● 岡野内ゼミベトナム研修旅行 報告書 ●
法政大学岡野内ゼミは、2001年2月22日に成田空港を出発し、約7時間のフライトの末に、ベトナム・ホーチミン市に到着しました。こうして23名のベトナムを舞台にした12日間に及ぶ研修旅行はスタートしたのでした。
この報告書は、ベトナムでの貴重な経験をわたしたちが忘れないためにも、また、多くの人に現在のベトナムの状況を知ってもらうためにも作るべきだと考えました。これを読んで、暑く湿ったベトナムの空気を思い出すも、子供たちの笑顔を思い浮かべるも、ベトナムの抱えている問題を思い返し、行動を起こすも、この研修旅行参加者、つまりわたしたちだからこそできることなのではないでしょうか。
<ベトナム研修旅行参加者>
岡野内 正 長部 愛 風間 祐二 河村 妙子 木村 洋 熊谷 真也 小金谷 孝子 相良 武紀 鈴木 忍 高橋 寛史 田上 光子 滝川 浩充 豊田 大介 中飯 聡子 R・N 中村 祥子 二瓶 真由美 正田 剛章 溝内 理紗 諸星 実弥子 山崎 恭子 湯川 千裕 吉田 絵美 |
今回の研修旅行にあたって、旅の計画から何から何までお世話になりましたピースインツアーの鈴木さん、現地通訳の愉快なダンさん、フエでお世話になったタムさん、その他、現地ガイドのみなさん、訪問先企業、NGOの関係者の方々、素敵な旅をどうもありがとうございました。
● ホーチミン市内レポート ●
― 2001年2月23日 : 鈴木 忍 ―
バスの中から見た、ベトナムの姿。
バイクの濁流にクラクション、ゴミ箱から溢れ出ているゴミ、おしゃれな街燈、歩道に出ているテーブルと椅子。
南部の中心ホーチミン市の道路にはバイクと自転車が溢れ、その様子はまるで洪水のようだった。その波は皆同じ一方向へ向っているかのようにさえ感じられ、なかなか途切れない。その交通量にもかかわらず、驚くことに信号機はほとんど目にしなかった。が、かわりに、そこではクラクションが絶えず鳴らされ、響き渡っていた。このことから考えられるように交通ルールが大雑把なのであろうこの国では、自動車もバイクも人も、自己アピールすることが大切なのであり、そういった考えが暗黙のうちに皆の共通認識となっているのかもしれない。
街は以外に整備されていて、道路の並びには政府のものだという印の白を幹の根元に塗られた街路樹が点々と植えられていた。開発が進んでいるようで、活気に満ちたこの街では、建物自体の新旧の差も激しく、また、フランス統治領だった頃の名残であろう西洋風の大きな建物や教会が随所に見られた。建物は隣との隙間もなくびっしりと建てられ、一つの通りには同じ商品を売る店がズラーっと並んでいた。この辺りは家具を売る店、この辺りはバイクを売る店というように、ブロック毎に商品が決まっているらしい。店は道路に面して全開であり、時に店からはみ出して商品が並べられてもいた。
いろいろな店がある中、一番多く目にしたのはやはりバイクの店だ。バイク本体を売っている店も多かったが、その部品を主に扱っている店も多く見かけた。バイクはベトナムの人々の主な移動手段になりつつあるが、まだまだ高価なものであるため、パーツ交換などをして、その寿命を長引かせるのだろう。ここではバイクに乗る際に免許を必要としないらしく、そのためか、老若男女問わず多くの人が運転していた。家族4人で1台のバイクに乗ったり、バイクが日本でいう自動車の役割を果たしているようだった。
この街では、歩道がただ人が歩くためだけの場所ではないようだ。歩道で散髪屋を開いている人もいれば、小さな露店を出して玩具や本を売っている人もいる。よく見かけたのは、歩道で食事をしている風景である。最近の小学生のおままごとセットのようなプラスチックでできた赤く小さなテーブルと椅子を歩道に並べ、皆で仲良く食事をしている。場所を有効に活用するための一種の知恵だと言えるかもしれない。
バスの中からでも感じとれるほどのホーチミン市のこの熱気と活気は計り知れず、この街では「社会主義の国ベトナム」として思い描く景色を見ることはできない。様々なものが混在し、ひしめき合っていて、一言では到底語り得ない。バイクの流れと同じ位めまぐるしい速度で変化をとげている街がホーチミン市なのだろう。
● ホーチミン市統一会堂歴史博物館 ●
― 2001年2月23日 : 熊谷 真也 ―
朝からまぶしい日差しがそそぐ暑い中において、ホーチミン市内観光を行なった。まず統一会堂へ行った。この建物は南ベトナム政権の時の旧大統領官邸である。第一印象は、芝から建物まで非常によく整備してあると思った。中に入るとさまざまな部屋があって、当時の生活の状況が把握できた。会議室、宴会室、応接室など、高級そうな家具が並んでいて内装が美しかった。中でも大使が大統領に国書を提出する部屋は壁に大きい漆画が飾ってあって豪華絢爛だった。
2階は大統領の家族の部屋で夫人の部屋などがきれいだった。またここからレズアン通りのほうの外の景色は正門からの一本道を沿って両側に木がずっと奥まで立ち並んでいて、素晴らしかった。みんな写真を撮っていたと思う。屋上にはヘリコプターがあり近くで見てスケールの大きさに感動。地下に行くと戦争中に使われた基地があり、司令室やアメリカとの連絡をする放送局があった。
次に歴史博物館を訪れた。ここでは、各王朝時代の歴史を展示してある芸術品を見ることで当時の生活状況などを知ることができた。2ブロックに分かれていて、ベトナムの始まりから共産党ができるまでのものと、南部の芸術品のものに分かれていた。青銅器が多く、武器や、でっかい太鼓などが印象的であった。陶磁器は完成度が高く、保存状態も良いので、現在においても輝いて見えた。
自分がビックリして驚いたものとして、まず、千手千眼観音像です。日本の阿修羅像よりも繊細な感じで、数多くある指は女性の手のようにきれいだった。次に皇帝の着ていた衣装があげられる。衣装は袖がめっさ長くて、自分の2倍くらいあったと思う。手を洗うときとかどうしてんのかなとか、余計なことをいろいろ考えた。けれど、日本でも平安時代の女性の装束とかも袖が長いから、なんかその辺にアジアン文化の共通点があるのかなと考えた。
また、途中のお土産売場にいた美人アオザイ女性店員に見とれている人が何人かいたけど、やはり民族衣装は国の個性が現れるし、その人種に合ったものが用いられていると改めて思った。
初日からベトナム文化に思いっきり触れることができて、このたびの始まりのスタートとしては上々であった。異国に来たっていう意識が展示品を見るたびに高まってきて、これから先の10日間が楽しみになってきたと思ったことは、今でも心に焼き付いている。
● クチトンネル ●
― 2001年2月23日 : 長部 愛 ―
ベトナムに着いた次の日の2月23日、わたしたちはホーチミン市の郊外(ホーチミン市から約70km)にあるクチトンネルを訪れた。このトンネルはベトナム戦争中に使用されたものである。ベトナム戦争当時、この地域には解放戦線の拠点が置かれていて、鉄の三角地帯と呼ばれた難攻不落の場所であった。アメリカ軍は何度も空爆を繰り返し、大量の枯葉剤を投下したが、解放戦線側は地下にこのトンネルを掘りゲリラ戦を続けた。アメリカ軍はトンネルの存在は知っていたが、実態を正確につかむことができず、最後まで攻略することができなかった。
トンネルは3m,6m,8mと三層の構造になっている。トンネルの中には会議室、台所、作戦会議室などがあり、現在に至っても当時の様子が窺える。実際に入ってみて驚いたのは、むっとするにおい、湿気、そしてトンネルの暗さと狭さである。それでも観光用にトンネルの広さを広げたということからも、当時いかに苦しい状態で戦況を乗り越えたのかが、感じられるが、本当にここで生活することが可能であったのか?という疑問もやはり浮かんでくる。私たちは当時の状況を窺い知ることしかできないが、もし自分が生活するなんて、本当に想像し難い。トンネルの近くには木の枝や葉っぱで隠された落とし穴があったが、とてもリアルな感じで恐怖心を感じた。
トンネルの近くに残っていた戦車の前でピ−スをしながら、みんなが記念撮影をしているのを見たときは"平和だなあ"、となんだか複雑な気持ちでその光景を眺めてしまった。そのときビデオを担当していたから、第三者的な立場で見ていたからかもしれないのだが、ふとそのように思ってしまった。私は実際に戦争を体験したことがないのから想像の世界、伝え聞いた情報しかないけれど、戦争というものがなんて悲惨で残酷なものなのか、と思う。木の枝や葉っぱで隠された落とし穴も人間を殺すためのもの。だから戦争なんてよくない!なんて、簡単に言いきることができるわけではないけれど、クチトンネルを含めて、今回様々な場所でベトナム戦争の傷跡を見て、戦争がいかに愚かしいことなのか、ただただそう感じた。そして過去の歴史をあまり知らなかった自分をとても恥ずかしく思った。
クチトンネルには私たち以外の観光客も訪れていた。ベトナムに来る観光客はフランス、スイスなどヨーロッパからの観光客が割合多いと聞いた。もちろんアメリカからの観光客もいるであろうが、もしこのトンネルを訪れたらどのように感じるのであろうか。ベトナム戦争当時、ベトナムに多くの被害を与えたのはもちろんアメリカではあるのだが、その陰で支えていた日本の存在を忘れてはいけない、と思う。何故なら、現在の日本はその戦争景気によって経済的に発展していった、という矛盾を感じるような事実があるのだから。
● カントー近郊メコンデルタ地帯水上マーケット ●
― 2001年2月25日 : 風間 祐二 ―
起床5時半。まだ夜が明けきらぬカントーの街。岡野内ゼミ生たちは眠い目をこすり朝食を済ませ、朝日の眩しいメコン川沿いの船乗り場へと向った。この日滞在したカントーという街はメコンデルタ地帯の中でも特に大きい街で日本に例えるならば、港町"横浜"といった感じがする。大港町、横浜のように大きな船こそ見当たらないが、中・小型でエンジンがむき出しの船が無数に泊まっている。僕らは、頭の半分が眠ったまま船に乗りこんだ。そして、30人弱が座れるくらいの中型の船は、僕らを乗せて水上マーケットへと動き出すのだった。
船内はとても静か。みんなはさすがに無言である・・・。このままでは眠ってしまうと思った者たちは、船の後方の甲板へと移動する。その甲板からみえる景色というものは、本当に美しい。メコン川に朝日が反射して水面はキラキラしている。もうすっかり慣れてしまった「バタバタバタ・・・」というベトナム的、「むき出しエンジン音」も心地よく聞こえてくる。風を切って走っている感じがたまらないのだ。しかし、このメコン川地帯で色鮮やかな水色の船は僕達の乗る観光用の船のみなのだ。水上マーケットが近づくと、その水色に目を付けた、パンやジュースを売る船が近寄ってくる。さらには、船を横付けし、僕たちの船に飛び乗ろうとするもの売りまでいる。これが見習うべき商売根性というやつなのか。
甲板から眺めていると、水色の船とキャベツや瓜、スモモ、カボチャ等々の品物が元気の良い色を発している。思わず写真を撮りたくなる光景だった。水上マーケットに集まる船には、4〜5メートルはありそうな竿を高々と掲げた船を見ることができる。これに自分の船で売っている品物をつるし、看板の代わりにするのだ。高く青い空に、半切りにされたカボチャがぶら下がっているのは、さすがに異様だった。ここの水上マーケットの仕組みは、やや大きい船が問屋の役目をしていて、小型の船がそこから思い思いの量を買い、自分の町に戻って商売をしたり、レストランなどに売ったりするのだという。生活の中心は川にあるというわけだ。東京の道路渋滞を考えれば、渋滞無きメコン川は流通の最先端と言えるかもしれない。
そんなことを考えながら、船はまた「バタバタバタ・・・」と進むのであった。
● メコンデルタReport! ●
― 相良 武紀 ―
我々、岡野内ゼミナールの面々はメコンデルタを訪れるために3隻のボートにそれぞれ移り川を上流していた、暖かい日差しにおいしい空気、土でにごった川の水、途中船の船長さんにいただいた、ココナッツがなんともいえず、自然と時のながれを忘れていた。船の上から見るそれぞれの風景に、それぞれの生活が見えすばらしかった。川に体ごと入った人々が網をめぐらして魚を取っている所や、川で遊んでいる子供達、あまり大きくない川を
何隻もの船が行き来しているところなどと、川から見る風景なので当たり前なのだが、川に依存して生きている様子がよくつたわってきた。
我々は、途中でお昼をすませ、またさらにボートに乗り、小さなレストランのようなところでメコンデルタだの人のガイドさんの話を聞く事ができた。ここでの料理はやはり、魚料理がおおかったのだが、出てくるペースに皆混乱させられ、最後の方に豚のカクニが出てきた頃には、結構皆いっぱいいっぱいであったと思う。みっちゃんがTiger Beer飲んでたのと、あまってた豚のカクニを机の近くにいた可愛い子犬にあげたら、食べなかったことに強い衝撃を受けた事を鮮明に覚えている。
食事後、我々はまたボートに乗って小さなレストランのようなところへ行き、メコンデルタ出身のガイドさんの話を聞く事ができた。それぞれの机には、ジャスミン系のお茶と小さい茶碗が用意してあり、結構喉も渇いていたのでがぶがぶ飲みたかったのにと思っていたところ、隣にペットボトルに入った一見麦茶のような物が置いてあり、ガイドさんすすめられるがままに飲んでみて あら!ビックリ!とっても強い、ウイスキーのようなお酒で、先生は結構飲んでいたが、私はチョットって感じだった、、フルーツもさらにもってあり、先生は食べていた。このような所で話がはじまった。
メコンデルタの人々はあまり小学校、中学校に行く習慣があまりない。高校に行けばそれなりに教育がそこで受けられちゃうって言う感じらしい。また、どういった国々からの旅行者が多いのですかと言う質問には、スイスやフランスなどとといったヨーロッパ系の人々が多いという。
また、アメリカ人に対しての感情を問われると、戦争は昔の事、今はあまり何もおもわないといった感じの答えがかえってきた。この事については、その夜のミーティングでいろいろしたはくねつトーク繰り広げられたわけですが、ちょっとこのような話でおもい空気が流れていたところに、酔っ払った60すぎのおじさんが、乱入してきて一変に楽しい空気にはや変わりした。60過ぎとは思えない肉体と肌のつやと、長いひげと??素晴らしい笑顔、あの人に会えて、人生少し幸せ度がましました。