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::::: Y  旧植民地からの引き揚げ :::::


 1974年革命後の旧植民地からの「引き揚げ者(Os Retornados)」は、1981年人口センサスの時点でポルトガルに滞在していたものだけでも50万5千人であり、ポルトガル経由でブラジルやアメリカに渡った者、アンゴラやモザンビークの隣国、南アフリカに渡ったものを合わせれば、100万人以上になるとも言われている。(29)その結果、第5表からも確認できるように、1971-1980年代の入移民数は出移民数をはるかに上回るという事態となり、第4表のように、総人口の出移民による絶対的減少も回復する。(30)
 結果的にみれば、革命後の混乱が終息する1980年代半ばまでには、引き揚げ者問題は、ポルトガルの社会問題としては解決をみる。そしてこの引き揚げ者問題は、ポルトガル本土への受け入れ問題、とりわけ労働市場の吸収能力の問題として、フランスやイギリスなどの脱植民地化過程との比較問題などを提起しながら研究されてきた。(31)
 筆者はむしろそれを、植民地支配の解消にともなう自由な労働力の世界市場の形成の問題として考え、その後のアフリカ先住民系の移民の流入との連続性を重視して考えたい。いくつかの証言にあるように、独立後の内戦状況が、いわば戦争難民としての「引き揚げ者」を生み出した。(32)一方で、革命前のアフリカ系先住民とポルトガル系白人との差異を過少評価することはできないとしても、他方で、アフリカに渡ったポルトガル白人と、ポルトガルに残った白人との差異を過少評価することは、逆に人種主義の罠に陥ることになるように思われるのである。その意味では、「引き揚げ者」の問題は、二項対立図式では処理しきれない、植民地支配の問題性を提起しているように思われる。(33)



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::::: Z ポルトガル語圏アフリカからの移民流入 :::::


 引き揚げ者とは区別されるアフリカからの移民流入を考えるにあたって、まず、1970年代に入って増加し始め、以後1990年代半ばまでほぼ一貫して増加する、ポルトガルに居住する外国人に注目しよう。1978年までは、外国人の最大部分は、1960年代以来ほぼ2万人弱を維持していたヨーロッパ人が占めていたが、1979年にはアフリカ人が2万人を超え、ヨーロッパ人の比率をぬいて首位に立つ。アフリカ人人口はそのまま増加を続け、1994年には7万3千人となり、ヨーロッパ人人口4万2千人をはるかに超える。ちなみに、1970年代以後徐々に増加していたブラジル人人口は、1万9千人に達し、全外国人居住者は、15万7千人となっている(Barreto[1996]p.73, Quadro No.1.26)。
 このような1970年代以降の全体としての外国人居住者の増加が、すでに独裁体制末期から開始されていた欧米からの資本輸入と、経済開放政策に起因するものであることはいうまでもない。そしてアフリカの内戦状況と、一般的な社会資本等の貧困から、1970年代末以降、ポルトガル語圏アフリカの旧植民地地域からの流入が拡大していったのである。 もっとも、国際人口移動の観点からみれば、アフリカ全体からの移民流入は、1981-1990年の期間合計でもようやく1万2千人であり、同じ期間で少なくとも11万とされる、主としてヨーロッパからの流入(もとよりその大部分は帰還者)に対しては、いまだに、わずかなものに過ぎない。
(34)アフリカ系黒人の流入が問題になるのは、多分に人種主義的な要素を含む文化的な問題が含まれるからにほかならない。こうしてアフリカに対しては、移民労働者の受け入れ国となったポルトガルは、ヨーロッパのポルトガルからの移民の受け入れ国が直面したような様々の問題にも、同時に直面することになった。(35)
 Pires[1993]p.187は、このようなポルトガルのいわばアンビバレントな地位に関して、第1図のようなおもしろい図を描いている。
 ポルトガルの世界システムにおける位置は、このように、国際的な労働力移動の非対称的な流れの中で、中心部のEECと、周辺部をなすPALOP(ポルトガル語を公用語とする旧植民地のアフリカ諸国)とを結ぶ半中心の位置にあるというわけである。



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::::: [ 結びにかえて;パラダイム・シフト? :::::


以上、ポルトガルと呼ばれる地域の全歴史を対象として、この地域をめぐる世界的な人口移動について概観してきた。その整理においては、既存の研究に依拠しながらも、筆者の問題意識として、異常事態としての人口移動をどう制御するか、ではなく、人類史の営みの中での世界的な人権保障戦略の中に人口移動をどう位置づけるか、という問題をより具体的な形で提起しようと努めてきたつもりである。 その結果、もっとも古くまでさかのぼりうる自然資源を求めての入植活動という人の移動、そのような自由移動の対極にあって、移動の自由を完全に制限された奴隷、そして半ば自由な労働者の様々の形態から、基本的な移動の自由を保障された賃金労働者の登場へ、という人類史的な移動の自由の展開の基本線を、ポルトガルをめぐる歴史の展開の中で、きわめて不十分ながらも示すことができたと思う。 ポルトガルでの議論で、おそらく筆者の問題関心と重なりを見せるのは、Nunes[1997]が提起する、パラダイム・シフトの議論である。彼は、1980年代以来の欧米での既存の学問分野を越えた文化研究(cultural studies)の成果に足場を置きながら、既存の境界を固定化しがちな移民研究のあり方に警鐘を鳴らしつつ、文化的差異を越えた市民権や人権の実現と移動との関連を課題とすべきことを提唱している。 このような方向性は、すでにヨーロッパ全体の移民研究者の側から、1990年代初頭以来の、移民第2世代の登場と旧世代の高齢化、東からの新しい流れ、難民問題の深刻化、人種差別事件の頻発、といった事態の変化に対応して、一方で、コミュニティ研究の手法が主流となり、さらにこのよな事態に対応すべき国家の役割が厳しく問われるようになった、と総括されたパラダイムの転換と重なり合う(Working Group, European Migration Center [1992])。そして、移民とかかわる文化への関心を強め、多文化主義や人権教育の問題についての研究が目に付くようになったポルトガルの移民研究の動向とも一致する。(36)ポルトガルの移民研究は、その独自な歴史的経験のみならず、それに基づく研究の方向性の点からも、注目に値するものと言えよう。