● 飢餓について ● 木村 万里子


 旅に出る前、21世紀のこの時代でもエチオピアでは慢性的に飢餓が多発しているということで、私はその状況について調べ、エチオピアに行ってはたして痩せずに帰ってくることができるのだろうかと不安になった。けれども実際エチオピアに行って、私たちはアディスアベバでもラリベラでも高級なホテルに泊まり、あまり飢餓を身近に感じることはなかったように思う。移動の途中でも見えた景色は豊富に実ったとうもろこしや穀物が大部分だった。

 しかし、ラリベラとアディスアベバの間で一度食糧配給のようなものを目にしたし、高山地帯の土壌は石が混ざっていた場所がほとんどで、決して耕作に適しているような場所だとは思えなかった。広大な面積を所有するエチオピアであるから、耕地を増やせば飢餓は無くなるのではないのか。効率の低い農作業をやめ、機械化をしていけば収穫率は上がるというアメリカ式農業はエチオピアに適していくことができるのだろうか。私たちが旅をして見えたものがエチオピアの全てであるはずがない、エチオピアの飢餓の状況について考えてみたいと思う。

<現状>
 エチオピアでは、昨年来の干ばつの影響により深刻な食糧不足が続き、人口の20%にあたる約1,400万人以上の人々が被害を受けている。また、穀物価格の高騰や多数の家畜の被害などにより、同国民に急性栄養不良が蔓延するなど食糧事情の悪化は更に深刻化している。エチオピアの子どもの栄養失調・高死亡率には家庭の食糧確保不足、不十分な健康施設・水道設備、知識の不足、貧困、感染症の流行、HIV/AIDSなどすべてが関わっており、5歳未満の誕生率は166/1000である。その全ての死亡のうち、58%の原因が栄養失調である。人口が7106万6000人であるのに対し、慢性的に食物が不足している人間が500万人いて、収穫のよい年でさえ部分的に食糧援助に頼らなければならないという状況だ。

 エチオピアでは人口の84%が直接的あるいは間接的に農業で生計をたてており、またGDP中45%が農業に依存している。しかし少ない肥料使用、害虫や疾病の発生、広範囲に及ぶ高地土壌浸食などの影響もあり農業技術はかなり低く、毎年の収穫量は降雨にかなり大きく左右されている。2000年、2001年の収穫状況は良かったといえるが、収穫量が上がったことで穀物価格は低下し農業従事者の生活は圧迫された。さらに2年間の農業技術の改良は2002年の収穫低下で逆行し、不利な天候状況とそれまで圧迫されていた穀物価格のために投資能力は無くなっており、これによって悪循環が引き起こされたのである。2003年の収穫量の少なさにより、穀物価格は急激に上昇し、その上市場に供給することのできた食物の量はさらに少なくなった。当然人々の生活は苦しさを増したのである。

 このように収穫量の変動が大きいという状況は、この国の食物の危険を増長させており、実際に過去10年間の間にエチオピアにおいて食糧援助を必要としている人間の数は増加を続けている。今年、2004年についても、720万人が彼らの最低食物必要条件を満たすことができずに食糧援助に頼ることになるだろうと推測されている。

 エチオピアの面積は109.7万km²で日本の約3倍、人口は6,430万人である(日本は1億2,743万5,000人)。そのうち農村地帯とされる田舎に住む人は84%であるから、ざっと見積もっても5,400万人あまりが農業に従事している。けれどもこの農業人口で、あの広大な土地を有効利用していくのは困難であるし、国土の約半分は山岳地帯でそのうちの約1割以上である112万7,000km²は森林地帯である。この環境は決して耕作に適しているとはいえず、また標高も高いために作物の種類は非常に限られてくるのである。給水施設・灌漑施設も整っているとはいえないし、首都や観光地のホテルでさえ断水が起こっているので、田舎の山岳地帯の給水設備状況などは厳しい状況であろう(実際に瓶を背に担いで生活用水を運んでいる女性を目にすることができた)。

 農業技術の向上が一番重要で一刻も早く必要とされているように感じてしまうのであるが、しかし、エチオピアの農業の低機能というのは、低い農業技術というよりも価格政策および制度上の環境によるものが大きいのだそうだ。確かに資金不足の現在、ちょっとやそっとの技術向上だけでは大きな飛躍を見込むことは困難であろう。エチオピア政府は飢餓の打破、現在食物供給が不安定である人口の減少を目指し、計画を開発中である。

<国際機関の援助>
 貧しいエチオピアは自国の資金だけでは計画を遂行することができない。エチオピア政府は、国際社会より食糧援助を受けるとともに、国内の資源を可能な限り食糧増産に振り向けるなど対応に努めているが、干ばつ被災民の飢餓の危機を克服するため、更なる支援を必要としている。

 エチオピアはどのような機関に援助を受けているかというと、主に世界銀行、世界食糧計画(WFP)、国連食糧農業機関(FAO)、G8、その他の国連機関、有力な国際NGOなどがドナーとなっているようである(私も実際にエチオピアでそのような機関の看板を多々目にした)。私が出会ったエチオピアの人々は自分たちの力で国を良くしていきたい、と自立を望んでいたのだが、現在は人々の意思に反して、自分たちの足だけでは立つことができず、資金的にも技術的にもさまざまなドナーに頼らざるを得ない状況である。

 エビアン・サミット以降、G8の援助機関及び他のドナーは、エチオピア政府の指揮の下で「プロダクティブ・セイフティネット」の計画及び支援のために緊密に協力してきた。セイフティネットは、慢性的に食糧事情の不安定な人々の資産を保護し、食糧市場の機能を促進し、農村における緊急の投資を支援するものである。今後3年〜5年の間に、このセイフティネットは、慢性的な食糧不足に陥っているエチオピア人にとって緊急援助を代替するものとなるだろう。エチオピア政府は2000年に、国家開発5カ年計画の反省に基づき見直しをした「第2次国家開発5カ年計画」を策定した。また、2001年には、同計画に基づき作成された暫定版貧困削減戦略ペーパーT-PRSPを世銀が承認している。世界銀行及びさまざまなドナーと共に、G8ではエチオピア政府の新たな枠組みが、飢餓の循環を打破するとともに、他の国の参考にもなるものとし、支援をしている。G8は2009年までにエチオピアで慢性的な食糧不足に直面している500万人の食糧安全保障を達成するという、エチオピア政府の目標実現のための改革プログラムを支持し、エチオピアの「新食糧安全保障連合」と協力をしている。さらにG8では、2006年までにエチオピア全土において土地使用権システムを確立することへの資金援助を通じて、土地改革も支援しており、農業そのものだけではなく農村インフラの整備への支援をも拡大している。エチオピアの農業市場整備及び地域的な経済統合を促進するために、各国が協調して作業を進めている状況である。

国別援助状況
(2000年 単位:100万ドル)
(1) アメリカ 129.8
(2) ドイツ 38.6
(3) 日本 34.0
(4) イタリア 26.0
(5) オランダ 25.7

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ethiopia/data.html参照)

<日本の援助>
 では日本はそのような中でどのような支援をしているのか。日本政府は、エチオピアに対し、2億円を限度とする額の無償資金協力(食糧援助)を行うこととし、このための書簡の交換が今年の5月に行われた。干ばつ被災民が増加しているという状況の下、エチオピア政府は干ばつ被害による食糧不足を解消するための小麦の購入に必要な資金につき、日本政府に対し無償資金協力を要請してきたのである。この計画の実施により、エチオピア干ばつ被災民を対象に食糧事情の改善がはかられることが期待されている。

日本とエチオピアの経済関係
(1)日本の対エチオピア貿易 (イ)貿易額(2002) 輸出・・・・・58.10億円
輸入・・・・・53.16億円
(ロ)主要品目 輸出・・・貨物自動車、バス、乗用自動車、無線用送信機器
輸出・・・コーヒー、羊皮、採用油の種、ろう
(2)日本からの直接投資 1951年〜1974年に13件計683万1千ドル(1974年以降実績なし)

日本の援助実績
@ 有償資金協力(2000年度まで、ENベース)37.0億円
A 無償資金協力(2000年度まで、ENベース)534.84億円
B 技術協力実績(2000年度まで、JICAベース)121.3億円

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ethiopia/data.html参照)

<未来>
 このようにエチオピアの飢餓は国際社会の全面的な支援を受け、改善の努力がされているわけではあるが、飢餓の一掃というのはなかなか難しい問題であるように思う。飢餓の根底には、現状でも述べた通り低い農業技術に加えて、政策や経済といったことが深くかかわっているからである。たとえば収穫高が3倍になる品種を海外から開発し持ち込んだところで、国の資金力がない、政策がうまく機能していないというような状況では一向に飢餓の終わりは見えてこない。飽食の国日本で生まれ育って、私にとって飢餓というものはいまいち実感のわかないものであったし、エチオピアを訪れてもそこまで身近に感じることのできるものではなかった。しかし、飢餓の片鱗は見て取ることができたと思う。それはお金をくれと頼む人々であったり、お菓子をくれと近寄ってくる子供や、水がほしいと言う子供たち。

 できることならば、エチオピアの人々が望むように彼らの手で彼らの国を作っていってほしいが、現状はまだまだ厳しい。世界の手を借りてやっと立っていけている。人々の生命にかかわる問題であるからこそ、一刻も早く飢餓を無くし、国づくりの次の段階に入っていけるようにエチオピアと周りとが互いに協力して、彼らが望むような自立した国になっていけたならよいと思う。それまで、私もエチオピアとほんの少しでも関わっていきたい。


参考にしたページ
外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/ethiopia/data.html
FAO http://www.fao.org/documents/show_cdr.asp?url_file=/docrep/006/J1341(リンク切れ)
世界銀行 http://www.worldbank.or.jp/01tokyo/03annual_report/pdf_ar01/ar2001_8.pdf
データランキング http://dataranking.com/Japanese/ee01-1.html


● エチオピアの音楽職能民アズマリ ● 篠塚 俊彦


 音楽ははるか昔から、我々人類の社会の中ではぐくまれ、昇華を繰り返してきた文化である。その過程の中でそれは時として人が生活して行くための巧みな戦術、いわば生業の手段として成り立ってきた。エチオピア、アビシニア高原の代表的な音楽集団であるアズマリは、長い歴史のなかで培ってきた生きるための手段としての音楽を社会生活において営んでいる、かつての日本の琵琶法師のような存在である。もっともその性格は大きく異なっているが。

 アズマリはアムハラ地方に限らず、エチオピアを代表する伝統音楽の担い手として人々に親しまれている。彼らは、町の酒場、結婚式の会場など祝祭の空間であればどこにでも、単弦楽器のマシンコとともに現れる。マシンコはエチオピアにて唯一弓で弾く楽器であり、ひし形の木のフレームに山羊の皮を張り、弦は馬の毛を用いたものが一般的だ。このマシンコ、単弦楽器でありながらアズマリは巧みな指の動きでとても単弦とは思えないような多くの音階を使って演奏する。エチオピアの伝統的な音楽は、シンプルなメロディの繰り返しによる曲が多く、そのシンプルなメロディにのせた即興の歌でたちまち聴衆を笑いの渦に巻き込むのがアズマリだ。アズマリの歌によれば、時の政権から紛争、HIV、男女の恋など様々な話題がおもしろおかしいものになってしまう。オーディエンスもアズマリに対し頻繁に言葉を投げかけ、それに対しアズマリはすぐに即興で歌詞を作り風刺の対象にもする。彼らにとってはその場の対象全てが風刺の道具になるのだ。

 アズマリは18世紀から19世紀半ば、ザマナ・マサフントと呼ばれるアビシニア戦乱の時代、地方の封建諸侯たちが乱立し領地争いを繰り広げた時代に、王侯貴族の保護のもとに繁栄を極めたといわれる。彼らは貴族達の長旅に召使いとして参加し、食事のあとや野営の晩のひとときに主を楽しませ、厳しい旅の疲れをねぎらった。彼らはしばしば戦場にマシンコを携えて現れ、兵士達の士気を高めるために歌ったとも語り継がれている。また中央のニュースをわかりやすい歌で地方に伝え歩く広報係の役もこなした。従来アズマリは、王家の系譜を辿り、歌の中で王のことを褒め称え、時には辛辣な言葉でその行政を批判したりするなどの役割も担ってきた。1931年にゴッジャムを訪れた人類学者のグリオールは、州の統治官ラス・ハイルのパーティーに招かれたアズマリが、ラス・ハイルの面前で彼やその息子達の無能さを徹底的にこきおろし、揶揄の言葉がその隣にいたグリオール本人にまで及んだことを報告している。

 風刺に満ちた即興詞がアズマリの特徴であるといえるが、”サムナワルク=蝋(ロウ)と金”とよばれる暗喩による彼らの詞の表現方法も特筆すべきであろう。蝋は詞の表層的な意味を表し、その蝋が次第に溶けていき、歌のかくれた本意、すなわち”金”の部分が徐々に現れ出てくるというのである。

 その例を一つ紹介しよう。以下の詩はアズマリの代表的な「ゼラセンニャ」と言う詩の一部である。詩は四行でひとまとまりになっているケースが多く、短いながらもその物語は完結性が高い。蝋と金は詩の各まとまりの最後に出現する。その蝋を溶かすにはちょっとした言葉遊びが必要だ。
近頃の農民は
農地に関して何も知らない
ここは砂地だと決め付けて通り過ぎてはいけない
耕せ!ここは土であるから
「耕せ」の部分が蝋と金の出現する場所である。命令形の「耕せ」はアムハラ語で「アラソウ」であるが、ここでこの単語を「アラ」と「ソウ」というように真ん中で真っ二つに割ってみると、「アラ!」=「え!あれ!」という感嘆詞と「ソウ」=「人」という名詞となる。こうすると、
あれ!人は土である
金=人は(いずれ死んで)土になっていく
という隠れた意味が出てくるのだ。このような暗喩を使ってアズマリは主君を攻撃したりもするのだ。蝋と金は難解で厄介な暗喩表現であるが、エチオピア人の心理を理解する鍵となる何かが、蝋の下に通奏低音のように流れているのかもしれない。

 18〜19世紀のヨーロッパ人による旅行記にもしばしば、”放浪の””さまよい歩く”吟遊詩人、と紹介されるアズマリだが、近年アディスアベバのカサンチスと呼ばれる地区では、地方から出稼ぎにやってきて、バーの専属歌手として働くアズマリが増えている。それらのバーは”アズマリベット”と呼ばれ、毎晩多くの人々で賑わう。

 このようにアズマリははるか昔からエチオピアという地で音楽を奏でてきたおり、彼らは庶民から王侯貴族など幅広い間でその役割を果たしてきた。最近ではヨーロッパなどで公演を行うような「花形スターアズマリ」も増えてきており、その活動の幅も広がってきている。それでもあるか昔から続いている巧みな技巧と「蝋と金」は今も変わらない。そんな彼らの演奏を聴くことにより、エチオピアと言う国の本質を知ることができるかもしれない。