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::::: W アメリカ大陸への労働移民 :::::


 18世紀末から19世紀初頭のフランス革命とそれに続くイベリア半島での戦争、戦火を逃れる国王や貴族のブラジル移住を意味した19世紀初めのリオ遷都、その結果、本国がブラジルの植民地のような様相を呈するようになった逆転現象、それに対して本国で起こった立憲王政を求める1820年の自由主義革命、それに対抗する1822年のブラジル独立・帝政樹立、といった諸事件、そしてそれらを背後で支えて自己の権益を確保しようとしたイギリス外交についてここで詳述することはできない。ここでは、自由主義立憲革命に続く19世紀前半の内戦を通じて、国王、貴族、聖職者の権力から新興ブルジョアジーへと権力が移行し、しかも、イギリスの介入などもあって不徹底に終わった内戦時のブルジョア改革の特殊性から、修道院財産を購入したブルジョアジーの領主化が進み、19世紀半ばには「半封建的寄生地主制」に基づく農業資本主義が、イギリス中心の自由貿易体制に組み込まれる形で成立した、とする通説を確認しておきたい。(11)
 ここではむしろ、19世紀初頭にいち早く奴隷貿易と奴隷制を禁止したイギリスによって、時には武力を用いて世界各国に広められた奴隷貿易廃止の圧力によって、1836年には植民地を含むポルトガルで、1850年には独立後のブラジルで奴隷貿易廃止令が出され、さらに1888年にはブラジルの奴隷制が完全に廃止されることによって、新しい労働力の世界市場が準備されたことに注目したい。(12)しかし、奴隷貿易が廃止されたばかりの自由貿易世界市場での労働力の移動は、さしあたりは、「契約労働」として始まり、それは、半ば不自由な労働力の市場であった。(13)
 1830年代からブラジルは「コーヒーの時代」に入り、奴隷貿易廃止の圧力のもとで、コーヒー労働者への需要が高まっていった。1830年代には、ポルトガルからの移民のほとんどはブラジルへ向かっていたと言われ、1840年代半ばにはリオデジャネイロには毎年3,000人強の移民が流入していたとされている。奴隷貿易廃止後の1855-1865年の10年間には、81,219人のポルトガルからの出移民のうち、68,998人(移民総数の86%)がブラジルへ向かったとされている(Serrao[1977]p.41)。 その後も、1880-1960年の80年間のポルトガルからの出移民総数のうち、90%を占める約147万人が南北アメリカ大陸に向かい、76%を占める約124万人はブラジルに向かったとされているように、1960年代に入るまでのポルトガル移民のほとんどは、ブラジルを目指したのである。(14)
 そして、すくなくとも19世紀末までにブラジルを主とするアメリカ大陸に向かったポルトガル移民のかなりの部分は、この「契約労働」に属する不自由労働に従事したものと思われる。(15)このような移民の窮状は、1870年代以降のヨーロッパの農業不況のもとでのポルトガル農村の貧困と合わせて、19世紀末の知識人の注目を集めた。移民は、「白い奴隷」あるいは「輸出用の人間家畜」などと呼ばれながらも、同時に、国家財政の破綻を救うほどの額にのぼりつつあった移民送金や、送金業務を担当する銀行の繁栄などが検討され、「農場と銀行だけのポルトガル」がしばしば批判された。(16)また、第一次世界大戦までの時期におけるイギリスのブラジルに対する資本輸出額の推移と、ポルトガルからブラジルへの移民の流れとが、かなりの程度一致した線を描くという事実は、自由貿易体制下のブラジルを舞台に、資本を提供するイギリス、労働力を提供するポルトガル、土地と自然を提供するブラジル、という3者の連関を示して興味深い。(17)
 なお、19世紀半ばの探検時代をへて、アフリカ植民地への関心が高まり、1890年代ころから、開発権を持つ独占的大会社が設立され、ポルトガル人が主人となりうるアフリカへの移民の可能性が議論されていることにも注目しておきたい。(18)
 第5表は、19世紀半ば以降のポルトガルからの出移民数を示している。第一次世界大戦で交通が寸断されるまでの、急速な出移民数の伸び、大戦後から世界恐慌までの時期、1920年代の大規模な出移民の回復、そして1930年代の減少、第二次世界大戦中の途絶を反映する1940年代のいっそうの減少、そして1950年代の1920年代に迫る水準への回復、といった趨勢を確認しておこう。このような全体の変動に貢献しているのが、ブラジルへの移民の流れの変動であること、またアメリカ合衆国への移民の流れは、1920年をピークに以後ほとんど目立たなくなることなどの1950年代までの特徴が、ほかの資料から確認できる( Serrao[1977]pp.48-49, Figura II) 。
 19世紀後半の移民のほとんどが農業に従事していた成人(14歳以上)男性の非識字者であった。女性の比率は、19世紀末の10年間でようやく20%に達し、1910年代に30%、1950年代にようやく40%に達している。農業従事者の比率は50%近かった1887-1890年から、1910年代には35%くらいまでに下がり、1940年代には20%を下回るようになった。1940年代から1950年代半ばまでの時期の職業構成は、女性の増加を反映して、主婦が30%、農業が20%弱のほかには、商業と土木建築が15%程度であわせて30%を占めるという興味深い構成になっている。そして教育の普及によって一般的な非識字者の比率も、1920年代には43%、1930年代には24%、1941-1960年の時期には、19%にまで下がっている。(19)
 言うまでもなく、このような移民の流れの増加と変動、移民たちの構成の変化は、19世紀半ばから1950年代までの世界市場と世界経済、そして二度の世界大戦による世界的な権力構造の巨大な変化を反映している。
 ポルトガルは、第一次世界大戦では1910年の共和制革命の直後の混乱の中で最終的には、共和制を承認したイギリス側に立って参戦した。けれども第二次世界大戦では、1933年にファシズムに比肩しうる「新国家(O Estado Novo)」体制を確立していたサラザール政権は、基本的に中立を維持した。第一次世界大戦の対独参戦は、ヨーロッパとアフリカ植民地での戦線への5万5千人の将兵の派遣と国家財政を逼迫させる戦費を必要としたが、ポルトガルはそれによって列強間の再分割政策で脅かされていたアフリカ植民地の確保に成功する。第二次世界大戦の中立も、植民地の確保という点では、同様の効果をもたらした。戦時の孤立はむしろ、伝統的なイギリスとの繋がりを離れて、植民地との間での閉鎖的な経済圏を確立するのに役立ったと言われている。
 一方、この時期にポルトガルからの移民の最大の受け入れ国となったブラジルは、第一次世界大戦ではイギリス側に、第二次世界大戦でも連合国側に立って参戦したものの、その権力構造の変化には、ポルトガルとの奇妙な類似が見られる。すなわち、1889年の共和制革命によってポルトガルよりも早く、帝政が打倒された後、反乱が連続する政治的混乱時代を経て、1930年の軍部の反乱と呼応したヴァルガス革命が、それに続く軍内部の反乱の鎮圧、共産党とファシズム政党との両勢力を競わせながら、最終的に両者を弾圧するやりかたで、1937年に「新国家」体制を樹立する。それは、1926年のポルトガルでの将軍の「革命宣言」による軍部の反乱による軍部政権樹立から、1933年の「新国家」体制確立までの経緯と同様である。さらに、ブラジルの「新国家」体制が、いわば植民地を内包する広大な領土の中央集権的統一と開発をめざしたことは、アフリカ植民地と一体化した経済圏を目指したポルトガルの場合と同様であろう。そしていずれの場合も、直接の戦火を免れ、国際競争にさらされることのなかった第二次世界大戦時の国際環境は、工業化と開発の進展という面ではプラスに働いた。
 1930年代および1940年代の移民数の減少は、大恐慌による求人難と戦争による交通途絶ばかりでなく、「新国家」体制の雇用吸収効果が働いた可能性もある。とはいえ、戦後のブラジルの民主制への復帰と、ポルトガルでの独裁体制の継続とを比較してみるならば、1950年代のブラジルへの移民の増加は、すでに相対的な自由を求める移民という色彩を帯びるにいたっていたと言えるかもしれない。1964年のブラジルでの軍事クーデターと軍事独裁への復帰以後、もちろん移民制限政策が取られたこともあって、ブラジルへの移民数は急減している。1955-1964年に年1万5千人のオーダーでブラジルに向かった移民の流れをちょうどそのまま吸収するかのように、1960年代半ば以降に急増するのがアメリカ合衆国とカナダへの移民である。(20)けれども、この流れは、むしろ、1960年代の欧米全体の経済の高度成長によって変動する世界的な労働市場の問題として、激増する対ヨーロッパの労働移民との関連で考察すべきであろう。



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::::: X ヨーロッパへの労働移民 :::::


 1960年代になってポルトガルから他のヨーロッパ諸国、とりわけフランスと西ドイツへの移民が急増する。これは、ポルトガルの移民史上かつてない数の空前の労働人口の流出となった。さしあたり、第4表で総人口、第5表で60年代の合法移民数を確認されたい。第5表は、出国側の統計に基づくいわゆる合法移民であるが、1960年代半ばから、とりわけフランスなど入国側の統計で把握されるいわゆる非合法移民が急増するようになる。その数は時には合法移民をはるかに上回るほどになった。たとえば、合法移民のピークは1966年の12万人(同年の非合法移民1万3千人)であるが、非合法移民のピークは1970年の10万7千人(同年の合法移民6万6千人)である。こうして、非合法移民をも含むポルトガル移民史上の出移民数のピークは、1970年で約17万3千人、ということになる。また、非合法移民を含む出移民は、1965年から1973年までの間、ずっと年10万人以上の水準を維持し、1961-1975年の合計で、155万5千人に達することになる。(21)
 このような大量の人口流出の結果、ポルトガルの国内総人口は、その一般的な自然増加の傾向にもかかわらず、対ヨーロッパ移民が急増する1964年から、絶対的に減少し始める。すなわち、1963年末の904万2千人をピークとして、翌1964年末には902万9千人へと減少を始め、1974年革命の直前の1973年末には、863万人を記録する。1963年末から9年間で実に40万人の人口減少ということになる(22)
 言うまでもなく、これは、いわゆる西ヨーロッパの高度成長に伴う労働力不足に対応して吸引されたものである。それらのほとんどは、肉体労働であり、土木建築などの建設作業、家内労働、工場労働であり、中には電気・機械などの熟練工もかなり含まれていた。たとえば、1972年のフランスにおけるポルトガル人労働者の41%が、土木・建築の公共事業、14%が衛生・家内サービス部門、10%が電気・機械工業、6%が農林漁業に従事していた。また西ドイツでもこの時期には主として肉体労働であったとされている(23)筆者は、この西ヨーロッパの労働市場が、むしろ自由を求める人々の自由な労働力の世界市場の形成という側面を持っていたことに注目したい。(24)
 すなわち、欧米での高度成長の1960年代から1973年の石油ショックまでの時代は、ポルトガルにとっては同時に、アフリカでの泥沼の植民地戦争の時代であった。1930年代以来の「農本主義」のサラザール体制は、国内の大土地所有制に手をつけることなく、特にアフリカの植民地開発によって帝国内部で完結するような自立的・閉鎖的な経済圏を造ろうとした。けれどもそのアフリカ開発は、植民地の自然的・人間的資源を酷使し、しばしば破壊するものであった。植民地の先住民は、土地を取り上げられ、強制労働制度によって酷使され、あるいは、南アフリカの鉱山などへの出稼ぎを余儀なくされた。第二次世界大戦後の世界的な植民地独立の動きに対して、サラザール体制は、徹底的な弾圧でもって答え、武装闘争に入った独立運動に対して、1961年以来、正規軍による戦争に突入したのである。なお、同年の末、インド軍がゴアなどインドに残る大航海時代以来のポルトガル植民地に侵攻し、「武力解放」したこともこの時期の世界的な権力構造の変化を示すものとして特筆すべきであろう。(25)
 巨額の費用を必要とする植民地戦争への対応としてサラザールは、植民地と本国との両方で外国資本の積極的な導入による工業化政策を進めた。こうして労組の自由な活動を禁じる独裁政権が保障する労働集約産業向けの低賃金を売り物にして、1960年代末からアメリカ、イギリス、西ドイツなどからかなりの資本を受け入れた。他方で、国内では7大金融グループによる資本集中が進行していった。植民地戦争は、その期間中、常に10万人以上の青壮年男子を動員し、動員された者を4年間にわたって拘束した。(26)
 植民地アフリカでの軍役、低賃金を約束された国内の工業、大土地所有制ゆえに自由な発展の余地がない国内農業。1960年代以降の対ヨーロッパ労働移民は、これらの条件を前にした生存戦略であって、同時に独裁政権に対する消極的抵抗を意味していたように思われるのである。(27)
 1973年の石油ショックに続く欧米での高度経済成長の挫折によって、世界中から労働力を吸収してきた欧米の労働市場は、収縮の兆しを見せ、「外国人労働者問題」が単なる失業問題ではなく、文化の問題に繋がる社会問題として、登場してくる。いわゆる多国籍企業の発展が新しい経済成長の方向として脚光を浴びた。それは、コンピューターの登場と普及に象徴されるいわゆるME化と呼ばれるような技術史上の大きな変化を基礎とするものであることにも注目すべきであろう。1970年代末から1980年代には、多国籍企業の「相互浸透」を可能にすべく、いわゆる新自由主義政策が採用されていった。規制緩和の観点から「福祉国家」が攻撃されると同時に、とりわけ非ヨーロッパ地域からの外国人労働者への規制が強化された。 ECの拡大からEUに至るヨーロッパ統合の動きの背景を、さしあたり以上のように押さえておこう。
 革命直後のポルトガルには、後述のアフリカ植民地のみならず、ヨーロッパからも大量の移民の帰還があり、出移民の流れは、急速に減少して1970年代半ばから1980年代半ばまでの時期には、1950年代初めの水準にまで落ちこむ。けれども、ポルトガルがECに加盟する1986年以降、とりわけスイスのような新しい流入先の貢献によって再びヨーロッパへの出移民の流れが上昇に転じ、カナダへの流入の増大などを加えて、1980年代末から1990年代半ばにかけて、出移民総数は年4万人以上の水準に達している。(28)
 このような出移民の新しい流れは、革命後の混乱期を経て、植民地帝国の歴史を清算し、ヨーロッパのポルトガルという道を歩み始めた1980年代以降のポルトガルの人々の希望と失望を反映するようで興味深い。だが革命後の人口移動については、さらに旧植民地アフリカとの関係を見ておく必要がある。