● 次に消されるのはだれ? ●

グアム先住民の旅、2004年春


<エインジェル(天使)…!>
「人民の、人民による、人民のための政府。それを実現するために父は命を捧げた。私も父のあとをついていきたい。チャモロ人の、チャモロ人による、チャモロ人のための政府を創るために!」
まだ幼い、やんちゃ坊主の顔をした中学生くらいの少年は、そう叫んで発言を終えた。会場から万雷の拍手。グアム自治政府の要職にあって、先住民チャモロ民族の権利を国連に訴え、グアム独立運動の旗手であったエインジェル・サントス。米軍基地として接収された先住民の土地返還を迫る活動の中心を担っていたが些細なことで逮捕され、数ヶ月間収監された後、原因不明の病気で死亡したという。狂牛病だと言われたともいう。…いずれにせよ、チャモロ民族運動の人々は、アメリカ当局によって殺されたと信じている。やはりその数ヶ月前には、もうひとりの独立運動の闘士が、不可解な死を遂げているからだ。そして、会場は、アメリカ政府の弾圧にもかかわらず、人権を、正義を、先住民の権利実現のために死を誓い合う厳粛で戦闘的なものになってきた。壇上では、劇作家でもあるグアム大学チャモロ語教授が司会をし、ニューヨークの国連の会議から帰ったばかりのグアム自治政府の要人、チャモロ民族運動の主要人物が並んで発言し、亡きエインジェルへの思いにしばし絶句し、涙した。エインジェルを偲ぶそのセッションは、黙祷と荘厳なチャモロ語の歌で始まり、黙祷で終った。とはいえ、会場にはエインジェルの一族らしき老人や子連れ女性が目立ち、赤ん坊はふぎゃあと泣き、幼児はあちこち走り回って、常に騒然として南の島の生活の匂いが絶えることはなかったのだが。

<グアム大学創立記念公開セッション>
グアム大学キャンパスは、小高い丘の上にある。なるほど陽射しは強いが、芝生の向こうには、海が、太平洋が見渡せる。3月8―9日に行われるグアム大学の創立記念シンポや公開セッションへの参加をメインに、10日間ほど、「冬でも泳げるグアム」で先住民の権利をめぐる動きを見てこよう、というのが今度のゼミ研修旅行。
「えー、グアム? いつでもいけそうだし。・・・」当初28人ばかりいた参加希望者は、秘境感のあるラオス研修旅行への鞍替えで7人に減少。3人部屋で35ドルの安ホテルに泊まり、保険付き一日35ドルの地元民向けレンタカー2台を使って島を動き回ろう。グアム先住民問題を研究する院生R君紹介の、地元博物館の館長Hさんに、ちょっとしたレクチャーやガイド・ツアーの日程を組んでもらい、ビーチを楽しみながらグアム史の深淵をちらりと覗き込む。・・・小人数なら小人数で気楽にいこう、という私のうきうき旅気分は、エインジェルのセッションで吹っ飛んだ。赤ん坊から老人まで。コミュニティの総力をあげて、民族の誇りのために命をかけて闘う。かつて、パレスチナのガザ地区や、北アイルランドのカトリック地区に滞在したときに感じたあの独特の緊張感と連帯感。ふとしたことで涙がはらはらとこぼれ落ちるような感情の高ぶり。もちろん、スペイン人に大虐殺されて以後、チャモロ民族運動がこれまで武装闘争に走ったことはない。しかしこの調子で、先頭に立って権利を主張する指導者が消されていくとすれば、武器を取るものが現れても不思議はない・・・。

<文化をめぐる闘争>
とはいえ、とりあえずは、文化というか、日々の暮らしどう納得してすごすか、激しいせめぎあい。・・・米軍基地は、有害物質を垂れ流しにして、祖先の大地と海を汚している。汚染された水のせいでわれらは異常に高い癌の発生率で苦しんでいる。奪った土地の水を勝手に汚しておいて、安全な水なら金で買えといって、水を売りつける。こんなペテンが許されるか。・・・チャモロ先住民独立運動が高まるきっかけにもなったらしい、水問題あるいは環境問題にかかわるそんなエインジェルのセッションでの発言を聞いていて、おもしろいことがわかってきた。その前夜の水問題に関する記念シンポジウム。パネリストたちはなぜか、米軍基地による汚染問題に触れなかった。所与の事実としての井戸水汚染、水道局の非効率性が語られ、島全体の水供給システムの整備が提案され、それを実現するための水道民営化の是非が議論された。非効率性を非難された水道局の代表者、グアム大学の専門家たち、グアム議会の議員も2名ほど。…ロビーには、飲み比べ用に地元のミネラルウォーター2種。食べきれないほどの無料のサンドイッチやドーナッツ。パネリストの数を少し上回る程度のしょぼい参加者。びんびんに効いた冷房。…その寒さに耐えかねて、質疑応答の途中で飛び出した。夕方の海風の心地好さ。チャモロ学生たちがたむろする丘の上の屋外前夜祭会場。模擬店で、チャモロ料理を準備するふくよかですてきなお姉さま(社会福祉を教えるなりたて教員だという)に油を売っていると、わが学生たちも無料サンドイッチをくわえて出て来る。後の討論では、少々汚染された水道水を飲んでも、カルシウムみたいなもんで微量ならかえって丈夫になるかもね、といった発言をしたパネリストに対して、子供たちの健康の問題だ、ふざけんな! といった発言をして食い下がる参加者がいて、ただでさえ寒い会場が凍った、という。

<アメリカの田舎?>
Hさんによれば、グアム大学の教員のうちチャモロ人教員は、創立以来今日まで、10%以下だという。なるほど、水シンポのパネラーも、大学関係はほとんどがいわゆるアメリカ白人。2人の若い女性議員さんは、浅黒い肌のいわゆるチャモロ系のようだったが、お忙しいのか、大事な問題なのでしっかりね、といった具体的でない発言も早々に消え去った。米軍基地問題、そしてそれと密接に関連する先住民の土地問題は、やはり大学でもタブーなのであろう。・・・アメリカの田舎で、イラク攻撃に反対したというだけでクビになった大学教員や処分された学生がいたなんて記事を思い出す。
しかし、減ってきたとはいえ、グアム島全人口の40%弱は、チャモロ人で、最大民族。残りは、最近の移民導入政策で増えてきた20%ほどのフィリピン系を筆頭とする移民たちと、アメリカからの白人系。とすれば、チャモロ人の中での支持がなければ、アメリカのグアム島支配は危うい。グアムは、二千年以上前からチャモロ人が暮らしていた島。16世紀にスペイン人が植民地にし、それを19世紀末にアメリカが横取り。第二次大戦勃発とともに日本が占領。アメリカは、大戦末期にそれを奪還。戦後のアジアをにらむ軍事作戦のために、基地の島にすることを画策。とはいえ、戦後の国際法のもとでは、あからさまに植民地にするわけにもいかず、かといって国連の信託統治にするでもなく、戦後のどさくさの中で、チャモロ人親米エリートの支持を頼みに、一方的にアメリカ領に編入してしまった。グアム大学は、そんな現地チャモロ人社会の中に、親米派エリートを作り出していく役割を担ってきた。

<喜んで激務に耐えるアジア人!>
Hさんもそんなチャモロ人エリートだった。家ではずっとチャモロ語をしゃべっていたが、学校ではだれよりもいい英語をしゃべり、書き、理解できるようになるため、ほんとうにいっしょうけんめい勉強したという。後述のトニーは「俺たちは洗脳されていた」と言ったが、チャモロ人がみなアメリカ人になりきろうとすることに幸福を感じる時代があったらしい。ベトナム戦争でのチャモロ人兵士の犠牲が、アメリカ全土で最も大きかったことを称える碑が島南部の丘の上にある。…Hさんは、グアム大学を出て、何10倍もの難関の採用試験を突破し、アメリカ白人系の多くの競争者たちを凌いで、りっぱなオフィスの秘書に採用された。自分の努力と実力が認められて、アメリカ人として一人前になれた誇り。アメリカン・エリートとして、自分の前に開かれた、成功と豊かさへ夢。希望。有頂天になって全力をあげて働くそんな彼女の前で、アメリカから派遣された上司は、ふともらしたという。「俺たちには、君のように、喜んで激務に耐えるアジア人が必要なんだ。」…これが、Hさんがアメリカ人になりきる夢から覚めた第一歩。第二歩は、若きチャモロ人建築家と結婚し、アメリカ南部を車ですっ飛ばしていたときのこと。運悪く現れたパトカーがその猛スピードに気づいて停車を命じてきた。出てきた白人警官は、車をのぞきこんでHさん夫妻の顔を見るや、吐き捨てるように、言ったという。「おまえらインディアンは、車の運転のしかたもわからないんだ。」

<独立運動の闘士へ>
Hさんの夫は今でも、グアムで唯一のチャモロ人設計事務所を経営する地元の名士。学校や教会など多くの設計を手がけてきたが、基地や観光関係の多くの仕事はアメリカの大手建築会社に取られてしまい、地元に仕事が回ることは少ないという。Hさんはやがて勤めをやめ、グアム大学大学院で教育学の修士号を取得。小学校の教師になり、校長まで勤めたあと、グアム議会の議員に立候補。先住民の土地返還運動から国連で独立を訴える演説まで、チャモロ民族独立派の議員として奮闘した。発端は、米軍の土地政策に協力的な議員を落選させるためだったという。Hさんたちは、街頭で「オレオ」という白いクリームをはさんだ黒いビスケット(いまでも普通にスーパーマーケットで売ってる)を配った。ビスケットをくわえながら、どうして? と聞く人々に、Hさんたちは説明したという。「あの議員はオレオよ。外は肌の黒いチャモロ人だけど、中身は真っ白。祖先の土地をアメリカに売り渡してるの。」…これがうけて、その議員は落選。Hさんが当選したという。

<トニー!>
1960年代末にミス・ユニバースのグアム代表として大阪に行ったことがあるというHさんは、少し年下の友人、トニーに言わせれば、「美しく、セクシーで、とても魅力的な女性」として若いときから有名だったという。
Hさんも含めて、私たちは、そのトニーの浜で泳いだ。グアム島北西部にあるその海辺の土地は、米軍から返還されてグアム政府の管轄に移され、最近、もともとの地主であったトニーの使用が認められるようになったものらしい。まだ彼の土地の多くは米軍基地の中にあるが、ここにもってくるまでのトニーたちの闘いは熾烈だった。とても優しい目をくりくりさせて穏やかに語る彼は、体重200キロにもなろうかという巨漢。なんだか見てるだけで楽しくなる。法的な根拠の薄い米軍による土地接収に抗議して、デモ隊とともにフェンスの中に入りこみ、業を煮やした米軍と警察が排除にかかると、彼は、ここは俺の土地だ! と叫んで、ごろりと大地に横になる。こんな巨漢に横になられると、大の大人数人がかりでも持ち上げることができない。大地に根付いてしまったそんなトニーの姿は、テレビや新聞で伝えられて、先住民による土地返還運動のシンボルになったという。

<次に殺されるのは…>
我々は、そんなトニーの写真の載った新聞切りぬきを、グアム政府の非植民地化推進部局の事務所で見た。ニューヨークの国連本部から帰ったばかりのEさんは、その部局の責任者。まだ40代後半のEさんは、最初は穏やかに、やがて熱してくると立ち上がって、我々のためにグアム島民の民族自決の現状について語ってくれた。先ごろ独立した東チモールなどとともに、国連のパンフでは、これから民族自決を進めるべき地域としてはっきり名前が挙げられていること。しかし、最近の国連本部は、独立交渉をまずはアメリカ政府と進めよとして、門前払いをしていること。そんな国連を変えるには、もっと日本政府がしっかり発言して欲しい!(ここで我々に熱っぽい視線)国際的な圧力がなければ、独立は困難だ、と。グアム自治政府は、Hさんたちが議員の時に可決された法律によって、今年の秋に住民投票をやって、独立の是非を問うことになっている。しかし、このまま住民に対する充分な現状説明がなされないままに投票が行われると、どんな結果になるか見当がつかない。住民たちは、自分たちの権利について、それを国連が認めていることを、充分に知らされていない。しかし、それを知らせる教育・宣伝の費用は、グアム政府にはない。アメリカ政府もそれを負担しようとはしない。さらに、だれが投票権をもつか、という問題も未解決だ。アメリカ政府などは、赴任してきた軍人を含むすべてのグアム島住民の投票を求めている。しかし、Eさんたちは、違う。グアム植民地化の歴史の不当性を考えると、先住民の権利を優先させるべきだ。ハワイのように、先住民の国を滅ぼしておいて、後からどっと押し寄せた移民たちの多数決で、アメリカ領に編入されたのではたまらない。…話を聞くうちに、この人達の主張は、アメリカ合衆国成立の問題点の根幹を突いている、と思った。先住民を追い出し、虐殺し、移民だけの民主主義で創ってきたアメリカの歴史。先住民の権利が民族自決の論理で独立につながっていくと、アメリカ合衆国は存立できない。アメリカは無数の先住民の「くに」に解体する。…とここまで考えて、Eさんのひたむきで誠実な顔を見て、思った。あっ、次に消されるのは、この人。…彼は、突然に熱く潤んだ私の瞳に気がついたかしら。

<若手リーダー>
帰りの車で、Hさんが聞いてきた。「Eの話はどう?…情熱的?そうね。私もびっくりした。でも、彼は、のびやかに、思いつくままに、でも理路整然と、いい話だったわね。…エインジェル亡き後で、40代のリーダーがいなくって。彼なら、やれるかもね。」でも、政府職員としてはちょっとしゃべりすぎで、ひやひやしたと言う。自決権と国際法のことを語ったついでに触れたアメリカのイラク攻撃批判のことらしい。さらにHさんは、かなりの給料をもらう政府職員としてのさまざまな誘惑のことも心配する。職員としての高給で骨抜きにされたり、汚職に手を染めたりするものも多いという。
「民族って、どうやって創り出したらいいのかしらね。」若者たちにチャモロ民族としての自覚と誇りを持ってほしい。小学校から週に何度かチャモロ語の授業はあるけれども、学校の共通語は英語。チャモロ語を使う家庭も減っている。メディアから流れるのはチャモロのマイナス・イメージばかり。グアム最大の日刊紙はアメリカ大手資本に支配されていて、自決権交渉やチャモロの歴史を正しく報道しない。チャモロ民族のメディアを作ろうという試みは何度かあったがまだ成功していない。9・11以降の観光の不振と、フィリピンやミクロネシア諸島からの低賃金をいとわない移民の増加で、若者の就職難は深刻。就職がないから軍隊に入る者が多い。すでに91人のチャモロ人米兵がイラクに行き、一人戦死した。Hさんの娘婿もグアム大学でビジネスを学んでいるが卒業後は軍隊だ。グアム大学キャンパス内にも米軍の建物があって軍籍のある学生が軍服でたむろし、勧誘する。若者の自殺も多い。刑務所の囚人の80%はチャモロ人という異常な比率。…「いやあ、やっぱ、魅力的な文化を創り出すしかないんじゃないすか。」とりあえず、Hさんにそう答えたものの、文化を創り出すには場所と時間、人を生かすような自然の恵みが欲しい。

<不死身のチャモロ文化>
グアム大学チャモロ史の授業を1時間だけ受けた。…スペイン人の虐殺と彼らが持ち込んだ病気のせいで、チャモロ人は人口の95%が殺された。しかし生き残った5%は、改宗させられ、移住させられ、完膚なきまでに支配されたように見えながらも、しぶとく生き残って独自の文化を創った。イエズス会宣教師はチャモロ語を学んでついに改宗させることに成功したが、チャモロ語は、むしろ教会の日曜学校の中で生き残った。スペイン語を取り入れつつ、豊かな言語に発展した。スペイン人は村人を監視するために教会の近くに人々を移住させて村をつくったが、農業生産のためには旧来の土地の耕作を認めざるをえず、ランチョと呼ばれる耕作地への泊り込みも認めざるをえなかった。こうしてランチョはチャモロ文化の解放区になった。もちろん、食事、大家族制、人々の価値観、そんなものも簡単には変わらない。キリスト教の祭も、チャモロの伝統にあわせて作り変えられてフィエスタになった。…日系チャモロ人じゃないかしらと思わせるような名前をもつ、まだ若い女性の先生は、Hさんに言わせると、とても静かなおとなしい人だが、クラスでは、情熱的で雄弁だった。

<チャモロの踊り>
ホテルの近くに「チャモロ・ヴィレッジ」と呼ばれるコンクリート造りの店舗群があった。水曜の夜には歌や踊り、屋台も出て地元の人でもにぎわうと聞いていってみた。なるほど地元の人も舞台の周りに陣取って、知り合いや親戚の登場を待つ雰囲気。しかし、ものすごい群集の半分ちかくは日本の観光客。若者、子供づれ、熟年組も。ケチャップのように見えるが、木の実で赤い色をつけたチャモロ・ライスに、煮込みや炒め物、揚げ物、焼き物を添えたチャモロのフィエスタ料理をプラスチックの弁当箱に盛ってもらう。舞台は、チャモロの踊りよりは、火を使うミクロネシア諸島のもの、腰を激しくふるタヒチあたりのものが目立つ。観客参加などもあって、ショー化している。もちろん私も飛び入りで踊ったけど。…チャモロの踊りを見たのは、ショッピング・モールでの小学生の出し物。踊りというよりは、歌がメインで、数名の男女が合唱しつつポーズをとり、位置を替える。グアム大学で高校生がやったもののビデオを後で見ると、棒で地面をたたく激しいものもあるが、やはり合唱系。こういう集団の踊りと歌の組み合わせは、見るよりも、参加するものに感動的だろう。帰国の日になって、そのチャモロ・ヴィレッジの裏にある地元民のレクリエーション・センターで、毎週2回ほど、チャモロ・ダンスの一般向けレッスンが行われていたことを電話帳で知った。やはり帰国間際に訪れたチャモロ文化団体連合の事務所の若いお兄さんの話では、島内に6つ、300人くらいのチャモロ・ダンスのグループがあり、毎年、コンクールをやるという。他に、美術と朗読のコンクールも。
地元ラジオ局で、ずっとチャモロ語の、ラップ、フォーク、ロックなどを流すものも。Cantan Chamorrita(チャモロのうた)という、村の広場での即興的な合唱を歌える人も今では少ないというが、CDは出ているらしい。いま、沖縄でそういう動きがあるが、観光客に合わせるのではなく、観光客を圧倒するパワーで、地元の人自身が楽しむ芸術。こいつが強力になれば、文化を変え、社会を変えるパワーになるんじゃ。…

<日本の責任>
死を恐れず勇敢に、しかもなんだか不思議なユーモアをもって、アメリカの支配とたたかって独立を求めるチャモロの人々。見ていて気持ちいいし、いっしょにいて楽しい。しかし、チャモロの人々の苦しみについていくと、日本という国、日本の会社、日本人の責任ということを考えずにはいられない。
Hさんのくれたタダ券で2人の学生がパラセイリングに挑戦。レンタカーの都合もありみんなでその浜におしかけ、帰りを待つ。あたりは日本人観光客ばかり。レジャー・クラブのプライベート・ビーチだ。浜辺のホテルのプールを浜から隔てる壁の隅に、ちょっとした石碑のようなものがある。近づいて読めば、「ここは植民地化以前のチャモロ人の集落…、浜は墓場…、30数体の遺骨が発掘され、ここに眠る」とある。日本資本のホテルがひしめくタモン湾の大ホテル街のプライベート・ビーチは、すべてチャモロの先祖たちの墓だ。私の母がまず立ち上がり、私も反対運動をやったけど、すべて掘り返されて、ホテルになった。抗議を受けたホテルはいちおう埋葬しなおしたけど、どこに骨を捨てたかわからないホテルもたくさん。京都に行ったときに、日本人は、先祖を敬うりっぱな墓を作る民族だとわかった。それなのに、どうしてグアムでこんなことができるの?…そんなHさんの話を聞くと、あくまで透き通って美しい水に白い砂浜のビーチのホテル街にも近づきたくなくなる。

<巨大リゾート、ゴルフ…>
掘ればチャモロ人遺跡が出てくるという意外に広いグアムの山々のジャングルを切り開いて、無理やりに創り出した高原。別世界のような日本資本の人造湖畔の大規模リゾートホテル。敷地内のレジャー施設に並んで、広々としたゴルフ場。除草剤と農薬と肥料で無理やりに創り出した芝のグリーン。この山から流れ出す小川に棲む固有のザリガニは、そんな薬剤被害でほぼ壊滅。ゴルフ場は島のあちこちに相当あって、グリーンに使う薬剤が海に流れ込んでのサンゴ礁被害も深刻という。
「こういうホテルは、チャモロ人を雇うとしても、清掃とか低賃金のものばかり。最近は、ミクロネシア諸島からの出稼ぎも多いけどね。フロントなどの高給のポストはオーストラリアやフィリピンなど外国人が多い。グアムにあるけど、グアムにない所。…自然だけが壊されて、汚される。」とHさん。

<戦争による損害賠償委員会>
Hさんがみせてくれた昨年12月の新聞。グアム政府が、第二次大戦による損害賠償委員会を立ち上げて、証言を集めている、とある。泣き崩れる女性の写真入り。子供だった彼女の目の前で、縛り上げられた母親は日本軍に銃剣で刺され、倒れたところをレイプされ、収容所で食料を盗んだ弟は殺されたという。…グアムに日本軍の「従軍慰安所」もあり、チャモロ人女性も犠牲になったことは我々も事前勉強会で知っていた。知り合いの女性の人権NGOの人からは、オランダやアジア各地の女性たちと呼応して名乗り出て、訴えて出る被害者が現れてこないかどうか、調べてきて、とも頼まれていた。…この女性の訴えは、Hさんにもショックだったという。日本軍のレイプによる被害は地元社会では周知の事実なのに、これまで自分からその被害を訴え出る人はいなかった、というのだ。
その委員会は、レイプや収容所での虐待、虐殺ばかりでなく、日本軍による土地や財産の没収についての証言も受け付けている。被害状況をまとめて、アメリカ政府に対して、戦後処理の妥当性を問い、改めて日本政府に対する損害賠償を検討したい、という。チャモロ人にしてみれば、自分たちの被害をろくに調査もせず、意見を聞くでもなく、アメリカ政府が勝手に日本政府と話をつけて賠償問題のけりをつけてしまっている、というわけだ。日本軍が奪った土地の問題は、それをそのまま使い続けるアメリカの責任に直結する。

<ビッグ・チャモロ・ファミリー>
トニーの浜で泳いで数日もすれば、われわれは一皮むけて、褐色の肌。Hさんは喜んで、これで、みんなチャモロ人。私たち、ビッグ・チャモロ・ファミリー!とはしゃぐ。私も、グアム大学でチャモロ語入門書と辞書を買い込み、文法はかなりタガログ語、単語はほとんどスペイン語というこの不思議なことばを始める。…最後の日の夜、Hさん宅でのバーベキュー・パーティーに呼ばれていた私たちは、チャモロ人の洞窟遺跡を見にいく途中で、TUBAというやし酒を購入した。フィリピンのものと違ってこちらのは白っぽい透明でアルコールが弱い。しかしえもいわれぬ自然の甘みで舌がとろける。台風で椰子がやられて、最近は手に入りにくい、これは上等なやつ! とHさんたちも大喜び。そのやし酒を売ってくれたのは、「TUBA売ります」という札を下げた普通の一軒家のおばあさん。台所では幼稚園くらいの近所の子たちがお絵かき。冷凍しておいたからまだ凍ってるけどね。といって大きなポリタンクごと渡してくれる彼女に、「チャモロ人ですか?」と尋ねれば、「半分スペインだけど、そうだよ。」「Si Yeus Ma’ase!(ありがとう!)」Hさん仕込みのチャモロ語で答えたときの彼女のうれしそうな顔。
その話をHさんにすれば、「まったく、それだから困る! 私だって、片親はスペイン人でスペインに親戚だっているけど、スペイン人だなんて思わないよ。私はチャモロ人。チャモロ文化を受け継いだものがチャモロ人。この血が入ってる、あの血が入ってるなんていってるうちに、チャモロ人なんていなくなっちまう。そういう宣伝ばかり。もうチャモロ人はいないって。」

<次に消されるのはだれ?>
そう。グアムの太陽を浴び、あの海で泳ぎ、Hさんの庭のパパイヤややし酒を飲み、チャモロ語の挨拶を学んだ私たちは、Hさんのビッグ・チャモロ・ファミリーの一員。この自然と同化して、チャモロ人は作られる。スペインが来る前にも、あちこちの島から渡ってきた人間たちがこの島の自然と一体になってチャモロ人は作られてきた。自然との調和を求める先住民の暮らし。訪れた人々はそんな先住民の暮らしを尊重し、あるものはそこに残って自然との関係をさらに豊かにする新しい先住民文化を育んできたにちがいない。…移民が問題になるのは、そんな自然と人間との調和を壊す経済の仕組み、暮らし方、ライフスタイルを持ち込むようになってからではないかしら。バッファローを絶滅させ、先住民の大地を放射能で汚し、アメリカの自然をずたずたにし、それでも足らず、世界中に広がってきた、移民の国、アメリカ。アメリカ的な暮らし方。このグアムだって、いまでは、この島の大地が育むものを食べることさえむずかしい。スーパーに行って見よう。野菜も果物も、チャモロ・ライスの米も、バーベキューの肉も、魚さえも、水だって、グアムでとれるものはほとんどない。アスファルトとコンクリートで固めた街。行き場のない老人はマクドナルドにたむろする。若者は墓場か牢屋か軍隊へ。…人ごとじゃあない。40%以下の食料しか自給しない日本に住む私たちのライフスタイルだって大差ない。なんでもお金で得ることを覚えた人間は、自然を省みずに、金になる所、どこにだっていく。だめになった自然は捨てて、新天地を求めればいい。アメリカン・スタイルが好きなら、いっそみんなアメリカ人になったほうがいい。・・・でも、もう新天地なんかない。温暖化であったかくなり、毒物ダイオキシンが7つの海をめぐる。地球は狭い。次に消されるのは、アメリカン・スタイルのわたしたち。自分といっしょに世界を消去しようとする自爆攻撃の若者も、地球規模の天変地異も、それを生んだのはわたしたちだ。…さて。そう潔く消えたくもなし。まずは自分の地元で楽しく新しい先住民スタイルを創りたい。多摩民族なんて、どうかしら。…

(2004年3月31日)