● ベトナム戦争から考えた ●
― R・N ―
レンタルショップでビテオを借りた。べトナム戦争のドキュメンタリー映画『べトナムから遠く離れて』で、ゴダールらが作ったものだ。淀川長治のお薦め作品でもある。
僕たちはべトナムに行って、べトナム戦争の傷跡に触れ、さまざまなことを考えだ。べトナムの全てのことがべトナム戦争と関係していると感じた。あれだけ大きな戦争だったのだから当たり前かもしれないし、終戦はまだ1975年のことなのだ。僕は当時生まれていないので、世界や日本の空気がどのようなものだったかははっきりと分からない。そして、当時、べトナム戦争がどのように受け取られていたのか、できれば肌で感じたいと 思った。僕だちが見たべトナム戦争の傷跡はのどかな場所にあり、平和ボケしている僕たちにはなかなか実感が湧かなかったのだ。
空襲のサイレンが鳴り、避難するハノイの人びと。彼らほどこか冷めた眼をしていた。 まるでトイレに行って用を足すかのように,空襲に慌てることもなく淡々と危険が過ぎるのを待つ。当時の最新の武器を操るアメリ力軍の北爆にも関わらず、ひたむきに生活をしていた。
作品中ではキューバのカスト口がインタピューに応えている。「武力闘争(ゲリラ戦にそ、経済的に組織的に優位に立つ敵を倒す人民に残された唯―の効果的な手段だ」と彼ははっきりと言っている。「金持ちはますます金持ちになり、貧乏人は殺される」世の中では仕方がないことなのか。貧しい者のやむをえない行動なのか。そして、アメリカの反戦運動や愛国主義音の様子も伝えている。反戦運動は妙なテンションで、仮装行列のようでもある。もし、アメリカとべトナムが隣り合わせで、アメリカがべトナムに直接に攻撃されたなら彼らはどういう行動に出るのだろうか。それでもなお、自国の軍隊がしていることを責めつづけるだろうか。愛国主表音たちは「べトナム戦争は内戦ではなく、北の侵路だ。共産主義音を許すな。ハノイを爆撃せよ」と叫んでいる。
この作品は、ただ単にお決まりの悲惨な映像を流すことに終止していなかった。べトナム戦争終結後にべトナムから遠くはなれた国の人々の心が、べトナム戦争からすっかり離れていくであろうことをこの作品は憂えている。繰り返し使われる映像や写真に慣れてしまい、西側諸国の市民にとってはどうでもよいことになっていく。そして、また同じ、過ちが繰り返されるのはなぜか。西側諸国は少しでも自分たちのカがなくなることを恐れて、 グロ―バリゼーションの中で覇権争いを繰り広げている。
べトナム戦争とその後のべトナムが教えてくれることは数多い。要は、その教訓をどう生かすかだ。また同じようなことが起こって嘆くだけでは、何一つ進歩はない。僕たちもべトナムに行ってべトナム戦争について嘆いたが、それだけでは何も意味がない。私たちが最低限できることは、その場限りではなくこの先もずっとべトナム戦争を記憶の片隅に置いておき、健全な社会を作っていくことだろう。
● カラフルな家を見て ●
― 中村 祥子 ―
バスでの移動中、風景を眺めていると、目の前にカラフルな家々が現れた。あまりのかわいさにしばし昆とれていた。何がかわいいって、日本じゃまず見られない色使い。紫、エメラルドクリーン、淡いピンクに水色、オレンジと・・・・何ともハイセンス☆木製の 枠にはまったガラス窓の向こう側には鉄柵がついていて、その形や色もまた様々。家の前がバルコ二―風になっていて、柱が数本立っている家もあった。あと注目したいのは床。 大きいタイル張りになっていて、模様が描かれている素敵な家も見かけた。模様があるのは床だけではなく、壁面や柱もそうだ。他には、サンルーフやシャッターをつけている家もあった。どの家もいくつかの色を使っているが、白を基調に、微妙に抑えた色を使って いるので決して下品な感じはなく、爽やかでオ―プンで、それでいて落ち着ける空間が広がっていた。ダンさん日くこのような家は田舎に多いらしく、確かに街中にはそこまで目立った家はなかったように思う。日本でも最近は、アジアン雑貨や服を扱っているショップにはこのような雰囲気を取り入れたところも見られるようになってきたが、家となるとやはりべトナムならではなのではないだろうか。あまりの興奮で夢中で写真を撮ったが、 現像して見てみると案の定ブレにブしていた。
バスの中から見学していて―番驚いたのは、家の側面が何も塗られていないことだ。通りから見える正面は丁寧に塗られているのに、側面はコンクリートが剥き出しなのである。お金がないのか、それとも慣習なのか。私が目にした家はほとんどがそうだった。不思議だナァ。
アジアを旅して思うのは、町あるいは村がとても力ラフルだということ。(でもインドは色が少ないらしい→モノク口でまとめられているとか?!)民族衣装もそうだし、看板、バス、日用品に至るまで、そこにいるだけでこっちまでワクワクさせてくれるモノの数々・・・。 日本とは異なる何かがある。それは人にも通ずることで、このような環境に住む人々は、明るく活発で、フレンドリーな人が多い。少数民族の村で見た子供たちの鮮やかな服の色と重なる元気な笑顔。街中にある、思わずそちらに目を向けてしまうほど目立つエイズ予 防を呼びかける看板。そして何よりカラフルなのは、おじいちゃんおばあちゃんの生き生きとした表情。写真を―緒に撮ろうとカメラを向けたとき、顔をクシャクシャにしながら喜んでくれたおばあちゃんを私は忘れられない。べトナムで過ごした10日間はあっという 間ではあったけれど、普段見慣れない光景に唖然としながらも、そこに主きる人々の衣服、住居、雑賃などに目を向けながら、幸せなときを過ごすことができたように思う。
● ベトナム研修旅行に参加して ●
― 二瓶 真由美 ―
べトナムが初海外である私は、少し緊張していたせいか、前の日の夜なかなか寝つけず、眠い目をこすりながら成田空港へと向かった。みんなと合流してからも、これからべトナムへ飛び立つという実感がなかなか沸いてこず、なんだか不思議な気分だった。
それから飛行機で5時間、私たち岡野内ぜミー行はべトナムの地に降り立った。"わぁ〜!べトナム人がいっぱいだあ!"べトナムに来たのだからそんなことは当たり前のことなのだが、あきらかに日本人ではない人々でいっぱいな空港の外の様子に圧倒させられてしまった。まだ、"プ〜ンと、日本ではかいだことのないような匂いもしてきた。そんな時、"私は今、べトナムの空気を吸って呼吸をしているんだ!"と思った。
次の日からは朝早く、夜遅いというハードな毎日が続いた。あまり寝ていない上に、30度を越す暑さ…。今思えば、よく体がもったと思う。どこへ行っても初めてのことばかり、それに圧倒された私は、体の調子をこわす暇さえなかったのかもしれない。
クチやドンハでのトンネル見学では、べトナム人の戦争でのひたむきさを感じた。べトナムが独立を勝ち取ることができたのも、べトナム人がそのような性質を持ち台わせていたからなのではないかと思った。
思い出がたくさんあるため、語りたいことが山ほど残っているが、そのすべてを語ってしまったら、とてもとても紙1枚では収まらないようなので、あとは手短に…。
● メコン川のクル―ジングは、川の上を通る風が大変心地よく、思わず暑さを忘れてしまうほどであった。
● クメール寺の修行僧のとても20歳とは思えない、あのあどけない笑顔が忘れられない。
● 日系企業のハちゃん堂でごちそうになった焼きナスはおいしかったなぁ!
● 現地の大学生との交流で色々話をし、たくさん笑った。アオザイのお店を紹介しても らい、アオザイを20ドルくらいで作れたことが大変嬉しかった。
● マンクロ―ブ植林活動の場で私たちが植えた木が、大きく育ちますように…。
● 口シアン省の農村で、少ないながらも私たちが刈ったお米は、どこに運ばれ、誰が食べるのだろう…?
日本にはない光景で最も驚いたものは、物売りの子供たちや、夜路上で寝ていた子供たちであった。なんとかしなければならない…。そう思うが、実際自分の目で見で、現実はかなり厳しいものだと思った。
自然、歴史、人々、食べ物…などなど様々なものに触れ、勉強し、感動したこのべトナム研修旅行。私は、この旅が終わった今、―つのものをやり遂げたという達成感でいっぱいだ。それは何よりも、私と旅を―緒にしてくれたみなさんのおかげだと思う。だから最後に書く―言ば→→→"どうもありがとうございました"。
● ベトナムにて ●
― 正田 剛章 ―
べトナムにて貴重な体験をしてきた。これから印象に残る出来事順に紹介しようと思う。
<第三位 ディスコにて>
日本では―度も行ったことがなかったディスコに三度も行った。どの回も楽しい―時を過ごしたが、―番思い出深いのは2月23日の夜だ。他の二回は大勢で行ったが、その日はタケと熊さんとタッキーと僕の四人で行った。僕はそういうところが不慣れなもので、恥ずかしがって踊れずにいた。
そんな中ふと周りを見ると、宇多田ヒカルに似た日本人らしき女性が踊っていた。―応英語で話してみると、実は中国人(キムさん)だった。少し仲良くなってキムさんが連れて来たべトナム人の友達(ヨーさん)をいれて六人で踊った。キムさんは少し抑えて踊っていたけど、ヨーさんの踊りは激しく、腰を振りまくっていた。僕もそれにつられて少し踊るようになり、楽しくなってきた。が、次の日に支障が出るので切り上け帰って来た。
夜のべトナムは、なんか怪しい雰囲気で怖かった。そんな中タケの英語力は頼りがいがあった。行き帰りのタクシーや入店する時などうまく交渉していた。僕もキムさんやヨーさんと英語で会話してみた。ポツポツと片言ながら話すことはできても、スラスラと話すので聞き取ることは難しかった。その結果あまり話すことができなかった。言葉が通じなくても、踊りや身振りや笑額により楽しく持間を共有できたのだけど、何か物足りなさを感じた。言葉の、英語力の大切さを実感した。
その後、僕はウォークマンで字多田ヒカルの「Can You Keep A Secret」を繰り返し聴いてた。旅の間で百回は。♪近づきたいよ 君の理想に・・・。
<第二位 フエにて>
「フエは・・・」あの人は忘れられない。
<第―位 若者の家にて>
3月1日、ESF(国境なき学生)のメンパーのもとNGO活動をさせてもらった。人数制限によって行けないと思っていたら、急遽行けなくなった人が出たので僕も参加できた。
リサとクマさんとター君のタクシーはすぐに目的地へ向かったが、タッキーとコガネーさんとぼくの方は違う方向に向かっていた。着いたとタクシーを降りたが、そこが若者の家かどうかわからず、近くの人々に尋ねたが英語は通じなかった。そこで30分近くウロチョロしていた。もうホテル帰ろっかなとも思った。が、それを見ていた優しい人が、僕たちに電話を貸してくれた。そのおかげで若者の家と連絡が取れ、住所を聞き直しようやく到着することができた。
そして子供たちとの交流が始まった。しかし子供といっても少数民族を訪問した時出会ったような子供とは違って、僕とほとんど変わらない青年がほとんどだった。
僕は人見知りする方なのでどうしようかと思ったが、逆にあっちから声をかけてくれて助かった。中でも―押しチュックちゃんは笑顔で「おと―」X2と話しかけてくれたり、「オカマ」X2と叫んだりとても楽しい子だった。そして四、五人男の子とサッカーをした。裸足になって日本チームとべトナムチームで対戦したが、1−4で惨敗した。遊んでるうちにあっという間に時間が過ぎた。結局、―時間ぐらいしか居られなかった。
僕は現地の人との触れ合いという点で楽しくすごさしてもらったのだけど、何のために行ったのだろう、何ができたのだろうという疑間が残った。突然押しかけて遊んで帰っていった僕たち。僕たちの満足のために若音の家の人たちを付き合わせてしまったような気さえした。彼らは何が必要としているのだろう。愛情を与えるとか、安らぎを与えるとか、僕らはそんな身分なのだろうか。実際僕は安らぎをもらった側だ。このNGO活動は役に立っているのだろうか。わざわざ日本から行く必要あるのか・・・。
同じ日に行った大学生との交流と似た満足感は得たが、NGO活動をしたという特別の感 覚は得られなかった。僕らは見学程度だったからしかたがないのかな。僕は楽しみ以外何を得たのだろう。
と、僕にしては珍しく色々考えてると、考えさせられる大事な何かを得たことに気づいた。
<まとめ>
べトナムについての戦争や歴史や民族などを、体全体を通じて学ぶとまではいかなくとも感じ取ることはできた。また、安い物価や物乞いによってお金の価値観も少し変わった。 日本での自分の居場所を客観視できた。ハッチャン堂の副社長やマングロ―ブの浅野さんの様に自分のやりたい仕事につくためにそろそろ将来考えてかなければと悟った。毎日のように飲んで、みんなと込み入った話もできた。何もかもどうしようもなく輝いてる。本当に有意義な忘れられない旅だった。アオザイ バンザイ!べトナム パンザイ!
● ベトナムの風 ●
― 溝内 理紗 ―
べトナム旅行を思い出す時、―番に思い出されるのはべトナムの風・空気だ。湿気が多く、なま暖かい風。毎回の食卓には欠かせない香草やニョクマムの香り、ココナッツの香り…などが混ざっているような南国を強く感じられるような空気である。そんなやさしい空気に包まれて、ハンモックに揺られながらのお昼寝はこの上ない幸せを感じる―時だった。
戦争の傷跡が数多く残るべトナムというべトナムの―面をみる機会も多く、そのすさまじさは想像を絶するものであったが、私がすごいと感じたのは、それを乗り越えたべトナムの人々と着実に再生しつつある自然の偉人さだった。そして、そのエネルギーを私は空気から感じられたのかもしれない。
しかし、滞任中もっとも長い時間を過ごしたホ―チミンの空気はそれらの香りが消えてしまうほど強烈な排気ガスにあふれていた。空が排気ガスによって霞んで見えるほどだった。バイクに乗っている女性は、サングラスにマスクそしてぼうし。仮面ライダーかと思うほどで、あれでは良く知っている人だったとしてもだれだかわからないだろう。
バイクがあふれるホ―チミンの街で、人々は―生懸命働き、経済的な豊かさを求めていた。日本をお手本としている場合も多いようだ。しかし、その結果がこの排気ガスの空気だとしたら、私は疑間を抱かずにはいられない。そこには、私の感動した偉大なエネルギーに満ちた空気とはちがったなにか、混沌とした風が渦巻いていた。ホ―チミンもその昔はカントーやその他の町のようにやさしい風が吹いていたに違いない。
私が実際にべトナムに行き、肌で感じたべトナムの風。それを思い出すことで、私はべトナム旅行に―緒にいったみんなとの楽しい思い出を思い出すことが出来ると同時に、べトナムに限らず、今、日本などをお手本として経済的な豊かさを求めて盲進する第三世界の国々の問題を考える意欲を湧かせることができる。それは、これからのせミの勉強をしていくに当たって人きな糧になることだろうと思う。
この旅行に参加できたこと、20人あまりのメンバーで、個人旅行では出来ない多くの経験ができたことがとてもうれしい。そしてなにより、私が体調を崩したときに部屋まで様子を見にやって来てくれたみんなのやさしさに心うたれ、愛を感じた旅だった。
最後にはなってしまったが、そんな―緒にいったみんなにありがとう。そしてこれからもよろしくね。といいたい。