前半へ→  ←前半へ


● ハヤーティー・アザーブ! ● <<後半>>


<若者たちになにを語るか>
エルサレムの瀟洒なホテルの中庭で、「壁」反対キャンペーンのリーダーから、運動の現状を聞いた。若者たちへの働きかけを強めて、環境団体のネットワークとして発足したキャンペーン運動を、もっと強力な運動体にしていきたい、という。「和平協定」につながる動きを作り出したパレスチナ住民の抵抗運動、インティファーダは、若者たちに担われた。自分たちは、そのインティファーダ世代だ。「壁」を壊していく運動は、今の若者たちの動きがカギだ、と。…だが、若者たちは、原理主義組織に惹かれ、自爆攻撃を志願しているではないか。若者たちのそんな動きは、どんなに崇高なものであったとしても、「テロは良くない」という声にかき消されてしまう。じゃあ、どうすればいいのか。ちがう戦略はないのか。若者たちになにを語るのか?…ぼくは、アラファトをやせぎすにしたようなすてきな笑顔のリーダーにそんな質問をしたかった。しかし、ことば足らずのせいで誤解されてしまい、彼は、若者たちの怒りを代弁・力説しはじめた。彼自身がインティファーダに参加するにあたっての屈辱の体験。そんな若者をテロリストと呼ぶことの不当性。…夜も更け、時間がなくなってきた。この会もお開きの時間です、とAさん。ひとつだけ言わせてください、と私。私も日本の大学で教えているけど、日本の若者だって、テロ非難で一致してるわけじゃないんだ、9・11の時だって、いい気味だって、喜んだ学生もいたんだ、…。そのことばを聞いてAさんが顔色を変え、急いで会の終了を宣言。ぼくも、ふと我に帰り、イスラエル軍事支配下エルサレムのおおっぴらな場所で、誘導尋問的に反米・親テロ発言をしてしまった自分のうかつさに、ひやりとして、反省。原理主義組織と一線を画し、パレスチナ自治政府の妥協路線を批判しながら、自爆覚悟の人々と渡り合ってぎりぎりのところで、政治的綱渡りのような平和的キャンペーンを展開しようとしている彼らに、なんてばかなことを。…どうしてもっと元気付けるようなことを言わなかったのかしら!バカ!

<原爆開発・投下の確信犯>
8月7日に日本を出る前日、テレビで広島原爆記念日特集番組を見た。原爆開発に参加した科学者で、原爆投下の飛行機からキノコ雲を撮影したという80歳を超えるアメリカ老人が、60年後の広島に乗り込んできて、その時地上にいて熱戦と放射能を浴びた被爆者と対面した。”I never apologize. You apologize! Remember Pearl Harbor! My friends, good people were killed.…People often talk about innocent victims. But there were no innocent people. Even children worked for the war.”(「私は決して謝らないよ。謝るのは日本人のあんたたちのほうだよ。真珠湾の卑怯な攻撃を忘れちゃいけない。とてもいいやつだった友だちがたくさん殺されたんだ。…罪もない人々が犠牲になったなんてよく言われるけど、それはちがう。罪もない人々なんていなかった。子供だって戦争のために働いていたんだ。」)「過ちは繰り返しませんから」という誓いの碑をもつ広島の、米老人より少し若い被爆者男女は、長年患ってきた原爆症に加えて、一方的な断罪のことばを投げられて、失望と苦悶の表情が露わだった。2人が米老人と握手して別れたのが不思議なくらい。…そのときぼくはなぜか、「広島の原爆のことを聞いて、私たちは喜びました。これでやっと、数千の同胞を虐殺した日本軍が敗れる。」と語ったシンガポール老人の証言集会を思い出していた。…そう、ほんとうの幼児・赤ん坊を除いて、いや、こどもさえ将来の日本兵になり、日本兵の慰めになるとすれば、ほんとうに罪のない、イノセントな日本人なんていなかったかもしれない。…でも、その理屈って、無差別テロかも。あの米老人のことばは、そっくりそのまま、Pearl Harbor(真珠湾)を第3世界のあちこちの地名に入れ替えて、9・11に始まる連続「テロ実行犯」のことばになりそう。…今の実行犯はほとんどが、「テロ行為」に命を捧げてしまったが、あの原爆テロ実行犯だけはおめおめと生き延びているのだが。

<エルサレムのお坊さん!>
テロにテロ。暴力に暴力。そんな歴史の中で、アメリカの強大な軍事力独占という圧倒的な権力の不平等を前に、ついに生れてきた崇高な原理主義的な愛。っていうか、自爆攻撃。やがて原水爆のたぐいの大量破壊兵器を手にして、都市ごと、国ごと消去しようという自爆者も現われるだろう。いや、これまで現われなかったのが不思議なほど。…どうしてこうなったのか。ガンジーの非暴力・不服従の抵抗運動を継ぐものはいないのか。
エルサレムの金色モスクと嘆きの壁、キリスト教各宗派の教会の十字架を見渡せる我々のホテルの屋上。突然、黄色い僧衣を着たお坊さんが、現われる。エルサレム近郊の村に住みこんで数年になるという、うちわ太鼓を叩いて世界中の人権侵害の現場に現われることで有名な日本山妙法寺僧侶のひとり、Yさん。我々の求めに応じて、わざわざ村から出てきてくれて、しばし談論。…すすめられるままにこちらで覚えたというタバコを吸いながら、この地の人々の苦難、イスラエル政府のやり口、人権・平和団体といっしょに自分のやってきたことを、淡々と、語る。イスラエル軍の弾圧が激しいときには、うちわ太鼓を叩いて歩く彼のあとを、戦車が追い回し、街から追い出されたこともあったという。…この地ではまったく異質な存在。いや、僧侶になってから一切のお金をもたずに世界を旅してここに現われ、今でも、人の好意にのみすがって暮らしているというのだから、自分で労働して食らう、という思想とは、まっこうから対立する存在。「世界中どこにいっても、たいていの所では、人ひとり余分に食わせるくらいの余裕はある」というYさんのことばは、たしかに真実だ。「労働は自由をもたらす(Arbeits macht frei)」というアウシュビッツ収容所に掲げられていた標語は、殺される運命にある収容者への皮肉ではなく、やはりナチスにつながる思想の本質を示すものかもしれない。なんでもかんでも働かせようという思想。自分の仕事のために土地を奪い合い、役に立たない者を抹殺しようという発想は、そんなぎちぎちの労働観から生れるような気がしてくる。働かない人を食わせるという豊かさ。こんな不思議なお坊さんを食わせることで、ここの人々が豊かになれるとすれば、そんな気もちの豊かさが、平和を造る力につながるのかもしれない…。

<ホロコースト記念館>
いつかイスラエルのユダヤ人コミュニティの人々ともじっくり話してみたいが、今回は、断念。空いた時間を利用して、エルサレムの観光スポットになっているホロコースト記念館を訪れた。長大なドキュメンタリー映画「ショア」や、「シンドラー」、最近見た「うそつきジェイコブ」などの、収容所やゲットーの生活と人間模様を描く名作映画の感動を彷彿とさせる充実の展示。…ただ、ヨルダンからの入国以来、銃をもつ兵士の前で、パレスチナ人の老若男女といっしょにパスポートをもって列を作って並んだり、高い収容所の塀のような「壁」や鉄条網の傍らで、どきどきしながらチェックポイントを通過する生活を繰り返してきたので、展示写真のユダヤ人迫害が、記念館の外でのパレスチナ人迫害とだぶって見えてしまう。…熱心に見学する、英語、フランス語、ロシア語のガイドつき、世界各国からのユダヤ系団体らしき観客を見ていると、この人たちに、展示館の外で現実に進行している迫害に照らして、この展示がどう見えるのか、聞いてみたくなる。…ふと、自分が親から受けた暴力を、子供に対して繰り返してしまう、というDV(家庭内暴力)の世代間連鎖の話を思い出してぞっとする。装甲車にジープ、自動小銃という圧倒的な装備を固めて、パレスチナ人の老若男女の列を居丈高に検問・管理する、イスラエルの若い兵士たち。男性3年、女性2年だったかの徴兵制だから、女性兵士の姿も目立つ。この若造たちの頭脳に、ナチスが祖父母に対して行った暴力の記憶が、暴力を受けたものの苦しみだけ消去されて植え付けられているとすれば…。展示の最後のあたりでは、ナチスに対抗して武器を取って戦う各地のユダヤ人たちの姿が強調される。イスラエル建国で全展示は終わり、めでたし、めでたし、と。…うーん、ユダヤ人は、苦難のあとに、ついに武器をとって立ちあがり、ナチス・ドイツを倒し、ナチスに替わる強国を創り出した、という物語でまとまってしまうとすれば…。徴兵拒否の若者たちの運動を取材したNHKドキュメンタリーを見れば、若者たちが完全に軍国主義に染まりきっているわけではではないようにも見えるのだが。

<ジェリコーの家族>
とにかく暑いジェリコーの難民キャンプで、抵抗するパレスチナ人一家の苦難の話を聞いた。おじいさん、おばあさんの家の隣には、つい最近数ヶ月前に、イスラエル軍が壊していったという親戚の家の残骸。家の中には、息子たちの写真や肖像。イスラエル軍に殺されて「殉教した」PLO活動家の息子、拷問で精神に異常をきたした息子、命を狙われてスウェーデンに亡命し、そこでもイスラエル大使館と果敢に闘ってパレスチナの大義を主張しつづけているという息子、この街でパレスチナ自治政府の警察官として道路検問の責任者をやっている息子。…コンクリート造りで一階建て、3室プラスバスルームのシンプルな家の前には、ブドウの棚が作られ、レモンや、様々の果物などを所狭しと植えてある。…1948年まだ10代のときに、イスラエル建国とともに始まる戦争で、故郷を追われて以来のじいさんの人生はまさに苦難。ヨルダンの首都アンマンに逃げたが、そこで食い詰めて、この難民キャンプに送られる。1967年の戦争でキャンプが砲撃を受けて攻撃され(「ほら、あの山から撃ってきた」と指差しながらの話)、再びアンマンに避難。しかし難民で溢れ帰るアンマンの酷い暮らしに耐え兼ねて、仲間たちと、密入国してイスラエルに占領されていたジェリコーまで戻り、難民キャンプの自分の家を再建。以来、ここに住むが、こんどは、息子たちの闘いと苦難の人生がここで展開していく。…話を聞いているうちに、じいさんの家はいつのまに、多くの親類や隣人で溢れ帰り、ぶどう棚の下は、子供たちでいっぱいの幼稚園状態。同行の学生の何人かは、その子供たちと遊んでヒーローに。…なるほど、どこにいっても、パレスチナ人は、ひとつのカップルに7人、8人の子だくさん。「壁」政策は、何よりも、増大するパレスチナ人人口の脅威に頭を悩ましたイスラエル政府が、少子化傾向のユダヤ人だけからなる純粋なユダヤ国家イスラエルをつくるために、パレスチナ人を隔離しようとするものだ、という説明もうなずける。…じいさん、ばあさん以来の抵抗の空気をしっかり吸って、うじゃうじゃと大きくなっていく子供たち。なるほど、これは、自然がもたらす希望かもしれない。

<ベツレヘムへの旅>
都市全体を殺してしまう、ひどい「壁」の代表を見るという目的で向かったベツレヘム。ビールゼイト大学での重い話し合いのあとのややほっとした気分。特に人と会う約束もない。検問が厳しいかもしれないが、壁を突破すれば、観光メニューとして有名な生誕教会が待っている。いつもの立派な舗装ハイウェイを、右や左に要塞のような入植地群をすっとばしながらエルサレムをぬけ、南へ向かう。…検問がある。壁はまだない。バスを止めた銃を手にしたイスラエル兵。案内のパレスチナ人Aさんになにやら問いただしながら、バスの中に銃をつっこみながら入り込んでのぞきこみ、いけるものならベツレヘムにもいってみたいといっていた、パレスチナ人Bさんに視線を投げる。AさんとBさんとのやや緊張したことばのやりとり。Bさんは、前日に訪問したエルサレムの難民キャンプ住民代表で、恰幅のいいおじさま。地域の単科大学の教授でもある。その日は朝から大学訪問に同行し、すっかりわれわれの仲間になっていた。レンズの厚いめがねをかけ、どこか顔が日本人に似ているので、いっしょにバスに乗っていれば、日本人観光客で通用して、検問もフリーパスだぜ、などと冗談を言っていたのは前日のこと。…と、大柄のBさんが立ち上がり、なにやら叫ぶ。Aさんはイスラエル兵に落ち着いた口調でなにやら通告。イスラエル兵が、バスから降りると、バスは発進。検問所を通り抜けるや、Uターンして百メートルほど手前にあったバス停留所前の信号まで戻り、停車してすばやくBさんを降ろすと、再びUターンして検問所へ。「運転手以外のガイドは1人だけだ。どうして2人いるのか、と言われたんです。」と、Aさん。その前日の難民キャンプでの出会いから、ずっとBさんの人柄のよさ、パレスチナ人社会での社会的地位の高さ、人々の尊敬を集める様子をみてきた私たち。そのBさんが、居心地のよいバスから突然引きずりおろされて、路上へ捨てられた。…「え、Bさん、どうして降りちゃうの?」そんな声に、「バスをを乗り継ぐか、タクシーをつかまえて帰るしかないですね。」とAさん。みんなの視線を受けて、一瞬こちらを振り向いたようにも見えるBさんの背中がどんどん小さくなる。「そうまでしていかなくっていいよ。のせて、いっしょに帰ろうよ」と、だれかが小さい声で言う。それはみんなの声を代弁していたと思う。…その間に、バスは猛スピードで検問所に突進し、停車して、おそらく一部始終を見ていたイスラエル兵の許可を得るや、さらに猛スピードで、検問所を後にした。
やがて、有名が「壁」が見えてきた。高い塀に囲まれた収容所に入り込む気分。「ようこそゲットーへ!」という英語の落書きが読める。バスの中の重苦しい空気にぴったりの落書き。こっちの検問は難なく通過し、ベツレヘムの町へ。壁による封鎖が観光客を減少させ、目立つようになってきたという、シャッターを閉じて、閉店した店。…それでも、そこそこの観光客で賑わう生誕教会。
だが、私たちには、2000年前のだれかの誕生より、Bさんの屈辱が重くのしかかる。翌日、元気なBさんと再会した私たちは、思わずパレスチナ式にキスをしそうなほど握手し、抱き合い、バスへの生誕?いや復活を祝った。

<パレスチナのハッタ>
8年くらい前の初めてのパレスチナ訪問で、ガザ地区を訪れた時に、白と黒との編み込み模様の頭にまくスカーフのようなハッタ、それを頭に押さえる黒い輪、そして長袖ワンピースで詰め襟のネグリジェのような真っ白なガーラビーヤ、要するに、パレスチナのお年寄りの正装セットを買った。前回訪問のレバノンの難民キャンプでは、日差しの強いあの地の気候のもとで、意外に重宝したので、今回も持参。人々の反応を見ながら、特にイスラエル兵の検問で難癖をつけられないように神経を使いながらも、なるべく着用。すこぶるおもしろい経験をした。…人々、というか、パレスチナ人が、とにかく喜んでくれる。Aさんに言わせれば、白と黒のハッタは、「パレスチナ人のアイデンティティですよ」と。Fさんには、「おお、アブー・アンマール(アンマールちゃんのパパ:アラファトの愛称)!」と敬礼された。ヨルダンでは人々の反応は特に強烈だった。アンマンの街をそのハッタで歩けば、パレスチナ人らしき通行人はこっちの目を覗き込み、こっちが微笑み返すと、感動して握手しにくる。ちょっとしたスターになる。同じハッタをかぶった老人が、やはりパレスチナ刺繍のような民族衣装を着た老婆といっしょに街角に座って、タバコやライターなどを売っている。アンマンの街でこのハッタは珍しいので、こっちの目も釘付けになるが、むこうもこっちをじっと見詰める。こっちはスターなので、愛想よく近寄り、微笑み掛けてアラビア語で挨拶。じいさんの驚きの顔は満面の歓びに変わり、潤んだ目でぼくを見つめ、何度も固く握手をかわす。となりの老婆も、一瞬、タバコを売りつけようとするが、パレスチナのハッタを見る歓びに我を忘れて、わたしと握手。別れの挨拶をしながら振り返るたびごとに二人は手を振る。五度六度、信号を渡って、振り返るたびごとに手を振る。向こうは、じっとこちらを見ているのだ。見えなくなるホテルの角のところで最後の手を振りながら、目が涙でいっぱいになった。…アンマンでわたしのようなでかい東洋人がパレスチナのハッタをかぶって往来を歩くことは、伝統的な差別に加えて拉致やテポドンでいきり立つ日本人の多い街で、すらりとした黒人モデルが、チマ・チョゴリの正装を着てさっそうと往来を歩いてみせるようなものかもしれない。在日の人々は、悪意のなさを確認すれば喝采し、偏見の強い日本人は、当惑するだろう。

<女はつらいよ!・・生かしめんかな>
アンマンで余分にできた時間を利用して、死海に泳ぎに行った。べらぼうな値段の入場料がいるビーチにも、少しばかりの地元家族がいて、長いワンピースの民族衣装のまま女性たちが、ほんとに体が沈まない死海でちゃぷちゃぷ。地元民でいっぱいの無料の公共ビーチは、女性が泳ぐと人だかりがして危険だから、行くな、と言われた。このビーチでは、ビキニのスペイン人観光客の団体さんが、泥を塗りあってきゃっきゃっ。・・・はるか対岸には、イスラエルが占領する西岸地区が広がり、ジェリコー(アラビア語ではアリーハーという)の町が見えている。
7人も8人も子どもを生み、家事に追いまくられ、さらに物売りや農作業をやり、検問や弾圧、強制立ち退きや肉親への迫害を経験して生き延びてきたパレスチナの女性たち。17、8歳の女性たちがとりわけ輝くのは、そんな苦難の人生を予感する武者震いからだろうか。パレスチナ人として今は、あらゆる将来への見通しを絶たれた上で、生き延びるために伝統的なジェンダー役割を選んでいるかに見える彼女たちも、条件が整えば、自分を伸ばす仕事と場所を探して、晩婚・少子化の道を進むだろう。皇国教育で育てられた純粋培養の若者たちからなる大日本帝国の特攻隊と違って、自爆を選択するかもしれない彼女たちは、ずっと開かれた教育を受け、多くの情報を持っている。親たちも、自爆を奨励する教育や文化に子どもたちを無防備にさらしているわけでは決してない。絶望的なまでに圧倒的な軍事力の格差、それに基づいた暴虐の連続が、若者たちを駆り立てている。悔しいけど、今のぼくには、彼女たちをうまく説得することはできない。でも、絶対あきらめない。むざむざ、死なせてなるものか。殺させてなるものか。

(2005年9月8日)