2000年03月
法政大学出版局

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::::: T はじめに :::::


 「アメリカが入移民(immigrants)の国であるとすれば、ポルトガルは出移民(emigrants)の国である。」と言ったのは、ポルトガル移民の人類学的研究で名高いアメリカの研究者である(Brettell[1993],p.51)。なるほどポルトガルにおける移民研究はそのような発言を裏書きするに足るだけの相当の厚みを示している。加えて、近年のポルトガル語圏を中心とするアフリカからの移民の流入は、先進諸国と共通する外国人労働者問題を発生させ、旧来の移民問題に新しい相貌を加えるにいたった。
 本稿の課題は、第1に、そのようなポルトガルの移民研究の研究状況を、ポルトガルをめぐる国際的な人の移動という視点から一括し、筆者なりのしかたで整理、紹介することである。したがって本稿では、一次資料に基づいてポルトガルに関する移民の状況や歴史的展開について筆者の分析を示すことは意図していない。移民問題すなわち国境を越える人の移動に関する問題状況を紹介するために必要な限りで、既存の研究に基づいて具体的事実に触れるにとどめたい。また本稿で移民問題に関する網羅的な文献目録を収録することは意図していないが、最近の主要文献には出来るだけ言及するように努めた。
(1)
 筆者の基本的な問題関心は、世界史的にみてますます普遍的妥当性を得つつあるかにみえる人権という思想、それを保障しようとする制度、あるいは人権をめぐる社会運動を、社会科学的に分析することにある。その場合筆者は、国際社会(世界システムと言い換えてもいい)に規定された局地的な社会的権力の構造という視点から、人権の局地的な展開と構造を分析するという歴史社会学的な手法を採りたいと考えている。したがって、ポルトガルという地域をめぐる人口移動も、このような視点から考察せざるをえない。(2)
 ポルトガルは、15世紀の大航海時代にはじまる古い植民地支配の歴史をもつ。しかもそれ以来築かれた植民地帝国は、19世紀初めにブラジルを失いながらも、やがてアフリカに重点を移し、基本的に1974年の革命まで継続する。イギリスやフランスなどのかつての欧米列強、さらに日本のような新参の帝国主義と比べて、異常に長い植民地主義・帝国主義支配の歴史を持つと言わねばならない。筆者は、植民地を手放し、ヨーロッパ共同体の一員となることを選んだ現代ポルトガルの人権状況は、ポルトガルにおけるこのような植民地支配の歴史との関連で具体的に分析されるべきものと考えている。その際、人口移動に注目することは、重要な視点を与えてくれるはずである。このような人権研究の視角からポルトガルをめぐる人の移動に関して若干の問題提起をすることは本稿の第2の課題である。
 現在ポルトガルと呼ばれる地域をめぐる人口移動の歴史を全体として視野に入れ、人口移動の歴史的・類型的把握が可能になるように時代区分を行うならば、次のようなトピックが設定できるであろう。(3)すなわち、第1に、先史時代に始まり、いわゆるレコンキスタを経て13世紀半ばの中世国家確立から14世紀の中世国家の危機まで続くイベリア半島のこの地域への諸民族の移動・侵入・入植・追放。第2に、15世紀の大航海時代に始まり19世紀初めのブラジル独立とそれに続く奴隷貿易廃止に至るまで継続した、地球規模の植民地帝国のもとでの、アフリカやアジアの植民地への移民、そして最大の植民地であったブラジルへの奴隷を伴う入植移民。第3に、19世紀半ばから1950年代までのブラジルや北アメリカへの移民労働者の流出。第4に、1960年代以降のフランス、スイス、西ドイツなどヨーロッパへの移民労働者の流出。第5に、1974年4月革命以後のアフリカ植民地独立に伴う旧植民地からの引き揚げ者の流入。第6に、1980年代以降顕著になってきた旧ポルトガル領アフリカを中心とする第3世界諸国からの移民流入。
 これらのトピックは、いちおう時代区分のように順序だってはいるが、それぞれ重層的に連続しており、ある時点を画期として全く転換してしまうということでは必ずしもない。以下、この順で節を設け、研究動向を概観する。そして最後に、特に1990年代以後の移民研究の「パラダイム・シフト」について言及しつつ、筆者の問題提起的試論を締めくくることにしたい。



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::::: U 植民地帝国以前の民族移動 :::::


 現在のポルトガルと称される地域に関する人の移動を歴史的に考えるためには、ひとまず、15世紀に始まる植民地帝国の建設にまでさかのぼってみることに異論はあるまい。けれども、筆者は、最近日本でも復活の兆しがあるかにみえるような民族主義史観の罠に陥らないためには、たとえばMann[1986,1993]やSmith[1986]などの最近の歴史社会学者がやるように、歴史をさらに、人類史の発端にまでさかのぼってみることによって、近代の「民族」を対象化する必要があると考える。
 先史時代から15世紀まで歴史について、たとえばMata & Valerio[1994]は、8世紀初めのイベリア半島へのイスラム教徒の侵入と、13世紀半ばのイスラム教徒の追放(レコンキスタ終了)とを画期として、設定する。その結果、「ポルトガル以前;先史時代から8世紀まで」、「ポルトガル民族社会の原形;8-13世紀」、「ポルトガル民族社会の確立;13-15世紀」という三段階が区分されることになる(これらは、そのまま同書の1、2、3章の表題になっている)。多くの通史に共有されるこのような時代区分は、ポルトガルにおける標準的な歴史認識を示すものと思われる。また、それはポルトガル史を叙述するという必要からみれば、合理的なものでもあろう。けれども、より普遍的な人類史的視野から人の移動に注目する本稿の視角からは、イスラム教徒、すなわちアラブ人およびベルベル人の侵入と入植以前の諸民族の侵入と入植にも注目しておきたい。
 すなわち、紀元前3000年頃以降のいわゆる新石器時代の定住農耕民の出現と数多くのドルメンを残した巨石文化の登場、紀元前1000年頃以降のフェニキア人の入植、やや遅れてのケルト人の侵入と入植、紀元前6世紀以降のギリシャ人の入植、そして紀元前2世紀以降のローマ人の侵入とローマ帝国支配の進行といった経緯にも注目しておきたい。ローマ帝国支配は、紀元後5世紀まで、700年間にわたって続く。ローマ人の入植者は、コロニアと呼ばれる植民都市を、建設した。それは、先住民イベロ人あるいは、ローマ支配に先立つ700年の間のケルト人の入植によって形成されたケルト・イベロ人の居住区の中に、建設された。そうやって、住民のキリスト教化と言語のラテン化が進められた。やがて、5世紀には、ゲルマン民族の大移動によって、スエヴィ人の王国建設と入植が行われる。6世紀末には、それがイベリア半島を統一した西ゴート王国に吸収されて、8世紀初めまで、ほぼローマ帝国の支配のやり方を継承したとされるゲルマン系の王国支配が続くことになる。
 そしてこのような史実からは、次のようなことが指摘できる。第一に、イスラム教徒の侵入以前にも、この地は、たびたび異民族の侵入と入植、そして異民族支配を受けてきたこと、換言すれば、この地の歴史は、古代帝国の辺境植民地の歴史に他ならなかったことである。第二に、そこでの人の移動として、軍事的支配と徴税のためか、商業や金融業のためか、あるいは、奴隷を伴う農業経営のためか、いずれかの理由による支配者としての入植民の流入が見出されることである。そして第三に、これらの入植民に伴う奴隷の流入、あるいは奴隷化された先住民のこの地域からの流出が考えられる
(4)
 イスラム帝国の支配についても、最初の二点は、基本的にあてはまる。すなわち、この地は、巨大なイスラム帝国の辺境として征服され、アラブ人やベルベル人が支配者として入植し、さらにユダヤ教徒も流入した( Marques (ed.)[1993];pp.138-144)。ただし、第三点の奴隷の流入と流出に関しては、この地の農業経営のあり方の変化、すなわちいわゆる古代的な奴隷制あるいは隷農制の終焉と中世的な農奴の登場との関連で、検討すべき問題がある。(5)それは、ローマ時代以来の大農場における隷属農民と、後の荘園や農村共同体における農奴や平民身分の農民との連続性あるいは断絶の問題といってもよい。西ゴート王国時代の大農場におけるコロヌスたちは、イスラム教徒に征服されることによってむしろ解放されたと言われている。これに対して、キリスト教徒貴族たちの荘園や、コンセーリョと言われるキリスト教徒の農村共同体は、イスラム教徒が支配する地域に入植地を形成し、そのその領土を確保する手段として用いられ、レコンキスタの支柱になったとされている。13世紀のイスラム教徒の追放をはさんで、荘園や農村共同体がこのようにして拡大していく過程で、ポルトガル王国の基礎となる社会経済構造が作られていった。11世紀末から14世紀末までのボルゴーニャ王朝期、すなわち、いわゆる「ポルトガルの建国」から「中世王国の確立と危機」を経て、植民地帝国建設に乗り出すまでの時期は、この地域の農業経営において、すぐれて中世的な農奴あるいは封建小農が成立していく過程として捉えうるように思われる。15世紀になってからのポルトガルの植民地帝国化は、その意味で、ヨーロッパ規模の十字軍や東方植民、さらには16世紀日本の豊富秀吉の朝鮮侵略などと比較しうるような、封建小農を基礎とする植民地主義、封建的帝国主義として、古代帝国主義との対比において歴史社会学的に考察すべき問題を提起する。(6)



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::::: V 植民地帝国における奴隷を伴う入植移民 :::::


 ひとまず、15世紀初頭から19世紀初頭のブラジル独立までの400年間の、植民地帝国ポルトガルについて考えよう。この400年間にかなりの数の軍人や船乗り、宣教師、商人、移住者などが本国を後にし、金、香料、奴隷、染料、砂糖などを商う交易帝国が建設された。ポルトガルの植民地となった大西洋の諸島やブラジルに対しては、農業開発のための入植も行われた。(7)
 いわゆる大航海時代に始まる植民地帝国の建設は、ポルトガルの移民研究では、現代にまで続くポルトガル人の世界各地への「ディアスポラ(離散)」の起源とされてきた(たとえばSerrao[1977]p.85)。第1表に示されるような現代の「ポルトガル人」の世界分布がすべて直接この時代に発するものではない。北アメリカへの移住は19世紀、ヨーロッパへの移住は20世紀半ば以降のものである。
 けれども、ブラジルが独立する直前のポルトガル帝国の人口分布を示す第2表を見るならば、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの三大陸にまたがって世界に広がるポルトガル人というイメージの原像が、植民地帝国時代に発することがわかる。もっとも第2表は、植民地の非ポルトガル系住民人口をも含み、とりわけ3分の2以上のアフリカ系住民を含むブラジルの比重がポルトガル本国をしのぐまでになっているのであるが。(8)
 さらに第3表によって、ポルトガルの推定総人口の推移を見れば、14-15世紀のペストによる人口停滞を脱したあとの時代、16世紀からブラジルへの植民が盛んになった17世紀を経て18世紀の半ばにいたるまでの時期の大陸本国での人口の停滞は明らかであろう。その問題の時期について移民数の推計を示すのが第4表である。
 15世紀は、大西洋諸島を拠点とする対アフリカ貿易の時代とされている。ただし、それらの島では、小麦や砂糖の生産が試みられ、そのための移住が始まった。そして16世紀初頭から、南回り香料貿易のためのインド洋そしてアジアへの軍事・貿易拠点の軍事攻略政策が採用され、その限りでの拠点都市への入植が行われた。それと並行してキリスト教の布教も行われ日本にも達したことは周知であろう。16世紀前半には、毎年2000-2400人がインドへ移住したとも言われている。16世紀後半以降は、オランダなどの進出でアジアの香料貿易が衰退し、替わって移民の流れはブラジルへ向かった。16世紀末から17世紀初頭には、年間3000-5000人が流出したとも言われる。それは1620年には、8000人に達したとされる。1570年代から1670年代までのブラジルの「砂糖の時代」、それに続く1690年代から1760年代までの「金の時代」には、ブラジルへの移民の流れが殺到し、ポルトガル本国での農業労働力不足への懸念から、しばしば移住禁止や制限などの政策が取られた。初期の移住者には流刑者、異端審問を逃れる新キリスト教徒なども多く、ほとんどが男子青壮年であったとされている。(9)
 本稿の視角からは、このような交易帝国の建設が大規模な奴隷貿易を引き起こし、ついには、ブラジルなどでポルトガルからの入植民が経営する大規模な奴隷制を生み出したことに注目したい。すなわち、ヨーロッパ本国での封建的・農奴社会の確立を前提として、軍事侵略によって貿易拠点を築くやりかたでの対外進出による商業資本主義が発展した。それは、植民地では、古代世界にしばしば見られたような、奴隷を用いる古代的な大農場経営を再現させた。その結果、植民地と本国とを含む帝国の全体としては、半古代的・封建的資本主義ともいうべきものが形成されたことになる。そしてそれを媒介したのが、この時期の本国から植民地への入植民の移動であり、また奴隷貿易という形の植民地から植民地へのすぐれて暴力的な人口移動であった。アフリカ黒人の奴隷としてのブラジルへの流入は、16世紀に10万人、17世紀に60万人、18世紀に130万人、19世紀半ばの奴隷貿易禁止までに160万人、合計360万人と推定されている。(10)なお16世紀にポルトガル国内に流入した黒人奴隷は、20万―30万人とも言われ、当時のリスボン人口10万人のうち、1万人は黒人の家内奴隷だったとも言われている(Serrao[1997]p.97)。
 このような植民地帝国の建設は、14世紀末以降の中央集権化を前提とし、15世紀を通じて貴族権力に対抗して進行する国王への権力集中の中で進行し、そして15世紀末のいわゆる絶対王政の確立を経て、16世紀末までの「ポルトガルの絶頂(O apogeu portugues)」時代を創り出した。それは、国内での国王と貴族との対立、国外ではとりわけ隣国スペインとの対立という、互いに打ち消し合う力のベクトルを編成替えして外に向け、絶大な力を発揮させるという意味で、絶妙な平和共存の帝国政策であった。ローマ教皇の権力が、スペインとポルトガルによって地球を二分する条約によってこの平和を保証した。1580年から1640年までのスペインとの同君連合は、この二国の平和共存による帝国拡張競争路線が敷かれた段階で準備されていたとも言える。
 けれども北方では、すでに教皇権力を掘り崩す動き、宗教改革が強力に進行しつつあった。宗教改革の進展の中で、二帝国の平和共存の前提としての教皇権力が崩され、替わって、力の均衡によるヨーロッパの国民国家体系が登場しつつあった。このような状況のもとで、帝国の権益を脅かされていたポルトガルの貴族勢力の中から国王権力を生み出し、スペインに対抗して再独立を果たし、パワーゲームに参加することによって帝国の保全を図ろうとする動きが出てきたと考えられる。
 新しい国王権力は、イギリスとの同盟によって、帝国の植民地を次々と脅かしていたオランダや、隣国スペインと対抗するという道を選択した。17世紀後半には、工業化を通じて「自立」をめざす試みもあったが、やがて17世紀末には金を産出するようになったブラジル領有をイギリスとの同盟によって確保しつつ、織物工業によって世界の工場になりつつあったイギリス中心の国際分業の中での農産物(ぶどう酒)供給国となるという方向を鮮明にするようになった。こうして強力になってきた国王権力は、18世紀半ばには、旧来の貴族権力や聖職者権力に対抗して権力集中を図り、いわゆる啓蒙的絶対王政(いわゆるポンバルの改革)を実現した。すでにかげりをみせてきたブラジルの金生産とイギリスへの貿易赤字増加に対して、貿易独占、工業化推進の産業育成策がとられた。こうして18世紀後半に登場してきた新しい貴族層や都市民が、19世紀初めの自由主義革命を準備することになる。