渉外担当のおじさんがでてきて、ここはジュニア向けの学校で、シニア向けとプロフェッショナルの学校の連絡先をくれる。こちらはあちこちの部屋からもれるレッスンらしき音楽を聞くだけで満足。この宮殿のような国立ジュニア・バレエ学校をもつこの国の文化の奥深さに、あらためて圧倒される。砂糖きびの島、くらいにキューバのことを考えていた私が浅はかだった。ぼくはこの国を完全になめてしまっていた。

<カリブ海・・・>
国際連帯キャンプのある農場の最大の難点は、海が遠いことだ。いつか、海の側の農場で働きながらゆっくり過ごして見たいものだ。農場滞在中に、ほんの数ドルのオプショナル・ツアーで、有名なバラデロ海岸にいった。貸し切りのおんぼろバスは、内部のイタリア語の注意書きや停車ボタンから判断して、イタリア直輸入の中古路線バス。もちろん冷房はなく、窓を開けて吹きさらし片道三時間、プラスチックの狭くて堅い座席のおそるべき旅。…農場はハバナの西側。バラデロはハバナ東隣の県の海岸に延々と広がる白砂のビーチ。ハバナ郊外の巨大なベッドタウンを過ぎるころから、石油の匂いがあたりに立ち込め、ときに重油を燃やすようないやな匂い。…海岸ぞいに石油を掘るポンプやら、巨大な地下タンクのような施設が見える。山の彼方には、大きなやぐらがあって、その上で、天然ガスが燃えている。中東石油地帯を思わせる光景。かつて、外資導入で石油開発をしているという話を聞いたが、なるほど、ここまで進んでいるというわけだ。
道は革命前に造られたハイウェイ。いつ来るかわからぬバスを待つバス停の人々。路上につったって何やら高く差し上げている自家製チーズ売り。貸し切りバスは、相乗りを求めて手を上げる人々をもひたすら無視してびゅんびゅんと飛ばす。
こんな過酷な旅でも、若者は海をめざし、海岸に着くや、叫びをあげてじゃぶじゃぶとカリブ海に飛び込み、あおむけになって太陽をだきとめる。温泉のような暖かい海。このバラデロ行きのあとで、下痢と高熱で倒れる犠牲者が続出したのは、暖かい海がばい菌を培養していたからではないか。ハバナから、バラデロよりも近くのビーチに泳ぎに行って、波打ち際で大きなうんこがゴロゴロしているのを見て、ぼくはその仮説にますます傾いた。

<海の向こう・・・>
この海の向こうにはアメリカ。映画「いちごとチョコレート」の若者は、キューバとキューバの歴史と文化とを深く愛しながらも、自分の芸術を世に問う自由を与えぬ政治に絶望してキューバを後にした。そんな政府批判のキューバ映画を上映させ、さらにテレビ放映までしてキューバじゅうで大評判にしたキューバ政府の自信には、あっぱれというほかない。
おしよせる観光客と外国商品、情報の洪水。もはや北朝鮮なみの鎖国政策はとうていとりようがない。キューバ政府とカストロたちは、海の向こうのアメリカをにらみながら、みじめな姿をさらし、吠えつづけることを選んだ。諸君は、革命を選ぶか。アメリカを選ぶか。

<君を愛することを学ぼう・・・>
アメリカに歯向かったキューバの人々のみじめなありさまを見るとき、けなげな反乱者たちを愛さずにはいられない。この国を捨てずに、あえて残って、あの映画にも出てくる、人を見ればスパイかと疑うわからずやの革命屋とここで生きることを選んだキューバの文化人たちの深い自信に敬服する。・・・どうやら私は、君たちを愛することを学び始めたようだ。アメリカを選んだ日本に住むおれたちに、えらそうなことを言う資格はないのだが。

(2003年11月26日)


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