● 「若者の家」プロジェクト参加 ●
― 2001年2月28日/3月1日 : 中飯 聡子 ―


ベトナム中部から再びホーチミン市に戻ってきたゼミ生は、有志が2日間に分かれて、若者の家プロジェクトに参加することになった。

ベトナムにおいて、ストリートチルドレンの保護施設の多数は18歳前後になると施設を出て行かなくてはならないということがある。日本のNGO「国境なき子どもたち」はこのようにして、再び路上生活に戻ってしまう彼らの保護と、識字教育、職業訓練を目的として「若者の家」という施設を開設している。今回、私達は「国境なき学生」と事前に連絡をとり、この施設に行き、子ども達と交流をしてきた。

<ストリートチルドレンのNGO施設を訪ねて>
2月28日、愛ちゃん、風間くん、タケ、私の4人は、昼食を終えてすぐタクシーに乗り、「国境なき子どもたち」によって設立されたストリートチルドレンのためのNGO施設へと向かった。そこで私たちは、実際に子どもたちと触れ合うというなんとも貴重な体験をさせて頂くことになったのである。私の想像とは裏腹に、それは4階建てくらいの大きくてキレイな建物で、特に屋上からの眺めはかなりイケルのものであった。さらに部屋も2人1部屋というように共有して使われており、勉強のための教室もシャワーも完備されていたりと、とても衛生的であった。ちなみに、ご飯を作るのも子どもたちの役割だという。
私たちが到着した時は、子どもたちはまだお昼寝の時間だったようで、そこには数人しかいなかったが、時間がたつにつれその数はどんどん増えていった(といっても15人程度だが)。子供たちは、会ってまだ何秒もたっていない私たちにすぐなついてきた。まるで、幼稚園の先生にでもなったかのような気分だった。人見知りしないそんな姿が可愛らしかったけれど、裏を返せば「これまで親の愛情を受けずに育ってきた」ために、人と触れ合うこと、誰かに愛されることに飢えているということだったのかも知れない。

私は、「ここでのNGO活動は本当に役立っているのか、意味のあることなのか。あの子たち1人1人が自立して生活していけるように支援しなければ、NGOとしての役割を果たしてないんじゃないか。」とちょっと否定的に考えていたが、実際に子どもたちに触れ合ってみて、それが甘っちょろい考えであることに気がついた。少なくともあそこにいた子たちは、自分のことを本当に気にかけてくれる人、心配してくれる人、愛情を注いでくれる人を求めていたのではないだろうか。そういう意味においては、「国教なき学生」のボランティアの方々の活動は、子供たちの精神的な支えになっているのではないかと思う。
確かに子供たちは、ボランティアの人たちのことをとても慕っていたし、彼女たち(女の人だけだった)にすごく甘えていた。ただ問題なのは、彼女たちが1年365日ずっと一緒にいてあげることができないという点だが・・・。
今回のストリートチルドレンの施設を訪れたことで、「NGOは一体どうあるべきなのだろう?」ということを以前よりも考えるようになったが、悲しいことに考えれば考えるほどよくわからなくなってくる。

最後に、このNGO活動(といっても一緒に遊んだだけだが)に参加できて本当に良かった。しかし、このベトナムだけでもストリートチルドレンはほかにも沢山いるわけで、その子たちのことを考えたらそんなのん気なことは言っていられないわけである。ストリートチルドレン、これもまた難しい問題だな〜。



● NGOの活動 ●
― 風間 祐二 ―


今回、参加させてもらったボランティア活動、「若者の家プロジェクト」から多くの刺激を受けることができた。それは、ベトナムの子供たちが何を得たのだろうか、と考えるのではなく、僕らがいったいあの活動の結果、何を得たのだろうと考えることで見えてきたものだった。日本にいては、ストリートチルドレンの現状などを目の当たりにすることは無かっただろう。
僕にとって、この活動は半日に過ぎないがベトナムという国が抱える問題の1つに触れて、体験することでストリートで生活する子供たちに関心を持ち、本当の支援とはどんなことなのかを考えることができた。NGOを実践する力、成長とはこうして得るものなのだろう。



● NGO実習をへて ●
― 相良 武紀 ―


今回私は日本のNGOが管理する「少年の家」といわれる、いろいろな事情で帰る場所がない子供達を受け入れている施設に行く機会にめぐまれました。ベトナムへの研修旅行が決まり、つけやきばではありますが、自分なりに少しベトナムについて学んでみたときに、大きな問題として取り上げられていたのが、ストリート、チルドレンでした。正直はじめは、子供達に英語の授業をしたり、一緒に画用紙に絵を書いたりなどと、実際NGOとして現地に行っていた人の話などを聞き、自分の中では現地学生や子供達との、交流会のような気軽な感じを持っていました。しかし、実際みんなより1日早く現地入りし、その日の夜町を歩いていて、子供達が夜遅くまでサッカーをしているのや、人力車の上で寝ている所などを目の当たりにし、今回そういった子供達と触れ合うという時にどのような対応をすればいいのか正直、その建物につくまで悩んでいました・・・・・

丁度、お昼をすませてからスーさんのチャーターしてあったタクシーに乗り組み、もらっていた住所をもとに向かっていたのですが、約30分だろうといわれていたにもかかわらず、一向にそれらしき建物がみあたりません。運転手さんも明らかに困惑の表情をしながら「あれっ、おかしーなー」 といった感じで人にたずねながら探すもみつからず、公衆電話から電話してやっとこ到着しました。約1時間の道のりだったのですが、あいちゃんはタクシーのクーラーで気持ち悪いとすでにダウン状態だし、結構サトもユウジンもへばっていたと思います。やっぱりみんな、何かしら不安はたくさんあったのでしょう。

んがっ!!そのような心配は最初の5分で吹き飛びました。多分サトや愛ちゃんは会って5分後には子供達と縄跳びで一緒に遊んでいたと思います。(笑)
子供達という表現は、15歳位の子達には失礼かもしれませんが、日本の同年代の子達と比べるとどうしても私には幼く見えてしまいました。同年代の日本人と比べても、体は小さめだし、小さい頃から親の愛に触れてないからなのか、男女かまわずとても体をくっつけてひたしんできます。はじめにもっていた不安は、子供達の笑顔と共に自然ときえていきました。

私達が用意した出し物としては、愛ちゃんが日本から縄跳びをもってきていて、みんなで大縄跳びしよう!の会と、新聞紙でトリカブトをつくろう!の会を用意していました。そこにいる子供たちはフリーな時間はとても自由に生活していて、NGOの人達が何かもちかけても、嫌な事ならまったく興味をしめしません。みんな、個々に自転車に乗ったり、寝たり、本読んだり、テレビをみたりと自由に時間を過ごしています。
あまり、NGOとして来る派遣員の中に男性がいないらしく、ごっつい系の子供達は自分の管轄でした。体で勝負していました。マンガ、マキバオーの主人公マキバオーに似た男の子に、屋上に一緒に来てくれと連れて行かれ何をするのかと思いきや、T-Shirtsをぬげといわれロッキーの一場面にでてくるように音楽をガンガンにかけ熱き筋肉トレーニングが始まりました。(音楽がベトナム音楽だったんですが、演歌風のどうしてもこれ若者向けじゃないだろうって感じで・・・)
いろいろな筋トレ方法を教えてあげるととても感心しながらマキバオーはふんばっていました。途中からもう一人加わり、自分も最後の方は一緒になって普通にトレーニングしていました。その後、下に下りていくとみんなトリカブトを作り終えた後で・・・サトと愛ちゃんはまた縄跳びしていたと思います。
ユウジンはベトナム語攻略本を片手に奮闘していました。その後も自分はなぜか、柔道やらテコンドーの相手になったり、ユウジンも加わってはだしでサッカーしたりと、とても楽しい時を過ごしました。今おもえば自分が遊んでもらっていた??
最後に、その日の夕飯を少しもらいました。紫色のおかゆで、私たちの中では多分タロイモだろうとなっていましたが、とてもおいしかったです。

私が今回の実習で感じたのは、ただ気ままに生活しているように見える子供達も、自分たちで洗濯し、朝昼夜の食事を作り、それぞれ時間になったら学校へ行ったり、授業をうけたりとしっかり自覚した生活をおくっている印象をうけました。どこか子供っぽい行動の中にも、私達にはない強さを感じました。頼る人がいない、帰るところのない、つらさ、こころ細さ、また貧困といった私達日本人では想像するのも難しい状況を通過してきている子供達は甘えん坊の反面に奥深さをかんじました。
あまり、NGOとして派遣されている人達と深く話せなかったので、どういったコンセプトでなどといった基本的な部分がはっきりと理解できてなかったのですが、ボランティアとして子供達について真剣に取り組んでいる姿はとても素晴らしかったです。自分達同じ年代の人達が、このように世界のいろいろな所で活躍というか頑張っている姿を見れた事もこの実習の大きな収穫でした。

愛ちゃん、サト、ユウジン、あの日はほんとに体力消耗して、くたくただったけどたのしかったね!お疲れでした。その他、日本で高田馬場に集合したメンバーで一緒にいけなかったみんな、お疲れ様でした。また機会があったら、普通の日にでもチョット、高田馬場顔出しにいけたらおもしろいかもね!

子供達の将来に! Yooooooooooooooooooooooooooooo!(乾杯)



● ホーチミン総合大学日本語学科訪問 ●
― 2001年3月1日 : 木村 洋 ―


ベトナムでおれの班が担当だった中でも、俺にとってはとてもいい経験になったのがホーチミン大学の人たちとの交流でした。

その日、うちの班の班長だったレオが体調を崩してしまったため、急遽代わりにうちの班の誰かが、ゼミの代表として大学のえらい人の隣に座らなければならなかったのです。何も知らずに後のほうから教室に入っていったら、たかこが「前座って」というので普通に座ってしまいました。そしたら、司会者が近くにいたり横にえらい人が座っていたりしたので、「なんでおれがここなの?」と思い、思わずりさを探してしまいました。りさは普通に座っているし、どういうことなのかなと思いましたが、気分がいいのでそのまま座っていることにしました。その後ちょっと考えて、夜の会議の時とかも皆が発表者になるようにやっていたし、一人一人に役が回るようにいろいろやっていたので、その一環で大学では代表をおれにやらせてくれるのであろうと、勝手に一人で納得していました。

じゃあここでいいやという感じで座っていたら、代表として挨拶することになってしまって。「聞いてねえよ」とか思いながらも、丁寧な言葉を選ばないととか、いろいろ頭を働かせながら何とか挨拶をできたとは思っています。かなり緊張はしましたが、もっと自分は舞い上がると思ったら結構冷静に言えたのにすこし驚きました。とてもいい経験をさせてもらいました。
また、向こうの大学の人と1対1になって話し合う時間がありましたが、おれはそのとき司会をしていた四年生の女の子とずっと話していました。そのなかで彼女は自分の名前の由来について話してくれて、それにすごく感心したのでそのことを書きます。

彼女の名前はアイティエンと発音するらしいのですが、漢字の意味に由来していて彼女はその漢字を書いてくれました。アイが「愛」でティエンが「美」の字で、意味は日本で使われている意味と全く同じなのだそうです。アイなんて、意味もそうだけど読み方まで全く一緒でかなり驚きました。日本でいったら「まなみ」ちゃんですね、普通によくいそうな名前ですよね。
何で日本と名前のつけ方がこんなに似ているのだろうとすごく不思議でした。それもすぐ彼女が教えてくれたのですが、ものすごく長い間今の中国のあったところの勢力に支配されていたので、漢字の意味を使った名前の付け方がすっかり定着してしまっているのだそうです。

彼女としたほかの話で他に印象に残っているのは、なぜ彼女は日本語を勉強しているのかということです。ベトナムでは日系の企業の賃金が他の外国企業と比べても良いらしく、修飾をする際に日本語ができるといい職を得ることができるというのも理由のひとつなようです。しかし日本語だけできてもだめなようで、まずは英語ができないと日系企業はなかなか雇ってはくれないそうです。彼女はとても優秀な人のようで、今年の九月に早稲田に留学してくるというのでぜひ会いたいなと思っています。