● ソクチャン市 ●
― 2001年2月25日 : 中飯 聡子 ―


岡野内ゼミの一行は6:30にカントーの"サイゴン・カントーホテル"を出て、水上マーケットへと出発した。その後バスに乗って、カンボジア系の人びとの街であるソクチャン市へ行き、クメール人の博物館とお寺へ向かった。街にいる人々の顔を見ても、クメール人とそうでない人との差は良く分からず、ガイドのお姉さんも「外見的な違いはない」と言っていた。
博物館は1階建てで、中にはクメール人の伝統的な衣装や楽器、建築物の模型などが展示されていた。それから外に出て質問タイム。「クメール人の主食は?」などと質問に花が咲いたとか、咲かないとか・・・。

その後、一向は歩いてすぐのところにあるお寺へと向かった。中に入ってビックリ、お寺の派手なこと、ハデなこと。私としては日本にあるようなお寺を想像していたのだが、そこにあったものは黄色い壁に青と赤のラインの入った外観で、肝心の大仏様の後ろからは、色鮮やかなランプの後光がさしていた。「なんだこりゃ?!」と思っていると、奥の方からお坊さんが現れ、風間くんの頼みによりその中の1人から話をうかがうことに成功した。

その方は現在20歳で14歳の時にこのお寺に入ったそうだ。
ここでの僧侶の1日の流れは、5:00起床―6:00朝食―17:00食事&お祈り―18:15外国語センターに行き英語を習う、というものらしい。服装は毛さという布のようなものを2,3枚持っているのみ(寝る時もずっとこのケサを着る)で色も赤、黄、オレンジ、グレーと限定されているそうだ。ちなみに禁止されている色は、緑、青、黒、紫の4色。ご飯は朝、昼のみで夕食はない。
また、このお坊さんはクメール語、インド語、英語、ベトナム語の4ヶ国後を話せるというから感心してしまう。また、あるお坊さんが黄色い傘をさして歩いていたのだが、これは「お布施をして下さい」と言う意味なのだそうだ。
同じ仏教でも、国によっていろんな違いがあるんだなあと改めて実感した。

最後にお寺を出る直前に、すんごくカッコイイ、もみあげの長いお坊さんとすれちがった。あまりにもみとれて後ろを振り返ると、エミ、みっちゃん、チヒロ(もっとだったっけ?)たちがすかさず写真をとっていた。私も撮っておけばよかったなぁ・・・。



● フエ・ドンハ ●
― 2001年2月26日 :
 高橋 寛史、田上 光子、豊田 大介、諸星 実弥子、湯川 千裕 ―


<記録・ベトナム戦争>
ベトナム戦争とは、1960年代前半から1975年4月30日までと、実に10年以上にも渡り、東南アジアの一国である「ベトナム」で繰り広げられた、「"ゴー・ディン・ジェム氏"が支配していた南ベトナム」と「共産主義の北ベトナム」武力衝突のことをいいます。
表向きはこのようになっていますが、しかし、その実体は、南ベトナムを支援した民主主義国であるアメリカと着たベトナムを支援した共産主義国であるソ連、中国といった大国の政戦略的な戦争であるといえます。

南ベトナムを支援していたアメリカは、ケネディ、ジョンソン、ニクソンと3代に渡る大統領が関与し1,500億ドルにも上る巨額な費用を投じ、ピーク時には年間54万人もの軍人をベトナムに派遣し、さらにアメリカは経済援助とひきかえに国の国策のもと、韓国、タイ、オーストラリア、ニュージーランド及びフィリピンからも兵を送りこんだのです。まさにこれは国の威信をかけて挑んだ一大戦争でした。
この戦争はいわゆる普通の戦争とは異なり、"前線"が存在せず、戦闘は南ベトナム領内のあちこちで発生していました。
これは、北ベトナム側の知恵であり、大量の軍備に後押しされていたアメリカ軍の近代戦争に真っ向から挑んだのでは勝ち目がないことをよく知っていたからなのです。北ベトナム側は、米軍およびマスコミが「ベトコン」と呼び恐れた、南ベトナム解放民族戦線(NLF)を中心に南ベトナム領内で、敵を待ち伏せ、短時間の攻撃を仕掛けた後さっと引き上げるといったゲリラ戦を展開したのです。このようないつどこからともなく仕掛けられる戦いに、前線のアメリカ兵は恐れおののき、次第に戦力を喪失し、軍隊の士気の低下を招きました。
そして結果は、北ベトナム側の勝利に終わりアメリカ軍はベトナムの地から撤退を余儀なくされたのです。


<僕らが見たベトナム戦争>

― ベンハイ川 ―
ベンハイ川はベトナム戦争当時、南北の国境線とされていた場所。。
1954年のジュネーブ協定から1975年のベトナム戦争終結までの21年間にわたり、北緯17度線付近を流れるこのベンハイ川沿いに軍事境界線が引かれた。
ベンハイ川両岸5キロずつはDMZ(非武装地帯)と呼ばれ、もっとも激しい戦争の舞台となった。

― ヒエンルオン橋 ―
ヒエンルオン橋はこのベンハイ川の上、国境1号線に架かる橋。長さ200m、幅6m。
1967年までは北半分が赤色、南半分が黄色に塗られ国家分断の象徴となっていたが、米軍機の爆撃で崩壊。1973年に再建され、今は深緑っぽい色。ジュネーブ協定時は人民は行き来できたが、それ以降は不可能となった。ヒエンルオン橋の付近にはホーチミンの肖像とベトナム解放軍をかたどった記念碑が建てられていて、地元の子どもたちや水牛の遊び場となっている。

☆豆知識☆
南と北では言葉も習慣も全く違う。だから米兵は小さな違いで南と北の人を区別することができた。例えばバナナの食べ方、北ではバナナを半分にして食べる。南では全部皮をむいて食べるなどがそれだ。

― ヴィンモックトンネル ―
クチトンネルが戦うために掘られたトンネルに対し、ヴィンモックトンネルは住民が生活するために掘ったトンネルである。米軍は大量の爆弾(1uに1万トン)を毎日落とし、村を焼き払った。そのため1965年、住民たちは命を守るため、ホーチミンルート保存のためにも、そのまま村にとどまることを決意し、地下で生活するためにトンネルを掘ったのだ。
全長2036m、深さは地表から12〜25m。当時米軍は深さ15mまでいくドリルの爆弾を落としていた。他の村はトンネルも人もやられてしまったが、唯一ヴィンモックトンネルだけ残ることができた。

トンネル内には家族用の部屋、60人が集まれる会議室、井戸などがある。1965年から1967年の2年間掘り、300人が暮らし、17人の赤ちゃんも生まれたそうだ。クチよりは天井も高く広いが、暗く、懐中電灯は必需品、そして蒸し暑い。
トンネルを出ると海岸線が広がっており、物売りの子どもたちがお出迎えしている。

― ロックパイル ―
(ベトナム戦争時アメリカ軍ミサイル発射基地があったところ)ユーカリ、松の木は植えやすい。枯葉剤のため、手や足の無い子供たちが多い。これはロックパイルに限ったことではない。悲しい限りである。人々がもう少し他人を思う優しさを持っていたら。そんな世界になるよう変えていかねばならない。再びこういう悲劇が起こらぬように。

― ロックパイル付近の風景 ―
景色はとてもきれいだった。空からの眺めもアメリカ兵はこの景色を見て何も感じなかったのだろうか。それとも感じながらも仕方なくなのか。どっちにしろさびしい限りである。

― ケサン基地跡 ―
ケサンは非武装地帯ではなく、昔は滑走路があった。アメリカはベトナム軍を一つに集めて、一発で殺す予定だったが、ベトナム軍は一つに集まらず、分散して戦う方法をとった。それによりここではベトナムの勝ちに結びついた。何にせよ、殺すという言葉を使うのは嫌なものである。
無くなることはないだろうが、一生使わないで暮らしていきたいことではなかろうか。



● 少数民族訪問 ●



○●○ベトナム少数民族について○●○

ベトナムの人口は約7,500万人で、54の民族が存在している。そのうちキン族が人口の約87%を占めており、残りの13%、およそ900万人が各々異なる言語を物の少数民族として、北部や中部の山岳地帯や高地で生活している。

これらの少数民族の平均収入は年間50〜60米ドルとされ、ベトナム全土の平均収入のおよそ4分の1以下で、絶対的貧困水準以下の生活を余儀なくされている。少数民族のほとんどが、ベトナム政府の恩恵を受けられずにいたことも大きく影響している。
インフラの設備は国内で最も遅れており、教育水準も低く、就学者はベトナム全就学者のおよそ4%、少数民族ではその80%が教育を受けていない。21万人の非識字者のうち、97%が少数民族で、特に女性の非識字率は95%〜100%となっている。子どもの死亡率や栄養不良率もベトナム全体に比べて高い指標が示されている。

私たちが訪れたブルーマンキュ族もその中の一つの民族で、彼らは約100年前ラオスからベトナム中部の山岳地帯に移り住み、現在もそこで自給自足の生活をしている。ラオス語は話せず、独自の言語を話している。
村内はのどかで、小さな家がいくつか並んでおり、どこからかラジオの音楽が流れてきたのが印象的であった。

現在、平均的に見て、決して豊かとは言えない状況の少数民族に対し、ベトナム政府は1992年に「少数民族と山岳地帯のための国家委員会」を設立し、低地への定住化や初等教育の普及、そして少数民族の保存のためのインフラ設備、安全な水の提供、診療センターの設備などの政策に年間400万ドルを費やしている。私たちが訪れた村の近くにも、日本のODAが建てた小学校が見えた。それは2階建てでとても立派なものであった。

しかし、4〜5km離れたところから通学しなければならない子どもも多いらしく、まだ小学生の数は十分とは言えない状態である。

ベトナム政府のこれからの政策が彼らにとってよい結果を生むことを願うと同時に、子どもたちのあの笑顔がいつまでも変わらずにあって欲しいと思う。



● 日系企業訪問 HATCHANDO co.ltd ●
― 2001年2月28日 : 小金谷 孝子、中村 祥子、R・N ―


○●○八ちゃん堂(ベトナム)○●○

<企業概要>
5〜6年前にできた輸出加工区、タントアン(新順)にある、冷凍焼きナスを製造し輸出している企業。カワベイッペイ社長は、もとは福岡でトラックでまわる移動たこ焼き屋をやっていたが、テキヤとの利権問題などがあった。問題を解決し事業を大きくするためには、冷凍で出せば売れると考え、冷凍たこ焼き工場を立ち上げた。これが成功し、新たな食材を探していたところ九州で大量に捨てられていたB級品のナガナスを見て、皮をむいて焼き、冷凍焼きナスにして売り出すことを思いつく。日本でテスト生産をしたところ味がよいものはできたが、原料費が高く皮をむく人件費も下げられないので流通価格が1,300円にもなってしまった。
そこで、もともとたこ焼きのタコを輸入していたベトナムで焼きナスを製造することになった。1996年に事務方、農業技師、工場長の3人でベトナム工場を立ち上げ、現地で日本のナスを作るところから始めた。工場がうまくまわりはじめ、政府との関係もよくなったので、3年経った時点で立ち上げ組は帰国し、第二世代に引き継いだ。
現在日本人は2人で、工場長にもベトナム人が就いている。

<ベトナム進出の理由>
もともとたこ焼きのタコを輸出していたこともあるが、ベトナムは労働力が安い。他の東南アジアの国と比較してもタイだと人件費は倍かかってしまうし、逆にミャンマーだと人件費は安いがインフラが整備されていないため輸送費が高くなってしまう。また、ベトナムの常夏の気候もナスの栽培にあっていた。ベトナムでも北は寒く台風が通るので南に進出することに決めた。

<タントアン(新順)>
5〜6年前にできた輸出加工区で、そのうちわけは日系企業が約4割をしめ、台湾企業が約3割、あとは韓国、オーストラリア、アメリカなどの企業がつづく。ベトナムにとってみるとここは外貨をかせげて、現地の人に職を提供できる場所である。
1996年当時ホーチミン市ではまだ停電が頻発していたが、ここでは24時間電気を保証していた。
また、法人税もはじめ3年間は免除され、その後も半額になっている。

<土田さんのデータ>
八ちゃん堂副社長・31歳・ベトナムに来て2年。大学で法学を学び卒業後、銀行に勤める。以前から途上国に興味を持っていたが、インターネットで八ちゃん堂ベトナム進出を知り、転職することを決めた。
現在ベトナム語はレストランやタクシーで使う程度なら話せる。ベトナムに永住する気はなく将来は他の国で活躍することも考えている。話し上手でエネルギッシュな人。


<インタビュー内容―工場長の監督を務める土田さんに伺った>

―従業員の雇用条件などはありますか―
事務方と工場長は大卒で、英語もしくは日本語を話せる人としています。
ワーカーは特に規定はないの ですが、一応高卒で明るく健康な方を募っています。
ちなみに、求人はヘプサという役所を通して行ないます。

―従業員は何人いますか―
ワーカーは200人弱です。8:00〜5:00の1交代制で働いてもらっています。
ナスは季節ものということで、売れない磁器にあたる冬は150人位雇い、多い夏で250人位になります。
事務方は20〜30人います。約8割が女性で、工場長も女性です。生産性を確保するため、20歳前後の子が多いです。
雇用する際に若い人を優先するだけで、解雇することはありません。
そして労使関係は良好です。ですから労働争議などはありません。

―ベトナム人と働いてみてわかったことはありますか―
ベトナム人は勤勉で根気強いということです。
しかし率先して何かやるなどといったリーダー性にかけています。そして時折、幼児性も垣間見えるので人事評価でそれをカバーするようにしています。
例えば、その月に頑張った人を"ベストオブワーカー"と称して表彰し、金一封を贈るなどしています。こうすることによってワーカーのやる気を起こさせるのと同時に、自立性を養っています。

―ベトナム人を雇っていて苦労した点を教えてください―
やはりコミュニケーションをとるのが難しいです。
特に大変だったのは、ここに会社を建てた当初、会議をしようとしてもベトナムは共産主義なので、人前で意見を言うということをせず会議自体が成り立たなかったことです。

―ワーカーの賃金はどれくらいですか―
ベトナムでも賃金の高い方のホーチミンでは40〜50$です。
ここの加工企業区は外資系が集まっているのでちょっと高くて50〜60$。しかし汗をかくし、立ち仕事であるこの工場での賃金は70$にしています。それに加えて7,000ドンの定食を昼飯として出しています。

―年商はどのくらいですか―
あまり細かいことは言えませんが、年商10〜15%はupしています。

―ナスのほかに何か考えている商品があれば教えてください―
今、空芯菜を作っています。ベトナムに来たときにこれを食べておいしかったので、この食材ならいけると思いました。
しかし商品を考案する際に気を付けることは、大手が真似できない商品を作り出すということです。そして、付加価値をつけなければ対抗できません。



<八ちゃん堂を訪ねて>
多国籍企業は現地の労働者と上手くやっていくためにどのような努力をしているのだろうか。一般的に第三世界では企業と労働者との間で考え方の違い生じ、それが様々な問題へと発展していく。

八ちゃん堂がベトナムにきた当初は会議が成り立たないほど、企業のシステムが理解されていなかったらしい。やはり社会主義国といった感じだったのだろう。ベトナムの人々は他のアジア諸国に比べて真面目に働くにも関わらず、である。しかし、今では人事評価を取り入れることによって、言われたことだけをやるという雰囲気さえも変わりつつあるようだ。

具体的には、評価すべき人を皆の前で評価する方法だ。従業員などが見る掲示板に貼られている広報誌のようなものには表彰された人が顔写真付きで載っている。その写真は見ると思わず笑ってしまうような代物で、ベトナムの奥深さを感じてしまう。その写真はどれもアイドルのプロマイド写真風なのだ。会社側が写真を持ってくるように言うと、なぜか皆「決め顔&決めポーズ」のものを持って来るそうだ。

従業員は現在約200人おり、二十歳前後の女性が中心。給料はというとホーチミン市内の平均賃金の1.5倍ほどで、なかなか良い。労使関係も今のところ順調のようで、「従業員とのコミュニケーションも取れている」と副社長はおっしゃっていた。
それと、もう一つ気を使っていることは「従業員に対して手を上げないこと」らしい。