● 蝶の舞う谷間、水浴びする少女 ●

2004年2月、ラオスの旅


<村の水場へ…>
200メートル歩いたところにあるという水場に行ってみることにした。すぐに村の家並みを抜けて、林の中の山道を歩き、やがて雨季に雨水で削られたらしい赤茶けた土が剥き出しになった溝に注意をとられると、突然のように視界が開けて、底に涼しげな水をたたえた谷間が現れる。裸でひとり水浴びする少女。…平和な少女のひとときを壊したくなくて、思わず立ち止まる。が、かまわず降りて行く村人にしたがって水辺へ。水辺には明るい緑の文様を輝かせた黒いアゲハチョウが、群れをなして舞い、かわるがわる降り立って水と遊ぶ。その浅い水辺には黒い小さなおたまじゃくしが並んでいる。

<合成洗剤の恐怖>
日本だと小学校に上がるか上がらないかぐらいな年頃のその少女は、いつのまに腰布のようなものを巻いて、洗濯を始めた。白い泡を立てながらごしごしとこする。…ダムで水をせきとめるようになって、この川の水位が下がり、乾季は、水が少なくて困る。早く汲みにいかないと、水がどろどろになってしまう、という村人の話を思い出した。水浴びができるほどのちょっとした池のようになった水場。それはすぐ下流では、ほんの2メートルほどの幅になる小川をせきとめて作ったものにすぎない。村人は、ここで、水浴びし、洗濯し、口をすすぎ、飲み水、料理の水を汲むのだ。…「かなりショックなんだけど。」同行の学生たちには、水道のない村で、ちょっと歩いて水汲みにいくにはあまりに離れて険しい水場の状況は想像を絶するものであったらしい。フィリピンやベトナム山岳部でそんな村を見慣れた私には、水場のある谷間から這い上がったところの山道に落ちていたぼろぼろの色褪せたビニール袋がショックだった。それは、カラフルに印刷されていた洗濯用の合成洗剤らしき袋で、UNILEVERの社名が見える。

<戦争を逃れて移転した村>
アフリカの植民地経営とともに数百年の歴史をもつヨーロッパの多国籍企業UNILEVER社。ラオスの山奥にある村の水源は、そんな多国籍企業の商品を使う可憐な少女の健気な洗濯仕事で汚されていくのだ。…
 2月下旬から3月初めにかけて10日間ほどのゼミ研修旅行のテーマはラオスの開発と文化。メコン河流域にあって海のない国のダム建設の影響を見聞するのはひとつの目玉。ダムで移転した村ということで訪れた50世帯からなる街道ぞいのその村は、実は、ベトナム戦争時の米軍の爆撃や地上戦を逃れてきたものだった。もとの村の地域から別の場所へ移転し、戦争が終ってからこの地に移住してきたという。とはいえ、ダム建設のために暮らしが影響を受けていることは間違いない。そのダムは、隣国タイに電力を売って外貨を稼ぎ出してきた巨大ダムに、さらに水を送るために作られたものだという。

<ダムの功罪>
村長。唯一の政党である人民革命党の代表者。普通の村人の服装をした村の警察役の2人。そして奉仕活動として無給で働く若い女性の小学校教師。こんな顔ぶれの村の知識人たちが、通訳を通した学生たちの質問に答える。
…ダムができてよかったことは?―ダムの湖で魚が取れるようになった。村に電気がきた。
…ダムができて困ったことは?―焼畑にできる土地が少なくなった。乾季には水が少なくなって水汲みがたいへんだ。
…結局、ダムができてよかったか、悪かったか?―よかった。魚が取れて、電気がきた。でも、水が年々減っているのでこれからが心配だ。朝から晩まで子供と女が水汲みをする。特に乾季の水汲みはたいへんだ、みんなが汲むので水も汚れてしまう。水道を作ってくれといったが、お金がなくてダメと言われた。隣の村は小川から水道をひいたが、乾季には小川の水が減って使えなくなった。食べるための米を作る焼畑の土地が少ないのも困る。米と水が少ないときは首都ビエンチャンに出稼ぎに行く。女は繊維工場、男は土木作業員。将来が不安だ。
…結局、だめっつうことじゃん、とだれかがつぶやく。

<ラオス人民革命党>
この国のあちこちで見るのは、国旗とならんで、赤い旗の真中に大きな黄色い鎌とハンマーを組み合わせて染め抜いた旧ソ連のような旗。公務員、大学の先生、要職にある人はみんな党員なのだそうだ。いや、党員にならないと要職につけないという。村長さんも党員だろうが、村長と並んで高床式の板の間に座った村の党の代表は、村長と同格あるいはそれ以上の頻度でわれわれの質問に積極的に答える。「この地域でも戦争の影響はあったのか?」という質問に、村の党の代表は答えた。「もちろん、ラオス全土がアメリカの爆撃を受けたんだ。サッダム・フセインを見ればわかるように、アメリカに逆らうと、とことんやられるんだ。」といってニヤリ。
 フランスの植民地支配から、ホーチミンたちのベトナムといっしょになってアメリカの介入を跳ね返し、ついに独立を遂げたこの党の大衆的な権威。しかし、そんな歴史的な信頼感も、ダム建設を伴う開発政策によって危うい淵にさしかかってはいないだろうか。…ダム建設の影響について、政府から説明はなかったのか?という学生の質問に、村の党代表と村長はいっしょになって答えた。―そんな話はまったく聞いてない、と。

<村祭り>
「祭りはあるのか?」という私の質問に、村長は答えた。「移転してからずっとお金と余裕がなく、この村ではずっと昔はやっていた祭りもやってこなかった。来年くらいからはやりたい。」だが、ますます水問題が深刻になるというこの山奥の村で、果たして来年になってそんな余裕が生まれるのだろうか。
 ビエンチャンからバスで2時間ほどの近郊の村で1泊のホームステイ体験をした時、村は祭の最中だった。中学校の校庭に大きなステージを組み立てて、大音量のスピーカーで少数民族の踊りからカラオケ芸能大会まで。近在のあちこちの村からの物産展のような出店も並ぶ。我々の泊まった次の日には、ラオスの人気歌手をそろえた大歌謡ショーの企画も。

<豊かな近郊農村>
…カウベルのカランコロンという音で目覚める。ピンクの蚊帳をつったキングサイズ・ダブルベッドの隣ではK君の寝息。K君と2人でホームステイすべく割り当てられた家の2階にある八畳ほどの板の間の寝室。大きな電気扇風機を蹴飛ばさないように蚊帳から這い出て、観音開きの窓を開ければ、はるか地平線まで広がる稲刈りあとのある乾いた水田。牛の群れが放牧されて、地面をつっついている。家の周りにはちょっとした果樹園があって、マンゴー、パパイヤ、バナナなどの熱帯果物と野菜が植えられている。放し飼いになった鶏とアヒル。囲いの中に豚1匹。
 木造2階建ての家は、まだ建築中で、天井がなく、我々のベッドの上には、雨漏りよけに、工事現場で使う青いビニールシートがぶらさがっている。フランスの植民地様式の影響だろうか。2階には手すりのついたりっぱなバルコニーがあるし、やたらと天井が高い。もちろん最初に紹介した戦争で移転した山奥の村の住居とは比較にならない大きさ。街道のT字路の交差点に面しているその家は、農業の傍ら、雑貨屋も営む。店の続きの1階奥にはりっぱな応接セット。テレビはタイの番組だけでなく、もてなしでVCDのカラオケをかけてくれる。冷蔵庫からは冷えたパパイヤ、そしてミネラルウォーターも出してくれる。

<勤勉な父さん>
ビエンチャンの大学で建築を学ぶ息子が家の周りの畑と田んぼを案内し、やはり首都で経営学を学ぶ娘が、父さんが早朝から炭焼きをやっている開墾地へ案内してくれた。家から1、2キロ離れた道路沿いにその開拓地があって、なるほど、ジャングルのあとらしき焼け焦げた切り株が並ぶ。籾殻を切り株の周りに積み上げて焼くと、樹が死に絶えて新しい芽が出ないのだという。開拓地の一番奥に、炭焼きの窯があって、煙を立ち昇らせている。すでに3日間こうやって焼いているという。あと数日で完成。そうすれば、この炭は、自分のお店で売られることになる。その隣にはこの55歳の父さんが自力で、見よう見真似で作ったと言う新しい炭焼き窯がある。2階建ての家ほどの高さになった骨組だけの鉄筋コンクリートの塔もある。これも父さんが自力で作り、ゆくゆくは給水塔にして、この地を果樹園にするのだという。初めは、娘さんの英語の通訳で、やがて、フランス語で直接、彼のビジョンを語ってくれた。…自分には大学に通う子供たちがいるので、まだまだ働いて、稼がないと。でも、みてくれ、3ヶ月で森をここまで切り開いてきたんだ!

<黒い瞳の母さん>
思慮深げな黒い瞳の美しい母さんは、50歳。結婚した娘と3ヶ月の赤ん坊、それに婿殿。そして、103歳だというすてきな笑顔のおばあさんも。そんな女衆が店の切り盛りをする。店にはミシンも置いてあって、仕立てもやる。
…私が子供だった頃、1960年代の広島の田舎を思わせるような妙な活気のある村だ。
 ここの村長は、なにやら商売をやってしっかり稼いでいる人だそうで、村の広場に面して1階には集会所に使える大広間のある2階建ての大きな家に住む。我々はそこで集まったホームステイ受け入れの村人から村の精霊へのあいさつの儀式をやってもらい、歓迎の食事をいただいた。お供えの花飾りを中心として、我々客人の腕は、白い糸でしっかりと結ばれる。呪文を唱えて、糸を切り、手首に村人が結んでくれた糸のリングをつけたまま、ラオラーオという米から作られたラオスの焼酎を飲み、お供えのココナッツで炊いたお米をバナナの葉でくるんだお菓子などを食べる。手首の白い糸の腕輪には、精霊が宿って、村に滞在中の我々を守ってくれるという。縛られるのが嫌いな私は村を離れると同時に細い糸にほぐしてとってしまったが、帰国の成田空港でふとみれば、何人かの学生の手首には煮しめたようになった糸が。…冷蔵庫、VCDのカラオケ音楽を流しっぱなしのテレビ、扇風機。村長の携帯電話。

<ソ連留学の村長>
歓迎の宴では、隣に、痩せてひょろ長く、知り合いのジャーナリストそっくりの村長。1980年代末に、一年ほどモスクワに留学してロシア語の勉強をし、帰国後は村の学校でロシア語を教えたこともあるという。…いやぼくも、1991年夏、ゴルバチョフが一時失脚したクーデターのときにソ連にいたんですよ。2ヶ月ほど。食べ物を探すのがたいへんで。…片言の英語に怪しいロシア語で返事をすれば、村長は大喜び。ロシア話で盛り上がる。奨学金が少なく、飯もまずくて、ほんとうに苦労したという。ラオス語のあいさつでいっぱいだった頭がほぐれて、こっちも暮らしの中で覚えたロシア語を思い出してくる。…村長宅前の広場には、コンクリート床のバレーボールコートや、竹のボールをバレーの要領で蹴りあうセパタクローの少し小さめのコートなどがある。夕方、広場は、若者や子供たちでにぎわった。バレーコートは私企業のようになっているそうで、コート整備に投資したというおじさんが、得点表の看板をめくりながら、裸足でプレーする屈強な村の若者たちからお金を集めている。社会主義の建前をとる村の、とても身近なはずの人間関係のなかで、お金のやりとりを見るのは新鮮な驚き。…同行の女子学生たちが若者に混じってバレーボールでなかなかのプレーを見せる。男子学生たちは、サッカーの要領でセパタクローにトライ。こっちは、村長さんに呼ばれて、5、6人の村のおじさんたちと、その横の屋台のような小屋の前でビールを飲む。軒先で焼かれるいい匂いの焼肉をつまむ。ひとつしかないジョッキに、ラオスのビール、ビアラーオを注ぐと、まず進める側の村長が飲んで安全と味を確かめる。そのジョッキにさらにビールを注いで、ぐいっとやっては、次の人に回していくのだ。

<村祭りの警備>
とはいえ、村長にはしょっちゅう携帯で電話がかかる。通りかかる人がやってきて挨拶。バイクにのって銃をもった目つきの鋭い村祭りの警備の男がくる。なにやら真剣な顔で指示をする村長。そういえば、夜中にホームステイの人といっしょに村祭りをのぞきにいくと、入り口で、男女分かれてのセキュリティ・チェックがあり、胴体と腰を触られた。えらいさんがくる集まりでは恒例になっている、とラオス人ガイド。事前にインターネットで危険情報をチェックした学生は、北部の世界文化遺産の町へ陸路で行く場合は、少数民族反政府グループのテロの可能性あり要注意、になっていましたよ、と。…私たちのホームステイを引き受けてくれた家は、村の中でも豊かなほうだろう。森を開拓した親父さん、バレーコートに投資したおじさん、村長。自力で工夫し、努力する精神を持って、電気製品を買い、大きな家を建てて「豊か」になりつつある人々が、人民革命党のこの国の開発政策を支えている。しかしその開発が、ラオスのほとんどを覆う森を切ってしまうとき、あるいは森をダムの底に沈めるとき、森の生態系と調和した独自な焼畑で生きてきた山村の、多様な民族の暮らしはどうなるか。フランスに続いてアメリカを追い出してようやく得た平和。そんな正義の戦争の記憶でつながった、あの山奥の村とこの首都近郊の村の人民革命党員たち。…だが、ダムで水と米を奪われて出稼ぎに出た山村の党員は、我々がステイした豊かな村の党員と同じ豊かさへの希望を抱けるだろうか。公務員の月給は、米ドルにすれば、25ドルくらい。首都の外資系企業だと100ドルくらいかな、とラオス人ガイドTさん。すでにベトナムの田舎町なみの交通渋滞と大気汚染、モダンなビルや乗用車が見られるようになった首都ビエンチャン。そんな首都の「繁栄」が自分たちのかつての森の暮らしを犠牲にして造られている、と出稼ぎにきた村人が考えるようになったとき、60以上の民族からなるという「森の国」ラオスは、深刻な内乱に陥ることになるだろう。いや、すでにそうなりつつあるとすれば、…この国の開発に巨額の援助資金を出しているという日本政府のやることをチェックする責任が私達にもあるということになる。

<日本の援助のピカピカ校舎>
首都ビエンチャンで、国立大学の日本語学習センターの盆踊り大会に参加したり、学生どうしの交流会。ばっちり冷房がきいて、私の勤務先大学のキャンパスよりもりっぱな最新の教育機器完備のセンターは、5億円。隣のビジネス教育センターは8億円。日本政府の無償援助だという。…浴衣姿のとってもすてきなラオスの学生たち。踊りながら聞けば、日本語をやったからといって就職に直結するわけではないという。ことばにつまって日本語での会話をあきらめ、もっぱら英語でコミュニケーションの学生も向こうの1年生に多い。しかし、2年生以上になれば日本留学経験者も多くいて、かなり流暢にしゃべる。彼・彼女らは就職先につながる日本企業の進出を歓迎し、そのぶん日本企業の進出は容易になるだろう。この援助案件にかかわった援助ビジネス関係者はそれなりに食い扶持を得た。ラオスの学生たちはピカピカの校舎をすなおに喜んでいるようだ。交流会では、日本のイメージは、進んだ国。ラオスの将来は、鉄道ができて便利になるにちがいない、と。…とはいえ、それなりの日本滞在経験をもつラオス人エリートたちをなめてはいけない。

<タイとベトナムに挟まれた国>
国王を独立のシンボルとして使いながら、財閥と軍隊が日本や欧米の外国資本を受け入れて資本主義発展、つまりお金儲け中心の開発政策を進めて来たタイ。植民地からの独立の夢を、人々の力を最大限に生かしながら動員して軍事的に実現させた政党が、こんどは資本主義を利用して、つまりお金中心のドライな人間関係づくりしながら豊かな社会を目指す社会主義政策を掲げるベトナム。ラオスは、そんな両大国に挟まれた細長い国だ。もちろん開発政策の方向としては、ベトナムにいちばん近いが、一歩先をいって、ついにストリートチルドレンを出すようになったベトナムの欠点も見えるにちがいない。
 首都ビエンチャンのメコン河畔のビヤガーデンでラオスの学生たちと飲んだ。広い河のむこう岸は、もうタイなのだという。スラム、森林破壊、クーデター、エイズを広げる売春産業、金融危機…。そんなタイの開発の歪みと混乱と人々の苦しみを見てきたこの国の人々には、全国で少なくとも2万人という高層ビルの下のホームレス、毎年3万人という自殺者を出す日本の「発展」の化けの皮もすぐに見破られてしまうにちがいない。天皇を復興独立のシンボルとして使いながら、占領を継続するアメリカ軍と戦前からの財閥とが、外国資本を受け入れながら資本主義発展の開発政策を進めてきた日本。そんな日本社会の危うさは、タイを知る人にはずいぶんわかりやすいにちがいない。

<中国・ミャンマーそしてカンボジアで閉ざされた国>
さらに、北には中国とビルマ、南にはカンボジアがあって、ラオスは海への出口を閉ざされている。北の国々の軍事独裁と、恐ろしい虐殺と戦争を経た南の弱体な政府。…われわれのガイドを勤めてくれたTさんや、たまたま大学で合ったAさん。外国を知るこの国のエリートたちは、それなりに厳しく、自分の国の危うさを分析している。いつか、このテーマでもっと多くこの国の政策にかかわる人々と議論してみたいと思う。
 首都で泊まったホテルは、バスタブのある高級ホテル。2階にはカラオケ・バーがあって、夜になると、腰に番号札をつけた、ミニスカートやすごいスリットのチャイナ・ドレスのお姉さんがたむろする。学生たちが「やべえ、絶対お水だぜ」という、彼女たちの笑顔はたしかに死んでいる。私は、到着早々に市場で、ラオス人ガイドTさんの勧めで伝統的な農民服を買い、その心地好さに感動し、滞在中ずっとそれを愛用したのだが、そんな妙てけれんな服装のヤツには鼻もひっかけない。(ついでながら、今回の滞在で紺の中国服のようなそれを見たのはある農村のご老人ひとりきりであった。)だが、1階のジムにあるマッサージのお姉さんたちには、素朴な明るさがある。

<伝統マッサージ>
昨年のキューバ研修旅行以来発足し、ツボ研究を続けてきたサブゼミのメンバーも、その看板を見つけた。なんと、一時間5ドルという破格の安さ。…安いといっても月給25ドルの公務員から見れば、5万円、100ドルの外資系企業労働者からみれば、1万円くらいの感覚だろう。結局、地元民から見れば、日本とほぼ同じくらいかそれ以上の値段になる。…日本で15分2,000円の足ツボマッサージを試す気にさえなれないわれらビンボー人は、急に大金を手にしたかのように色めきたち、Tさんに聞いて怪しい系マッサージでないことを確認したうえで、ビエンチャン滞在中はほぼ毎夜のように通いつめることになった。もっとも、町はもっと安いというTさんの言葉通り、ラオスの女子学生の案内で行った薬草サウナ附属のマッサージは、1時間2ドル。しかもホテルのマッサージより気合いが入った感じ。…指でツボを押したり、揉み解すだけでなく、膝を使ったり、いわゆる整体の要素も入って、かなりの重労働だ。夕暮れ時にビエンチャンの雑貨屋などに入ってふっと奥をのぞくと、衝立の向こうのゴザの上で奥さんらしきおばさんが旦那らしきおっさんの足を揉んだりしている。どの民族にも独自の健康法があって、食事療法とともに、ツボの刺激は普遍的に見られる、というのが私の仮説だ。欧米人に人気の景勝地バンビエンの町で伝統マッサージを試すと、盲目の男性が出てきて実に的確なツボ押しをやってくれた、とサブゼミの女子学生。日本のいわゆる按摩と同じような視力障害者の職業として特化してきた歴史もあるのかもしれない。…ともかく、このすばらしい癒しの技を健康な文化として発展させるにはどのような条件が必要か。売春産業と絡み合って奇妙な発展をとげたタイ式マッサージのことを思いながらしばし考え込んでしまう。

<フィナーレは、踊り!>
ビエンチャンでは、伝統織物技術を保存し女性の職業訓練に使うという日本の援助資金も入ったプロジェクトを訪れ、草木絞り染め体験に参加。やはり自分の体を動かしてモノを造るのは楽しい。そして、国立舞踊団の先生による舞踊講座。盆踊りのような伝統的なペアの踊りを3種類、2時間余り。いわゆるラオ族でも、地域によって相当に違うというが、基本的な動きは、タイ舞踊やカンボジアのアプサラ・ダンスと同じ。向かい合った男女は、指をくねらせながら接近して舞うが、指一本触れ合うことさえ決してない。いまではそんな伝統踊りをちゃんと舞える人もあまりいないそうで、その夜のレストランのディナー・ショーのフィナーレで、観客も入り乱れての踊りの場面。欧米の観光客はもとより、ラオス人らしき一団からも踊りの輪に入る者はない。覚えたての踊りに少しは自信のある我々数名が登壇する。私とペアになった歌姫の女性と微妙に動きがずれるのは、「むこうがちゃんと習ったことがないせいですよ」とTさん。しかしラオス式の笙のお化けや太鼓や琵琶などの伝統楽器で編成された楽団員は、踊り手の登場に喜んで、自分たちも踊り出さんばかりのすごい盛り上がりだったという。…日本語センターの盆踊り大会も最後は、ラオス舞踊。学生との交流会の夜、ビアガーデンのあとの二次会でなだれこんだ12時に閉店になる「ナイトクラブ」のフロアでも、生バンドのヒップホップ音楽にあわせて、ラオス舞踊。合掌していっしょに踊りたい異性を誘い、踊りが終ると合掌して別れる。その抑制の効いたなまめかしさがなんともいい。…ラオスを中心とするインドシナ。この地を再び戦場にしたくない。ホームレスの老若男女がさまようコンクリートづけのどぶ川の町にしたくない。蝶の舞う谷間の少女。十数年後にきても、屈託なく踊り合える関係を作りたい。…合掌。

(2004年3月21日)