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(18) たとえば、 Martins[1994]pp.195-197. 1891年から1900年までの10年間に約1万2千人、全出移民の5.5%、1901年から1907年には約1万1千人、全出移民3.5%がポルトガル領アフリカに流入した、という数値もある。けれども、19世紀末から実際にアンゴラやモザンビークに年1千人のオーダーを越えて移民が急速に流入し始めるのは、ようやく1940年代のことである。1950年代には、毎年1万人以上(10年間で約12万人)がアンゴラやモザンビークなどの海外領に流入しており、植民地戦争が激化する1960年代の半ばになってようやく年1万人の大台を割り来んでいる( Serrao[1977]p.80, 82)。なお、ポルトガルは、19世紀末の列強のアフリカ分割競争の中で、イギリスの圧力によって、1891年、南部アフリカの領土を現在のアンゴラとモザンビークに縮小されつつも、アフリカ植民地を確保して20世紀を迎えた。もっとも、このイギリスの干渉に屈したことも一因となって、共和主義運動が高揚し、国王暗殺を経て、1910年の第一共和制が成立することになった。
(19) Serrao[1977] pp.123-135. なお、Baganha[1990]を踏まえて、やはりポルトガルからの移民との関連で、独立から1927年までのアメリカの移民政策を整理したBaganha[1993]、また、アメリカにおけるポルトガルからの移民社会についての事例研究を踏まえた考察、Monteiro[1993]も参照されたい。
なお、ポルトガルから世界各地への移民について、1988年春のコンファレンスの報告書で、送り出しの状況と合わせて、カナダを中心に、ブラジル、カーボベルデ、南アフリカなどにおけるポルトガルからの移民の状況についての歴史的考察の報告を含むHiggs(ed.)[1990]、 19世紀のアルゼンチン、ブエノスアイレスでのポルトガル人移民の社会についてのBorges[1993]などがある。またそれ自身が移民の島であるマデイラやアゾレス諸島からの移民は、独自の様相を呈しており、詳細な個別研究の対象になっている。たとえば、Vieira[1993]は、公文書資料などをもとに、19世紀後半を中心にマデイラ島からの移民の行き先、具体的様相や、非合法移民問題、当時の論争などを紹介しつつ問題を整理したもの。Amorim[1993]は、18世紀末から1930年までの時期のアゾレス諸島の3つの教区の文書史料に基づいた移民の流れについての極めて詳しい分析。そしてRosa & Trigo[1994]は、アゾレス諸島からの移民についての歴史的、経済的、社会学的な全面的な概観になっている。 なお、移民を送り出すポルトガル内部の地域差についての統計的分析は、多い。たとえばArroteia[1991]や、1864年に始まり1890年以後はほぼ10年おきに行われているポルトガル政府の人口センサスとその問題点の解説を含むCarrilho[1991]を参照。
(20) 1965-1974年の時期に、毎年、アメリカに約8千人、カナダに約7千人の割合で流入している。また、アメリカへの流入には移民政策の変化も関係している。Arroteia[1982]pp.25-27, pp.31-32, pp.41-43、参照。
(21) 1965-1974年の時期に、毎年、アメリカに約8千人、カナダに約7千人の割合で流入している。また、アメリカへの流入には移民政策の変化も関係している。Arroteia[1982]pp.25-27, pp.31-32, pp.41-43、参照。
(22) Barreto(ed.)[1996]p.67, Quadro No.1.6。これは、統計局(INE)の人口研究所の推計である。なお別の公的資料(統計年報)に基づくとされる数値によれば、ピークは1964年末の905万3千人で、翌1964年末には899万6千人へと減少を始め、1974年革命の直前の1973年末に底入れして、854万5千人となっている。1964年末から8年間で50万人の人口減少ということになる。Mata & Valerio[1994]p.249。
(23) Serrao[1977]pp.72-73。なおここで、送り出し側と受け入れ側についての若干の文献を紹介しておきたい。送り出し側の事情について、たとえば、Wall[1993]は、1960年代のポルトガル北西部(ミーニョ地方)の事例研究から、農村部からの国外出稼ぎのパターンと要因を検出しようとしている。 Monke, Eric, et al. [1993]は、農業経済学者たちによる北西部の小農経済の分析。ヨーロッパ特にフランスへの出稼ぎ(移民)の問題も検討されている。 Brettell[1986]、Brettell[1990]は、ポルトガル北部の事例研究に基づいて男性の単身出稼ぎというパターンを検出した人類学的研究。Brettel[1993]はさらにポルトガルの民族的アイデンティティにとって移民がもつシンボル(移民受け入れの国としてのアメリカと対比される移民送り出しの国としてのポルトガル)としての意味が大きいことを問題提起する。Leite, M.C.[1993]は、1960年代以降の家族ぐるみ移民現象についてステレオタイプ化を批判している。受け入れ側については、 Leandro[1993]は、1960年代以降増加したパリのポルトガル人社会に関するものであり、Leandro[1995]は、パリ周辺のポルトガル系3家族の事例をもとにした社会学的研究でドクター論文をもとにしたもの。Cordeiro[1993]も、フランスのポルトガル人社会についての概観。Interaction France-Portugal[1997]は、1995年10月のシンポジウムの記録で、両国政府関係者を招いて、フランスのポルトガル人家族の諸問題について、若者、家族、女性、フランス社会の問題などのテーマで報告、討論を含む。 Interaction France-Portugal[1994]もほぼ同様の問題をより歴史的に扱っている。Cunha,M.d.C.M[1992]は未刊行のドクター論文で、統合か近代化への抵抗かという視点からフランス在住のポルトガル系家族の世代間の違いなどを強調している。Kotlok-Piot[1994]は、地理学のドクター請求論文で、フランスへのポルトガル人移民の歴史と特にフランス内でのその居住の地理的分布などについて極めて詳しい分析を行っている。Gravo[1995]は、フランスにおけるポルトガル人移民の自主的組織について20世紀初頭以来の歴史をカバーしている。なお、「従属研究センター」による肉体労働者としてのポルトガル移民のヨーロッパ内の位置づけに関するFerreira(ed.)[1977]、また、IPSD-FSC[n.d.]は、1988年1月に行われた移民第2世代の将来に関するセミナーの報告集である。
(24) Manuel[1998]p.144は、政治学サイドから、最近の市民社会論モデルを使ってポルトガル現代史を説明しようとする試みであり、その中で、移民問題、というより、独裁時代の亡命的な要素も含む海外出稼ぎに、注目している。それは、移民送金を通じて、ポルトガル経済を世界経済にリンクさせたが、同時にそこから欧米の価値観が持ち込まれて、独裁体制のイデオロギーを揺るがすことになった、というのである。なおMaxwell[1982]pp.254-279も参照。
(25) サラザール体制についてアフリカ植民地との関連も視野に入れた概観ではMaxwell[1995]が優れている。なお、植民地戦争についてはMelo(ed.)[1988]、革命前後の植民地をめぐる動きやその後の独立過程については MacQueen[1997]、アフリカでの植民地戦争終結を訴えたことで有名なSpinola [1974]及びその訳本への金七紀男氏の解説をも参照されたい。
(26) この時期の外国資本導入については、Matos[1973]が詳しい分析を行っている。
(27) もとより、積極的抵抗ゆえに亡命生活を余儀なくされるものも存在する。抵抗運動について、Raby[1988]など参照。なお、Leeds[1984a,b]は、サラザールがポルトガル国家の政治的・社会的安定を確保するための意識的な政策として移民送り出し政策を用いたとする。それは労働力の需給を調節し、送金によって国際収支を改善し、帝国維持戦略を支えた。さらに、移民送り出しは、労働集約型産業の必要を減少させて、産業近代化計画を容易にさせた。それゆえ、余剰労働力を吸収するための急速な経済成長も、必要でなくなった。なぜなら発展に内在するストレスをも同時に輸出することができたから、という。他方で、特にヨーロッパへの出稼ぎが、工業労働者を中心とするものであったことから、工業労働力不足問題が起こったことも指摘している。ところが、移民の効果に関しては論争がある。すなわち、Baklanoff[1978]は、出稼ぎ移民が増大したときに、ポルトガルのGDP成長率が加速したことから、出稼ぎは、その送金によって、送り出し国への実質的な援助の効果を発揮し、教育やインフラなどの社会コストを削減させ、失業を減少させた、と論じた。Morrison[1981]も同様。これに対し、King[1984]は、理論的には、出稼ぎ労働は、安い労働力の供給によって、受け入れ国の利益になったとしながらも、同時に、送り出し国は、移民送金、労働者訓練、非生産的な農村から労働力を取り去ってその構造転換を促したこと、の3点の利益をえた、とする。だが同時に、送り出し国は、移民送金が非生産的に使われることにより、経済構造を不健全にし、特に土地への投資によってむしろ農業構造の再編成を困難にした、としている。 Corkill[1993] pp.21-25も参照。 Maxwell[1995] pp.22-24は、1970年代初頭の農業危機と移民問題の関連について、生産性の異常な低さが移民排出につながり、労働力不足がさらに生産性を低めるという悪循環を指摘している。同時に、移民送金が、ポルトガル経済のパフォーマンスを良好に見せるにもかかわらず、それが非生産的な消費や土地価格の騰貴を生み、さらに農業危機に拍車をかけたとする。また、植民地戦争のための徴兵を忌避する熟練・若年労働者の移民によって、工業部門でも、労働力不足が起こり、アフリカ植民地からの労働力移入が行われたという。
(28) 1980年代以降の移民の流れについては、統計上の独自な困難がある。それらの問題点および、移民の流れの数値については、Peixoto[1993]およびBaganha & Peixoto[1997]を参照されたい。 なお、Ritter, et al [1988]は、ヨーロッパ共同体の中でのポルトガル経済という観点から、移民問題にも言及している。
(29) 1981年センサスに基づくPires, et al.[1987]、また最近の研究、Carrington & Lima[1996]も参照。植民地独立後の流入によって、1979年の南アフリカ共(和国のポルトガル人は、66万人に達したと言われている。もっとも、革命以前にも直接移民の流れはあり、1955-1974年に22,275人が流入し、うち34%がマデイラ島からのものであったとされている。Arroteia[1983]pp.47-51.
(30) なお、第4表はマデイラとアゾレスを除いたものであるが、それらを加えた総人口についてみても、1981年に比較して1991年の人口は絶対的に減少している。それは、いわゆる人口問題の先進国化に加えて、先述のヨーロッパへの新しい移民の動きを示すものである。Barrero(ed.)[1996]に所収の人口問題の分析を参照。
(31) たとえばSilva, M. et al.[1984]は、引揚者を含めて、移民からの帰還者の問題を地域開発の問題と合わせて考察し、Pires, et al.[1987]は、1981年のセンサスをもとに、全面的で詳細な分析を行い、フランスやイギリスの旧植民地からの引揚者との比較という視角を提起している。Carrington & Lima[1996]は、急激な移民流入の労働市場へのインパクトの分析という視角から、革命後のポルトガルへのアフリカ植民地からの引き揚げ問題を取り上げ、フランス(アルジェリアから)やマイアミ(キューバから)の事例に比較すれば、そのインパクトは大きかったと結論ずけている。
(32) 「引き揚げ」の事情を知るうえで、インタビュー記録は、興味深い。たとえば、アンゴラやモザンビークからの引き揚げ者への著者のインタビューを収録する野々山[1992]参照。また、Kaplan[1998]pp.164-165も参照。
(33) もちろん、独立後そのまま残ったポルトガル系白人も存在する。たとえば、アンゴラに生まれ、MPLA に参加して、Pepetelaの筆名で独自な文学世界を展開し、ポルトガルでも多くの読者を獲得しているA. C. M. P. dos Santosなど。
(34) Baganha & Peixoto[1997], pp.30-31。なお、1995年ポルトガル在住の外国人のうち最大は、カーボ・ヴェルデ38,746人、次いでブラジル19,901人、アンゴラ15,829人、ギニア・ビサウ12,291人、そしてイギリス11,486人、スペイン8,887人、アメリカ合衆国8,484人、ドイツ7,426人、フランス4,743人、ベネズエラ4,554人、そしてようやく、モザンビーク4,368人、サン=トメ・プリンシペ4,082人が登場する。Lopes[1996b]を参照。
(35) このようなポルトガルの移民問題の新しい様相は、様々な議論や研究の対象となっている。 たとえば、1989年のプロジェクト、「EECの南ヨーロッパ諸国への移民」の報告書で、ポルトガルの移民受け入れについてコンパクトに概観するEsteves[1991]、ポルトガルへの移民の特徴づけを提起するPires[1993]、1980年以降のポルトガルをめぐる国際労働力移動の新し形態について、統計をもとに特徴づけるPeixoto[1993]、ポルトガルの入移民に対する政策問題に関する Leitao[1997]、ポルトガルのカーボベルデからの移民社会についての社会心理学的調査に基づく研究であるSaint-Maurice[1993], Saint-Maurice[1997]、ギニア・ビサウからの移民について特にポルトガル系の住民とアフリカ系とを区別して、そのアイデンティティの問題も考察するMacahado[1998]、より一般的にポルトガル系アフリカ人の第2世代についてそのアイデンティティの問題を追及しているContador[1998]、 さらにリスボンのスラム地区に居住する移民についてのPerista & Pimenta[1993]、ポルトガル北部と隣接するスペインのガリシア地方からのポルトガルへの移民の歴史的考察で、18世紀から1930年代までをカバーしてその基本的特徴を示すLopo[1993]などもある。移民と人種主義についての最近の議論につては、Areia[1998], Falcao[1998], N’Ganga[1998] が役立つ。なお、 Costa[1996]は、1974年革命以後のポルトガルにおける難民流入に関する問題についての多角的かつ詳細な研究であり、1974年から1993年までの期間における、家族を含む難民申請者の総数を、1万0990人、としている。その内訳は第6表のようになる。そのほとんどが、内戦の激化した旧ポルトガル植民地からのものであることがわかる。
(36) たとえば、筆者も参加したシンポジウムでのスコットランドの黒人コミュニティ活動の実践家の報告で、このような方向性は明瞭に現れている。すなわち、歴史的には人の移動は普通のことであり、キリストも、ムハンマド(マホメット)も移民であった。人の移動が問題なのではなく、移動した人が問題をかかえている、それをどう解決するかが問題なのだ、という議論である(Gessesse[1998])。ポルトガルでの研究動向として、 Rocha-Trindade, (ed.)[1993] は、1990年代初頭の移民問題について、ヨーロッパ規模の視野で新しい視角で取り組もうとする試みの一つであり、Silva, et al.(ed.)[1993]も、同じく、新しい段階に移りつつあるポルトガルの移民問題について歴史的考察も含めて全面的に再検討しようとする試みである。そこでは、 ポルトガルの移民問題と移民政策への簡潔な概観であるRocha-Trindade[1993a]とともに、東欧からの移民に関するCopeland[1993]やECの発展と移民問題に関するCallovi[1993]、移民流入の恐怖に関するTomasi & Miller[1993]などの幅広い議論が収録されていいる。 さらにTomasi & Miller[1997]は、フランスとアルジェリアの関係との比較で南ヨーロッパの問題について、特にかつての送り出し国から受け入れ国になってきた南欧諸国の課題をまとめている。Wenden[1997]も同様に、新しく移民受け入れ国になってきた1980年代以降の南欧諸国の問題点について総括している。 ポルトガルでのエスニシティの問題についてMachado[1993]、マイノリティの概念についてRocha-Trinidade[1993b]の問題提起がある。「帰還」神話を批判的に検討するMonteiro[1994]は、社会学者によるポルトガル移民問題への再考として、またRocha-Trinidade, et al.[1995]は、ポルトガルの社会人大学(オープン・ユニバーシティUnibersidade Aberta)の教科書として編まれたもので、社会学と銘打った多角的な移民・国際労働力移動研究の集大成として、最近の傾向を示している。さらにRocha-Trinidade, Maria Beatriz,(ed.)[1998]は、1996年8月に行われたポルトガル語圏における文化と市民権の問題を多角的に扱ったコンファレンスの報告集であり、移民問題への接近の仕方の最近の変化を具体化するものといえよう。Goncalves[1996]は、最近のフランス社会学の強い影響のもとに、理論的枠組みを整理したのち、アンケート調査に基づいて実証分析した新しいタイプの移民研究である。また、Neto[1997]は、社会心理学から分化して1970年代以後、国際学会や学術誌の創設によって組織化されてきた異文化交流の心理学(Cross-Cultural Psychology)の研究書であり、古くからの移民の流出と最近の移民の流入によって、ポルトガルは、斯学にとって「天然の実験室」となっているという認識を示し(pp.67-71)、特にフランスでのポルトガル人社会に関する研究を収録している。さらにRocha-Trinidade[1997]のように、ポルトガル知識人のディアスポラの問題に挑戦する論考も現れている。