● ハヤーティー・アザーブ! ● <<前半>>
(男はつらいよ! 女はもっとつらい・・・)

―2005年夏、パレスチナ―


<ハヤーティー・アザーブ!>
ヨルダンの首都アンマンのタクシー運転手は、ほぼ例外なくパレスチナ人だ。15分から20分ほど乗っても、円に換算すれば200円くらいなので、イスラエルにいったことがばれて、ヨルダンからシリア国境に入ったところの入管で入国拒否・アンマンに強制送還され、シリア発だった帰りの航空券の替わりを手配するやっかいな交渉の交通手段として、乗りまくる。乗るたびごとに運転手の身の上を聞く。…その運転手は、あんたはどこの国から?という私のアラビア語の質問に、「出身を聞きたいのかね。国籍を聞きたいのかね?出身はパレスチナだけど、国籍はヨルダン人さ。」と流暢な英語でまくしたててくる。「おれはヨルダンに住めば、ヨルダン人。アメリカに住めばアメリカ人。日本に住めば、日本人さ。それでいいじゃないか。いつまでたってもパレスチナ人といいたがるやつが多いけど、違うね。」歴史の話になり、第一次中東戦争のあとで、東エルサレムやヨルダン岸西岸地区を自国領土に編入するというヨルダン国王の申し出を断った、パレスチナ住民指導者への非難がひとしきり。あのときヨルダン王国に入っておれば、1967年の戦争でイスラエルに軍事占領されて以来の占領地としての苦難はなかったのに!というわけだ。…「英語、うまいすね。外国にいたんですか?」と聞けば、ちょっぴりうれしそうな顔をして、クウェートの大学の秘書科を卒業した、そのあとレバノンの大学にいったが、内戦が始まって、とうとうヨルダンに逃げてきて、ごらんのとおりさ、と。「ハヤーティー・アザーブ!ですね。」といえば、運転中なのにこっちの顔をじっと見ながら大笑い。…やがてややしんみりして、そのことばは、おれたちには、歌の文句を思い出させるのさ、と。

<私の人生は、痛み>
「ハヤーティー」は、「私の人生」。「アザーブ」は、「痛み、拷問」などの意味。直訳すれば、「私の人生は、痛み」「わが人生は拷問なり」とでもなろうか。日本語の流暢なパレスチナ人のAさんは、寅さんの映画を引きながら、「男はつらいよ」と訳した。そういう雰囲気のことばだというのだ。…エルサレムでの最初の夜、われわれの案内をしてくれるAさんとその友人で難民キャンプに住むCさんが旧市街のホテルに現われ、われわれ全員と近くの食堂で夕食をとった。Cさんの両親は、最初の戦争で郷里を追われ、ようやく住み着いたエルサレム旧市街の家を、さらにユダヤ教の聖地「嘆きの壁」の整備のために破壊されて追われ、「二度難民になった」人。いまはエルサレムにある唯一の難民キャンプに住む。さらにキャンプに移ってのちの苦難の話、最近の壁のことまで聞く。食事も終わる頃、Cさんが手の平に彫った刺青を見せてくれた。そこには、黒々としたアラビア文字で、「ハヤーティー・アザーブ!」

<日本の市民たち>
考えてみれば、不思議なメンバーだ。今回の旅行は、3年前にレバノンにあるパレスチナ難民キャンプへの日本のNGO「パレスチナ子どものキャンペーン」主催のスタディ・ツアーでいっしょになった画家や高校教員たちの企画。コア・メンバーは昨年夏に続いての2回目の西岸地区訪問。それだけに、現地での人脈も豊かで、短期間でいろんな人々と出会うことができた。なにか組織を作ったり、名乗ったりするわけでもなく、パレスチナのことを憂慮して、なにかできることはないかと、現地を見ながら考える日本の普通の市民たち。そんな私たちを受け入れ、貴重な時間を割いて、率直に語り、おいしい食事、甘ったるい飲み物をどっさり出してくれたパレスチナの人々。フェアトレードや国際機関、NGOで活躍する現地在住の日本の人々。・・・普通の市民が、こんな旅をやっちゃえるようになったとしたら、世界の民主主義の未来も、そう悲観したもんじゃないかも。こんな交流が、だんだんリアルにものを見て行動する市民の底力を造っていくとすれば。・・・私は、この旅の話を聞いて、ぜひ同行したいという3人の学生とともに参加。もちろん学生諸君は、まったくの「自己責任」で、大学とは一切かかわりなく、たまたま同じ顔ぶれの人たちと、現地で会っちゃった!という想定。パレスチナの有機農業、大学や学生の様子が見れるといいね!などと。…総勢10人、2週間のパレスチナ訪問。

<パレスチナ有機農業実習!>
草取り、収穫、種まき。2日間にわたって、農作業に参加させてもらった。イスラエル政府が造った「壁」のすぐ脇に広がる畑にしゃがみこんで、雑草をむしる。適当にむしっていると、畑の主Fさんと奥さんのGさんが、ほれ、こんなふうに、と、丁寧に根っこから引き抜くように指導。…私たちの大学キャンパスの「有機農業実習」畑でも、雑草はそう抜かなければ、やばい。この初夏、草取りをさぼったために、サツマイモがついに雑草畑の下草と化していたのを見てきたばかりだ。・・・一見モンペに見えるズボンに長袖シャツ、手ぬぐいともベールともつかぬ布で頭から耳、首を覆い、ほとんど日本の農婦さながらの姿でしゃがみこみ草取りをするGさんの作業の早いこと。10センチほどのびたマメ科作物の芽は、しばしば雑草に埋もれ、見分けがつかない。「わたしもうやだ、農家の嫁になれない!」留学中のイギリスから参加したジャーナリスト志望のエリコの悲鳴。「せっかくのびた草さんがかわいそう!こんなことしたくないわね!」たまたまFさん宅に滞在して作業に参加したフランスの学生マリーの不平。そのマリーと話し込んで適当にさぼるわたし。…壁の向こう側に沿ってハイウェイが造られているそうで、時おり、猛スピードで走り抜ける車の音。後から聞けば、イスラエル軍のジープが壁の向こう側に停車し、かなりの時間、そんな私たちの作業を監視していったという。

<インゲン収穫>
20メートル四方のマメ畑の草取り終了。木陰ででかいペットボトルを回し飲みして水を補給。10歳くらいの息子が運んできたすばらしく甘い紅茶。となりの巨大なビニールハウスにはトマトが植えられる予定だが、いまは地面を黒いビニールで覆って、土つくり中。トマトは、天井からつるされたカギにぶらさがって8メートルのつるに成長し、ハウスいっぱいになるという。…その向かいにはニワトリ小屋。七面鳥やアヒルも。Fさんの息子がどこからかもいできたブドウの粒を投げると群がってきて食べる。実をこっちが食べて、種を投げればそれも食べる。もらったブドウの実のジューシーでおいしいこと。ついつい残りのブドウの実は私のお腹に、種だけがニワトリに。…三棟ほど続くりっぱなビニールハウスの向うに収穫を待つインゲンマメの畑。直径5メートル、高さ1.5メートルくらいはありそうな、円筒形の大きな水タンクのそばにある細長い畑。水タンクは、ハウスを含め、Fさんの畑全体にはりめぐらされたねずみ色のパイプで給水するシステムの中枢だ。数年前にイスラエル軍のブルドーザーで壊されたが、再建した、という。Fさんの有機農業は、原始的ゆえの伝統的有機農業などでは決してなく、農学校出のインテリが経営する、すみずみまで計算しつくされた小工場。
インゲンは、腰まである株ごと根からひっこぬいて、食べられるさやの上の部分を手でちぎりとり、バケツに放り込む。大小さまざま。大きく齧ったような穴のあいた虫食いも多い。バケツがどんどんいっぱいになり、畑は綺麗に、次の種まきを待つばかりになる。「これは楽しい!農家の嫁になれるかも!」とエリコ。

<カボチャ種まき>
翌日の朝だったと思う。わたしと同行の学生Yは、奥さんのGと、残りのメンバーは農園主Fさんと組んで種まき。・・・畑に作られた畝には、ねずみ色のパイプが埋まっていて、40センチくらいの間隔で穴があけられ、そこから水が噴出するようになっている。すでに給水は済ませてあって、穴のまわりの土だけが、湿って泥のよう。パイプの向こう側にY、こっち側に私がしゃがんで、その泥にピンク色のカボチャらしき種をひとつずつ突っ込んでいく。種袋には「アメリカ製」とある。ピンク色は、防カビ加工のせいだろう。ここもアメリカの巨大種子産業アグリビジネスの支配下かと思えば、どの家庭でも飲まれるペプシやコカコーラ製品とともに口惜しいかぎり。・・・有機農業実習サブゼミのメンバーでもあるYとの共同作業はぴったり息があって楽しいが、ふと見れば、Gさんは、はるかかなた、しゃがみもせず、中腰のまま、ひょいひょいと鳥が地面をつっつくように種を突っ込みながら歩いていく。こっちの3倍のスピード。「仕事、すばやいすね!」と叫べば、「はは、わたしは農民よ!もう20年以上もやってるからね!」と笑う。

<公害輸出の化学工場>
Gのすてきな笑顔の向うには、イスラエル政府が西岸地区を囲い込む「壁」。振り向いてニワトリ小屋の向うには、数年前に突然作られたという化学工場の壁がある。3メートルくらいはありそうな塀の上に監視ビデオ・カメラがあちこちに。…そう。FとG夫妻の有機農場は、ハイウェイ付の壁と化学工場に囲まれた袋小路にある。壁の向うにも夫妻の農地があるが、行き着くまでに半日かかるそうで、我々の滞在中には訪問できなかった。やはり数年前に、この化学工場から薬品が漏れ出す事故があり、Fさんの農場の作物は壊滅的打撃を受けたという。「何を造っているのかわからない」この化学工場は、イスラエルでも環境活動家によって問題にされ、その事故の時には、壁の両側にわたる広範囲な水資源の汚染調査なども行なわれたという。…工場内に聳え立つ鉄塔と大きなタンクのようなものを見るうちに、殺虫剤を作っていたインドのボパールの工場(アメリカ多国籍企業の子会社)が、あんな鉄塔の上のタンクから毒ガスを噴出する事故を起こして数千人殺したことを思い出し、浮き足立ってくる。有機農業だもんね!といいながら、おいしくいただいたこの畑のトマトやキュウリやブドウやプラム。それがかつての事故の残留化学物質で汚染されているとすれば…。当然Fさんたち家族の健康にも被害が。…

<バアル神のめぐみ>
日本語堪能なパレスチナ人Aさんによれば、この辺では、有機農業というか、大地の自然の力だけでできた作物を、「バアル」と呼ぶ。それは古代メソポタミアの大地の神、バアル神への信仰に由来するという。「このブドウはバアルだからおいしいよ!」エルサレム旧市街の道端に座る物売りのばあさんが、こんなふうに叫ぶとか。
イスラエル政府は、イスラエル領土内の農産物を買わせるべく、西岸地区からの農産物の搬入・販売を禁じているという。でもAさんによれば、エルサレムあたりの道端でお婆さんが売っているのは、みんな西岸地区の作物。おいしくて安いものは、法律では止められない。そんな有機農業のパワーが、この地域で平和を創る力にならないかしら・・・、というのが今回の私の訪問の目玉のひとつ。壁に反対するキャンペーン運動の中心となった団体は、パレスチナの環境団体のネットワークから生まれたというから、自然と自然に抱かれた人間たちの暮らしを守りたいという人々の素朴な気持ちは、この地域に平和を創ろうという動きの原動力になっているのかもしれない。

<聳え立つ入植地>
だが、せっかくの有機農業の畑も、壁で分断され、ブルドーザーでつぶされ、汚染工場で囲まれてしまったらどうだろう。Fさん宅では、おいしい夕食のあとに私たちがアイヌの踊り、阿波踊り、炭坑節を踊り、Fさんや息子たち、近所のお兄さんたちが肩を組んで並んで踊るパレスチナの踊り「ダブカ」を踊り、私たちも加わって習う。夜も更けたころに、とっておきのビデオ劇場が始まり、友人の結婚式でのFさんと息子の踊りの映像に続き、数年前にFさんの畑がブルドーザーでつぶされる一部始終が上映された。画面に見入るGさんの顔が怒りの記憶に歪む。それでもじっと見るFさん家族。抗議する弁護士。怒りのあまり、飛び出してきて抗議するFさん。当時、過激派と目されてイスラエル軍に狙撃されて弾が腕をかすめる事件があり、危険なので隠れているはずだったという。銃を持つイスラエル兵。カメラに向かって撮影中止を迫って来るイスラエル兵。数名の近所の村人たち。書類を示して抗議する弁護士。書類を示して抗議を拒絶するイスラエル軍将校。轟音とともに畑をつぶしていくブルドーザー。・・・英語がうまいFさんGさん夫妻の17歳の娘は、「おとうさんには言えないけど」いわゆるイスラム原理主義組織で、自爆攻撃を展開するハマース支持。そのときは断ったけど、自爆攻撃を頼まれたこともあるという。同行の学生たちは、台所仕事をいっしょにしながら、そんな秘密を聞き出した。イスラエル全土で、まして占領地では、軍事上の理由からの土地接収は合法である。合法という名の圧倒的な暴力を前に、若者たちにどんな希望が語れるか。
村を出て西岸地区を少しバスで走れば、すこし小高い丘の上はほとんどすべてイスラエルの入植地。城壁で囲まれた空中都市のような家々が聳え立ち、こちらを見下ろす。そんな入植地の深井戸で汲み上げられる水が、地下水脈を変え、パレスチナ農民の水まで奪いつつあるという。

<丘の上の大学>
西岸地区の名門大学として有名なビール・ゼイト大学。イスラエル占領政策への抵抗運動が高まったときには、4年間もイスラエル軍によって封鎖。自主的に集まった教職員と学生が、イスラエル軍が取り巻く塀の外で青空授業をやって自分たちの学問を守ったという大学は、丘の上にあった。大学で購入したビデオ(同大学の「教育の権利委員会」が作ったもの)に出てくる、数千の学生教職員と住民を日々悩ませたイスラエル軍のチェックポイントは、今はない。学内見学と学食での食事のあと、バスケットボールコートで学生たちと交流会。・・・こっちの学生YやKと、向こうの学生たちとの対話に途中から加わる。政治の話。虐殺があったジェニン出身の男子学生と、両親はラーマッラーに住む難民で、祖父母はもともとのイスラエル領内から追い出されてきたという女子学生とが対立。女子学生は、「和平合意」という呼び方自体にも反対する。西岸とガザ地区だけのパレスチナはありえない、イスラエルとの共存はありえない、という立場。みんな英語がうまくないので、途切れ途切れの対話。強硬派の女子学生は、よく見れば、瓜二つの双子の学生。英語につまるごとに交代して、2人でよくしゃべる。「アメリカは広島に原爆を落とした。あなたは、そんなアメリカを許せる?」「いや、許せない。」「そうでしょう。それでいいの。私たちも同じ。イスラエルのやったこと、やっていることは、決して許せない。核兵器をもつイスラエルをかばうアメリカに、パワーを持たせてはいけないわ。イランが核兵器をもつのはいいこと。いつもパレスチナ人を守ってくれたイラクのサッダームもとてもいい人だったわ。」いつでも、殉教覚悟なの、と言い出しかねない勢い。ベールをするでもなく、生髪を風に揺らしながら、「今日は今から親類の結婚式にいくの」とうれしそうに笑う18歳。・・・「うん、ちょっとまって。気もちはわかるけど、サッダーム政権は、恐ろしい独裁政権だったよ。ぼくのアラビア語の先生だったイラク人はね、…」そんな話からはじめて、「ポルトガル人侵略から数えて400年の南アフリカの植民地体制だってついに崩壊した。19世半ばに始まる日本の植民地侵略政府も、せいぜい100年足らずで倒れた。まだ100年にもならないイスラエルの植民地主義政権だって、きっと倒れるに決まってるよ。」と、卒業したゼミ生H姉妹にそっくりの彼女たちが吐き出す憎しみに、少しでも希望の風を吹き入れるべく、歴史講義を始めたが、しどろもどろでしまらない。今のパレスチナはあまりに絶望的すぎる。暴虐のアパルトヘイト体制を倒した人権を求める国際世論の波、日独伊のファシズムを倒した世界的なレジスタンスの波は、いまどこにあるか。イスラエル政府による国家をあげての軍事的な土地の奪い取り、占領地の軍事支配。これに抗議する声、命をかけて抵抗しようという人々の波はどこにあるか? むしろ「テロ」への一般的な非難だけが響いて、現存秩序が正当化されているのではないか?

<若者、自爆、原理主義>
怒りと憎しみに燃えた、というより、家族・隣人・同胞への愛、自己犠牲的な愛に溢れた若者ほど、自爆したがるのではないか。…それは、絶対的な悪にとりつかれたイスラエルの兵士や市民に対する、パレスチナの若者の究極の愛の姿かもしれないとさえ思えてくる。…君たちのやっていることはまちがっている。でも君たちはそのことをわかってくれない。わかってくれないということは、君たちがわたしの愛する人々を、これからもずっと苦しめ続けるということだ。ならば、わかってくれなくてもいい。わたしと遠いところに行こう。わたしの愛する人々を残して、わたしといっしょにこの世から去ろう。君たちの悪を、私の体と君たちの体でしっかりと抱きしめて。私たちの体を共通に貫く、爆弾に仕込まれたくぎやボルト・ナットでつなぎとめて。…君だけ消えろ、というのではない。愛と正義のために、いっしょに消えよう、というのだ。罪を犯した者を、一方的に処刑しようというのではない。恐るべき罪を犯し続けている者たちの罪をいっしょ背負って、この世から消えよう、というのだ。圧倒的な暴力によって徹底的に対話を拒まれてきた者たちの、ぎりぎりの対話の姿がここにある。いや、それは、対話ではないが、すくなくとも、対話の前提となる共通の土俵、平等な関係を創ろうとする抱擁だ。死の抱擁によってのみ実現するゼロの平等。…自分の死を捧げてまで平等な関係を創ろうとするそんな行為を愛と呼ばずして、何が愛だろうか。…このように考えてくると、「自爆テロ」攻撃のことを「卑劣な」などと呼べなくなる。あらゆる宗教の崇高な原理、人と人との絶対的な対等・平等という原理にのっとった、命をかけた崇高な行為のように思えてくる。いわゆる原理主義の組織が人々をひきつける魅力をもつとすれば、絶対的な不平等の世界の中にあっても、断固として平等な世界を求めていこうという、崇高な呼びかけ、そして、それを命をかけて実践する人々の姿があるからではあるまいか。


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